22-1 北陸道に警虞を命ずるの勅 光仁天皇(第四十九代)

北陸道ほくりくどう警虞けいぐめいずるのみことのり(寶龜十一年七月 續日本紀

其の一

筑紫太宰、僻居西海、諸蕃朝貢舟檝相望。由是簡練士馬、精銳甲兵、以示威武、以備非常。今北陸道亦供蕃客。所有軍兵未曾敎習、屬徵發、全無堪用。安必思危、豈合如此。宜准太宰依式警虞。須緣海村邑、見賊來過者、當卽差使速申於國、國知賊船者、長官以下、急向國衙、應事集議、令管內警虞且行且奏。

【謹譯】筑紫つくし太宰だざいは、西海さいかい僻居へききょし、諸蕃しょばん朝貢ちょうこう舟檝しゅうしゅうあいのぞむ。これつて士馬し ば簡練かんれんし、甲兵こうへい精銳せいえいにし、もっ威武い ぶしめし、もっ非常ひじょうそなふ。いま北陸道ほくりくどうまた蕃客ばんかくそなふ。ゆうするところ軍兵ぐんぴょういまかつ敎習きょうしゅうせず、ことあたつて徵發ちょうはつするも、まったようゆるなし。やすらかにしてかならあやうきおもふ、あにかくごときにはんや。よろしく太宰だざいじゅんじ、しきつて警虞けいぐすべし。すべから緣海えんかい村邑そんゆうぞく來過らいかするをたるものは、まさすなわ使つかいつかわしてくにもうし、くに賊船ぞくせんらば、長官ちょうかん以下い かただち國衙こくがむかひ、ことおうじて集議しゅうぎし、管內かんだい警虞けいぐそうせしむべし。

【字句謹解】◯太宰 太宰府だざいふのこと ◯西海に僻居し 西海さいかい方面にかたよつて中央文化から遙か遠い場所にある ◯諸蕃朝貢 ばんとは外國の意、太宰府だざいふ西海さいかいしずめると同時に外交上の事務にあずかつてゐたから、諸外國が貢物みつぎもの持參じさんしたのである ◯舟檝相望む 大船おおふね小舟こぶね續々ぞくぞく此處こ こ彼處かしこから到る形容、舟檝しゅうしゅう舟楫しゅうしゅうとも書く ◯士馬を簡練し 軍兵ぐんぺいや軍馬をよく敎練きょうれんする ◯甲兵を精銳にし 武器や武具を何時でも役立つやうきびきびと用意しておく事 ◯威武を示し 我が兵の、威勢の强大なことを諸外人に知らせる ◯非常に備ふ まん一の時のために平常から準備する ◯北陸道 本州の北方、日本海に面する地方のしょうで、若狭わかさ越前えちぜん加賀か が能登の と越中えっちゅう越後えちご佐渡さ どの七國から成る ◯事に屬つて 必要な時に至つて ◯徵發 諸國から集める ◯安らかにして必ず危を思ふ 平和な時代にあつて國難こくなん豫想よそうし、そのもと萬般ばんぱんの設備をする ◯太宰に准じ 太宰府だざいふ樣式ようしきしたがふ ◯警虞 まん一の場合の用意をする ◯緣海の村邑 海に面した村里 ◯來過 近邊きんぺんを通過すること ◯國衙 國の役所 ◯管內 自己の管轄かんかつ區內くない

〔注意〕詔勅しょうちょくじょうから當時とうじの不安な世相に就ては『諸國しょこく警固けいごみことのり』(光仁天皇寶龜十一年七月、續日本紀謹述きんじゅつの際の〔注意〕の項を參照さんしょうのこと。

【大意謹述】筑紫つくしにある太宰府だざいふは、我が西方の海に臨み、中央文化から遠く離れた場所にり、諸外國の船が貢物みつぎもの持參じさんするために、大小の船舶がはげしく出入でいりする。したがつてその間に如何い かなる不慮の事態が生じないとも限らない。ゆえに平生、軍隊・軍馬を敎練きょうれんし、武器・武具を何日い つでも使用出來るやうに手入ていれして、我が兵勢へいぜいの大なることを示し、まん一の場合に備へてある。現在は、北陸道ほくりくどう方面にも筑紫と同じく外國の船舶が見えるやうになつた。しかしその地方にゐる兵は少しも非常時の敎練きょうれんを行はず、必要なことがあつて、土地の人々を召集しょうしゅうしても、國家の重大事件に役に立つものはない。平和な時代に非常時を豫想よそうして萬事ばんじの準備をするのが正しい政策であると、昔から言はれてゐる。現在の北陸方面の兵勢へいぜいは決してこの正しいことばに合致しない。ちんはここに於いて太宰府だざいふ樣式ようしきしたがひ、まん一にあたつて十分國防こくぼうを完全につくせるやうにしなければならないと思ふ。し海に面した村里で、賊船ぞくせんの通過する姿を見た者は、使つかい國司こくしのところまで急派きゅうはして報告し、土民どみん一同が賊船ぞくせんが近海を航行してゐるに相違ないと知つたならば、長官以下が全部役所に集合して、前後策を考へ、管轄かんかつ區域內くいきないの警戒を嚴重げんじゅうにする一方、朝廷にも、そのよし奏上そうじょうするやうに至さなければならない。

【備考】當時とうじ、九州方面では、隼人はやとらんほとんどなくなつてゐた。したがつて太宰府だざいふは、主として外交方面のことを取扱ひ、まるで外交官廳かんちょうそのものの如くなつた形である。その役員は、主帥しゅそつ一人、そつ一人、大貳だいに一人、少貳しょうに二人、以下多くの官吏かんりがをり、のちには太宰帥だざいのそつ親王しんのうが任ぜられるやうにさへなつた。「西の御門みかど」としょうせられたのも偶然ではない。太宰府にも、時勢じせい上、多少の變遷へんせんがあつて、天平てんぴょう十四年には、一時、これをはいし、筑前國司ちくぜんのこくし所轄しょかつとしたこともある。それは退嬰たいえい外交のためかと思はれる。が、天平十五年、新たに鎭西府ちんぜいふを置き、石川加美いしかわのかみを將軍に大伴百世おおとものももよを副將軍に任命した、翌十六年には、造兵ぞうへい鍛冶か じの二をやめたが、十七年、再び太宰府を復活し、邊防へんぼうを固める事となつた。それによつても、太宰府の重要性がわかる。

 詔勅しょうちょく中、北陸方面の海岸線を警戒すべき旨が見えてゐるが、當時とうじ寶龜ほうき二年以來、折々きた渤海ぼっかいの使節が、日本海岸に到著とうちゃくするのを常としたからでもあつたらう。それから新羅しらぎとの外交關係かんけいも、圓滑えんかつき、日本にたいして執つた新羅しらぎの態度は、往々おうおう禮意れいいの到らぬところなどがあつたので、韓國方面にも、備へる必要が存在した事と思はれる。