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25 浪人を膽澤城に配するの勅 桓武天皇(第五十代)

浪人ろうにん膽澤城いざわじょうはいするのみことのり(延曆二十一年正月 日本紀略

官軍薄伐、闢地瞻遠。宜發駿河甲斐相模武藏上總下總常陸信濃上野下野等國浪人四千人、配陸奥國膽澤城。

【謹譯】官軍かんぐん薄伐はくばつひらき、とおきをんとす。よろしく駿河するが甲斐か い相模さがみ武藏むさし上總かずさ下總しもふさ常陸ひたち信濃しなの上野こうずけ下野しもつけとうくに浪人ろうにん四千にんはっし、陸奥むつのくに膽澤城いざわじょうはいすべし。

【字句謹解】◯薄伐 せまつ ◯遠きを瞻んとす 遠方を望み見ようとする、益々ますます北進ほくしんしようとする意 ◯駿河 今の靜岡縣しずおかけんの一部 ◯甲斐 今の山梨けんあたる地方 ◯相模 今の神奈川縣かながわけんの大部分 ◯武藏 今の東京府及び埼玉けんの地方 ◯上總 今の千葉けんの一部 ◯下總 今の千葉けん・茨城けんの各一部 ◯常陸 今の茨城けん大部だいぶ ◯信濃 今の長野けんあたる ◯上野 今の群馬けんあたる ◯下野 今の栃木けんあたる地方 ◯浪人 浮浪人ふろうにんの意で、住地じゅうちを離れて他國を轉々てんてんする者のしょう、江戸時代の浪人ろうにん(牢人)とは別である ◯膽澤城 この時、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろの手で築かれた蝦夷え ぞたいする要塞ようさいで、陸中國りくちゅうのくに膽澤郡いざわぐん宇佐村うさむらにある。

〔注意〕蝦夷え ぞ景行けいこう天皇以來代々の天皇鎭壓ちんあつに苦心された。特に桓武かんむ天皇は前述した如く、叡慮えいりょなやませられ、多數たすうの兵士を派遣して勇將ゆうしょうもとこれ鎭定ちんていしようとし給ひ、膽澤城いざわじょうの築城、浪人四千人の派遣で、やつと蝦夷え ぞらんしずまつたとしょうせられてゐる。

【大意謹述】蝦夷え ぞを征伐する官軍かんぐんが敵に迫つて之を討つことにつとめてゐるが却々なかなか蝦夷え ぞ種族を一掃出來ぬ。よっづ土地を開いて足場として北進ほくしん計畫けいかくを進めようとしてゐる。ゆえちんは不足な軍兵ぐんぺいを補充する意味で、この際新築した陸奥むつのくに膽澤城いざわじょうに、駿河するが甲斐か い相模さがみ武藏むさし上總かずさ下總しもふさ常陸ひたち信濃しなの上野こうずけ下野しもつけなどの國に居る浮浪人ふろうにん四千人を送ることに決定した。

【備考】以上の英斷えいだんが、蝦夷え ぞ鎭定ちんていに少からぬ效果こうかがあつたことが、二十一年四月に及び、夷酋いしゅう大墓公おおはかのきみ阿氐利爲あ て り い盤具公はぐのきみ母禮も れらが、部下五百餘人よにんを率ゐて膽澤城いざわじょうきたり、降服こうふくを申込んだのでも知られる。阿氐利爲あ て り い母禮も れの二人は田村麻呂たむらまろに率ゐられて入洛じゅらくしたが、その際、朝廷は、右の二人が隨分ずいぶん皇軍こうぐんくるしめたことを理由にざんしょしようとした。ところが、田村麻呂たむらまろは、しきりに二しゅうあわれみ、助命をうた。けれども許されない。たうとう二しゅうられた。

 要するに、奥羽おうう確實かくじつに日本の版圖はんとに入つたのは、桓武かんむ天皇の時代で、大元帥だいげんすいであらせられた天皇の、偉大な御德おんとくによる所が多い。