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19 征東鎭狄兩將軍をして夷を伐たしむるの勅 光仁天皇(第四十九代)

征東せいとう鎭狄ちんてきりょう將軍しょうぐんをしてえびすたしむるのみことのり(寶龜十一年五月 續日本紀

狂賊亂常、侵擾邊境。烽燧多虞、斥候失守。今遣征東竝鎭狄將軍、分道征討、期日會衆、事須文武盡謀、將帥竭力、刈夷奸軌、誅戮元凶。宜廣募進士、早致軍所、若感激風雲、奮勵忠勇、情願自效、特錄名貢、平定之後、擢以不次。

【謹譯】狂賊きょうぞくつねみだし、邊境へんきょう侵擾しんじょうす。烽燧ほうすいうれいおおくし、斥候せっこうまもりうしなへり。いま征東せいとうならび鎭狄ちんてき將軍しょうぐんつかわして、みちわかつて征討せいとうす。期日きじつしゅうかいし、ことすべから文武ぶんぶことごとはかり、將帥しょうすいちからつくし、奸軌かんき刈夷がいいして、元凶げんきょう誅戮ちゅうりくすべし。よろしくひろ進士しんしつのり、はや軍所ぐんしょいたすべきなり。風雲ふううん感激かんげきし、忠勇ちゅうゆう奮勵ふんれいし、じょうおのずかいたさんことをねがふものは、とくしるしてこうし、平定へいていのちぬきんづるに不次ふ じもってせん。

【字句謹解】◯狂賊 奥羽おうう地方の蝦夷え ぞ種族の事、皇化こうかそむき、邊境へんきょうを騒がしてやまないところから、狂賊きょうぞくふ ◯邊境 國境に同じ ◯侵擾 侵入してかきみだす ◯烽燧 のろしの事 ◯鎭狄 未開・野蠻やばん蝦夷え ぞ種族を鎭定ちんていする義 ◯奸軌 わるだくみ ◯刈夷 刈りつくす ◯元凶 夷族いぞくのかしら ◯進士 支那し なで人材登用の試驗しけん及第きゅうだいしたものを進士しんしつた。日本でも、中古期に支那し なならひ、文章生もんしょうせい進士しんししょうした。つまり、官吏かんりとして有望な秀才を意味するが、ここでは主に軍事上の秀才を意味す ◯軍所 兵營へいえいの事 ◯風雲 風吹き雲起ること、すなわ事變じへんの意味 ◯效さん 努力する意 ◯ 推擧すいきょする義 ◯不次 順序をないこと。

【大意謹述】奥羽おううに於ける物狂ものぐるはしい蝦夷え ぞ賊徒ぞくとが、平和をみだし、國境に侵入して、騒ぎ立てるために、度々、へんを報ずるの烽火のろしがあがつて、憂ふべき事態を續生ぞくせいし、敵情てきじょう偵察にあたるべきものが、大切な守りを失つたといふ有樣ありさまだと聞く。つて今、征東せいとう將軍及び鎭狄ちんてき將軍を物騒がしい地方へおもむかしめ、道を分けて、各方面から、狂賊きょうぞく征討せいとうすべきことを命じた。一定の期日には、相違そういなく出發しゅっぱつせよ。ほよく人々をあつめて、文事ぶんじ武事ぶ じ雙方そうほうわたり、十分のを絞り、大將たるものは、征討に全力を注いで、狂賊きょうぞくわるだくみを根こそぎに刈り取り、その首領をちゅうすべきである。それについては、ひろく軍事方面の秀才を募り、早く兵營へいえいを作り、充實じゅうじつを計らねばならぬ。しそれらのうちに於て、今度の事變じへんに感激し、忠勇ちゅうゆうはげんで、衷心ちゅうしんから國家に生命を捧ぐべく、特別の力を致したものは、その姓名を記して官に推擧すいきょし、事變じへんしずまつてから、拔擢ばってきして、よき地位に任用するであらう。

【備考】アイヌ蝦夷)は、隼人はやとと共に、天孫てんそん民族のもとにおいて、最も同化し難い性質を持つてゐた。隼人はやとは頑固なところがあり、アイヌ體質たいしつ及び生活をことにしたてんがあるので、容易に同化しない。そのため、長い間の努力―十すう世紀にわたる―がはらはれたのであつた。アイヌ占據せんきょした東北地方の開拓は、孝德こうとく天皇の時代から行はれ、元明げんみょう天皇の時代には、日本民族が北進して、アイヌのうちには、山岳地帶ちたいに逃れたものもある。かうして種々しゅじゅアイヌを手なづけて來たので、靈龜れいき元年には、陸奥む つ出羽で わ蝦夷え ぞ入貢にゅうこうするに至つた。けれどもそれは極少數しょうすうで、大部分は却々なかなか屈從くつじゅうしない。度々、抵抗を試みて、養老ようろう四年には按察使あ ぜ ち上毛廣人かみつけのひろひとを殺した。つて朝廷では阿部駿河あべのするが鎭狄ちんてき將軍とし、鎭撫ちんぶあたらしめられた。當時とうじ出羽で わ國司こくし大分だいぶアイヌ懷柔かいじゅうに力を入れて次第に風土を開拓したが、陸奥む つ方面は却々なかなか開けない。聖武しょうむ天皇神龜じんき元年に至つてようや多賀城たがじょうを設け、日本民族根據こんきょとしたのである。

 多賀城たがじょうは、陸前りくぜん宮城郡みやぎぐん多賀城たがじょうむら大字おおあざ市川いちかわにある。郭構かくがまへは、浮島うきしま市川いちかわの二村にまたがり、北には、加瀨沼かせぬまを控へてゐる。今日も、四邊あたり土壘どるいのこつてゐて、當時とうじ樣子ようす想見そうけんせしめる。さて日本民族は、この城を力にほ北進し、陸奥按察使むつのあぜち大野東人おおぬのあずまびとの手で、多賀城たがじょうから出羽で わ玉野たまのに達する道を開き、また移住民のことにも相當そうとう苦心した。罪人・奴婢ぬ ひ及び浪人ろうにん二千人を同地方に送り、勢力範圍はんい擴張かくちょうしたのである。かうして光仁こうにん天皇の時代に及んだ。今、蝦夷え ぞ征討の經過けいかについて語ると、左の如くである。

(一)寶龜ほうきのはじめ、蝦夷え ぞが少しく動搖どうようした。(二)寶龜ほうき三年、下野しもつけの民が課役かえきまぬがれるため陸奥む つへ逃れたので、陸奥む つ下野しもつけ兩國司りょうこくしが之を調べた。(三)同五年、太平洋方面にゐる蝦夷え ぞが騒ぎ出して、桃生城もものじょうを攻め、討伐軍は之を鎭定ちんていした。(四)同六年、又蝦夷え ぞが騒いだ。(五)同七年、陸奥む つ出羽で わ二國が聯合軍れんごうぐんを作り、蝦夷え ぞを攻め立てた。その際、出羽で わ軍は敗退、陸奥む つ軍は年のくれに敵のつた膽澤いざわ攻撃こうげきした。(六)同八年、また蝦夷え ぞ征討を續行ぞっこう出羽で わ方面の官軍かんぐんは敗退した。かく大體だいたいの上から見ると、蝦夷え ぞ兵事へいじにおいて、抵抗力つよ却々なかなか、屈しなかつたのである。(七)同十一年、蝦夷え ぞらんを起し、按察使あ ぜ ち紀廣純きのひろずみ伊治城いじじょうかこんで殺した。陸奥むつのすけ大伴眞綱おおとものまつなからくも逃れて、多賀城たがじょうり、それから屯田とんでん從事じゅうじしてゐた民を見捨てて、逃亡したから、敵は思ふまま掠奪りゃくだつをしたのである。つて朝廷は蝦夷え ぞ征討のため、藤原繼繩ふじはらのつぐただ征東せいとう大使とし、大伴益立おおとものましたち紀古佐美きのこさみを副使とし、更に大伴眞綱おおとものまつな陸奥む つ鎭守ちんじゅ副將軍に、阿倍家麻呂あべのいえまろ出羽で わ鎭狄ちんてき將軍に任じたのである。ここ奉掲ほうけいした詔勅しょうちょく征東せいとう將軍・鎭狄ちんてき將軍とあるのは、以上の人々である。

 ところが、ここに一つの困難な事態を生じた。それは、征東せいとう鎭狄ちんてきあたる將軍以下の人々が、優柔化ゆうじゅうかして戰爭を忌避き ひし、これを喜ばぬ傾向を示したのである。九月にり、藤原小黑麻呂ふじはらのおぐろまろ繼繩つぐただに代つて、征東せいとう大使となつたが、萬事ばんじ捗々はかばかしく進行しない。十月にり、たまわつた勅書ちょくしょによると、「今月二十二日の奏狀そうじょうて、使つかいたちが遲延ちえんして、時宜じ ぎを失つたことを知つた。將軍は歩騎ほ き數萬すうまん人をようして、賊地ぞくちに侵入するの期を度々そうしたので、今日、ぞくは平定したものと考へてゐた。ところが、今年こんねんは征討することが出來ぬといふ上奏じょうそうに接した。夏は草が茂りすぎていけない、冬はうわぎが乏しくて困ると巧みにつてのけてぐづぐづしてゐる。それでは、いつの日に賊を平げることが出來ようか」と仰せられてゐる。こんな具合で、公卿く げらの多くの者は、文弱ぶんじゃくしっし、最早もはや、物の用に立つものが極少かつた。政權せいけん武門ぶもんに移るやうになつた有力な一因は、全くここにある。

 それにしても、公卿く げらは、英明えいめい光仁こうにん天皇いただき、その內外政務の改革に、軍備の充實じゅうじつ銳意えいいあらせらるるを知つたならば、たとへ、勇氣に乏しくとも、一身をなげうつて、征夷せいい事業に邁進まいしんしなくてはならなかつた。ここ奉掲ほうけいした詔勅しょうちょく拜讀はいどくするものは、誰も國家のため、一身を犠牲とせねばやまない、强き感激に打たれるであらう。