18-2 惠美押勝誅伐の詔 淳仁天皇(第四十七代)

惠美押勝えみのおしかつ誅伐ちゅうばつみことのり(第二段)(天平寶字八年九月 續日本紀

流仁仲末呂惡狀。然先、毎事家利。此、唯己獨乃未朝廷勢力、賞罰事末仁、兄豐成朝臣奏賜流仁、位退多末比天、是年己呂在。然仲末呂家利止、本大臣仕奉之家流、諸聞食宣。

【謹譯】これるに、仲末呂なかまろこころさかしまきたなきさまりぬ。ればさきにしかもうししことは、毎事ことごとかたへつらひてありけり。これおもへば、おのれひとりのみ朝廷みかど勢力いきおいて、賞罰しょうばつことをひたぶるにおのほしきままにおこなはむとおもひて、あに豐成とよなり朝臣あそみいつわりてしこもうたまへるによりて、くらい退きたまひてとしとしごろありつ。しかるにいまあきらかに仲末呂なかまろいつわりにありけりとりて、もと大臣おおおみくらいつかたてまつりしけることを、もろもろきこしめさへとる。

【字句謹解】◯先にしか奏しし事 仲麻呂なかまろの兄の豐成とよなり奈良麻呂な ら ま ろの一味だと奏上そうじょうし、又、道鏡どうきょう君側くんそくから退くべき事を奏上そうじょうした二つのことを指す ◯毎事に すべて、全部の意 ◯奸み諂ひて 曲つた心を持つて機嫌をとる ◯賞罰の事 宮臣きゅうしんの進退にかんする權利けんり ◯兄豐成朝臣 仲麻呂なかまろの兄で、仲麻呂なかまろざんせられて太宰員外帥だざいのいんげのそち左遷させんさせられた人。〔註一〕參照 ◯讒ぢ奏し 無實むじつの罪におとしいれる ◯位を退き 右大臣から太宰員外帥だざいのいんげのそちにおとされたこと ◯年の年ごろ 長い年月ねんげつの意。豐成とよなり左遷させんみことのり天平てんぴょう寶字ほうじ元年七月にはっせられてゐるから、約八年以前である ◯本の大臣の位 『日本紀しょくにほんぎ』には、これにかんして「寶字ほうじ八年九月戊申つちのえさる太宰員外だざいのいんげしょう藤原朝臣ふじはらのあそみ豐成とよなりを以て、ふくして右大臣となし、帶刀たてわき四十人をたまふ。甲寅きのえとらじゅさずく云々」とある ◯ 諸神しょしんのこと。

〔註一〕兄豐成朝臣 藤原豐成ふじはらのとよなりは右大臣武智麻呂む ち ま ろ長子ちょうしで、仲麻呂なかまろの兄である。弟の仲麻呂なかまろとはことな實直じっちょく一方の人だつた。累進るいしんして遂に右大臣に至つた。道祖王ふなどおう廢太子はいたいしの事が行はれると、豐成とよなり鹽燒王しおやきおうを立てようとしたが、弟の仲麻呂なかまろしたがはず、自己の女婿じょせいあた大炊王おおいおうを立てた。當時とうじ豐成とよなりの人望高く、仲麻呂なかまろは常に之を中傷しようと心懸けてゐると、橘奈良麻呂たちばなのならまろらんが起つた。仲麻呂なかまろはこれこそ絕好ぜっこう機會きかいだと、豐成とよなりの子の乙繩おとなわ奈良麻呂な ら ま ろと友人であるのを口實こうじつとして遂に太宰員外帥だざいのいんげのそち左遷させんさせた。その後仲麻呂なかまろはんし亡びたにつれ、豐成とよなりは再び右大臣に登つたのである。彼は弟仲麻呂なかまろ行爲こういは藤原一門の光榮こうえいけがすものだとし、父武智麻呂む ち ま ろたまはつた功封こうほう還附かんぷして天下にしゃした。難波なにわ大臣だいじん又は横佩よこはき大臣だいじんとして知られてゐるのはこの人のことである。

【大意謹述】今朝廷にはんして擧兵きょへいした仲麻呂なかまろ樣子ようすを見て、始めてその內心がまがり、言行げんこうに表裏あることを知つた。考へて見れば以前そうしたいろいろの事は、全部れの曲つた心から出たのであつて、朝廷の御機嫌取りに勝手なことを言つたに相違そういない。このてんを考慮すると、その行爲こういは平常から、自分だけが朝廷に於いて勢力を、自分に都合がよいやうに廷臣ていしんの進退を左右するけんを行はうとしたことがよくわかる。兄の豐成とよなり朝臣あそみいつわつて讒言ざんげんし、右大臣の榮職えいしょくから太宰員外帥だざいのいんげのそち左遷させんさるるに至らしめたのも、れの仕業しわざだ。その間八年をたのであつた。ただし現在となつては明らかに豐成とよなり左遷させん仲麻呂なかまろ讒言ざんげんるものと判明したので、元の右大臣の職にふくせしめたことを諸神しょじん御承知ごしょうち下さるやう、ここに祈り申す次第である。