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23 軍兵を調發するの勅 桓武天皇(第五十代)

軍兵ぐんぺい調發ちょうはつするのみことのり(延曆七年三月 續日本紀

調發東海東山坂東諸國歩騎五萬二千八百餘人。限來年三月、會於陸奥多賀城。其點兵者、先盡前般入軍經戰叙勳者、及常陸國神賤、然後簡點餘人堪弓馬者。

【謹譯】東海とうかい東山とうさん坂東ばんどう諸國しょこく歩騎ほ きまん二千八百にん調發ちょうはつす。來年らいねんがつかぎりて、陸奥むつのくに多賀城たがじょうかいすべし。へいてんするものは、前般ぜんぱんぐんたたかいて、くんじょせられたるものおよ常陸ひたちのくに神賤しんせんつくし、しかのち餘人よじん弓馬きゅうばたくみなるもの簡點かんてんせよ。

【字句謹解】◯東海 東海道のこと。〔註一〕參照 ◯東山 東山道とうさんどうのこと。〔註二〕參照 ◯坂東 今の關東かんとう地方の意。〔註三〕參照 ◯歩騎 歩兵と騎兵 ◯調發 諸國から選んで召集しょうしゅうする ◯多賀城 神龜じんき元年に大野東人おおぬのあずまびとが完成したとつたへる要塞ようさいで、前述して置いた ◯前般 過去に於いての意 ◯勳に叙せらる 何かのこうがあつてしょうせられた者 ◯神賤 神社に奉仕する奴隷の一種を指す ◯簡點 選び出して使用する。

〔註一〕東海 東海道とは本州の中央にくらいして太平洋に面した國々のしょう、普通、伊賀い が伊勢い せ志摩し ま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが甲斐か い伊豆い ず相模さがみ武藏むさし安房あ わ上總かずさ下總しもふさ常陸ひたちの十五國をいふ。京師けいしから東方の海に面した道の意。

〔註二〕東山 東山道とうさんどうとは本州の東北部にあた山國やまぐにの意で、近江おうみ美濃み の飛騨ひ だ信濃しなの上野こうずけ下野しもつけ磐城いわき岩代いわしろ陸前りくぜん陸中りくちゅう陸奥む つ羽前うぜん羽後う ごの十三國を指す。

〔註三〕坂東 坂東ばんどうとは相模國さがみのくに足柄山あしがらやま以東の意。普通には相模さがみ武藏むさし上總かずさ下總しもふさ常陸ひたち上野こうずけ下野しもつけ陸奥む つの八國を坂東ばんどうこくといふが、時にはそれに安房あ わを加へて坂東九國、更に出羽で わを加へて坂東十國などといふ。

【大意謹述】今囘こんかい蝦夷え ぞの勢力を一掃するために、東海道東山道とうさんどう坂東ばんどう諸國から、歩兵・騎兵合計五まん二千八百餘人よにんを選んで、召集しょうしゅうすることに決定した。この者共ものどもは來年の三月までに、陸奥むつのくに多賀城たがじょうに集合させなければならない。兵を選ぶ標準としては、づ過去に於いて軍籍ぐんせきにあり、實戰じっせん經驗けいけんを持つてゐてこうしょうせられた者、及び常陸ひたちのくにの各神社に仕へる身分の低い者を全部り、不足な部分は、その他の射術しゃじゅつ馬術の上手な者を選ぶやうに心掛けよ。

【備考】光仁こうにん天皇遺業いぎょうぎ、日本の北進ほくしん政策に邁進まいしんせられた桓武かんむ天皇は、徹底的に蝦夷え ぞ種族を一掃し、あるい同化どうかしようとされたのである。ここ兵卒へいそつ徵發ちょうはつするについても、並々ならぬ注意をはらはれ、優秀な軍隊を作りあげようとせられた思召おぼしめしのほどが、明白に現れてゐる。

 それ程、力を入れられたにかかわらず、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろを起用さるる迄は、蝦夷え ぞ征討の事業も捗々はかばかしく進まなかつた。それはすでに述べたやうに、公卿く げ文弱化ぶんじゃくかによるのであつて、多治比た じ ひ藤原ふじはら大伴おおともらの諸將軍は、いつも失敗ばかりした。中にも、紀古佐美きのこさみは、征東せいとう大使たいしの重任にゐながら、蝦夷え ぞ勇猛ゆうもうを恐れ、衣川ころもがわからきの方へは、進み得ないので、窮餘きゅうよの一策として、大勝の事實じじつ虛構きょこうして、朝廷をあざむいた。そのめ、れは、見苦しくも、所罰しょばつされたのである。かうしたにが經驗けいけんを重ねた結果、桓武かんむ天皇は、將軍の人選に力を入れ、ここ延曆えんりゃく十三年に至り、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろを起用された。彼れは、左京さきょう大夫たいふ坂上刈田麻呂さかのうえのかりたまろの子で、身長五尺八寸あり、眼光するどく、髭髯ひ げ金線きんせんのやうに光つてゐた。そのいかるときは、鬼神きしんも、おののき、笑ふときは、小兒しょうにもなづくといふ天成てんせいの武人だつた。

 れは最初、征東せいとう大使たいし大伴弟麻呂おおとものおとまろのもとに、副使として、蝦夷え ぞ征伐におもむいた。その策戰さくせんは、文弱流ぶんじゃくりゅう公卿く げことなり、敵の急所をよくいたので、連戰連勝した。その結果、敵首てきしゅ四百五十餘級よきゅう捕虜ほりょすう十人をかぞへるに至つた。右の軍功ぐんこうにより、彼れはじゅ近衞權中將このえのごんのちゅうじょうに昇進、延曆えんりゃく二十年にも、再び蝦夷え ぞ征伐をし、到頭とうとう、その巢窟そうくつくつがえした。その翌年、彼れは、陸奥む つ膽澤城いざわじょうを作り、そこへ鎭守府ちんじゅふを移したのである。同二十二年、更に志波城しわじょうを築いて、蝦夷え ぞ種族の暴發ぼうはつする場合に備へた。かうして、日本の北進政策は著々ちゃくちゃく、成功の歩みをつづけゆくことが出來た。