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17 西海道七國の兵士を防人に充つるの勅 孝謙天皇(第四十六代)

西海道さいかいどうこく兵士へいし防人さきもりつるのみことのり天平寶字元年閏八月 續日本紀

太宰府防人、頃年差坂東諸國兵士發遣。由是路次之國、皆苦供給防人、產業亦難辨濟。自今已後、宜差西海道七國兵士合一千人、充防人司、依式鎭戍。其集府之日、便習五敎。

【謹譯】太宰府だざいふ防人さきもり頃年さきごろ坂東ばんどう諸國しょこく兵士へいしつかわ發遣はっけんす。これつて路次ろ じくにみな防人さきもり供給きょうきゅうするにくるしみ、產業さんぎょうまた辨濟べんさいがたし。自今じこん已後い ごよろしく西海道さいかいどうこく兵士へいしあわせて一千にんつかわし、防人司さきもりのつかさて、しきつて鎭戍ちんじゅすべし。あつまるの便すなわち五きょうならはしめよ。

【字句謹解】◯太宰府 筑前ちくぜんのくにに置かれた官府やくしょの名で、西海道さいかいどう總管そうかんし、外寇がいこうを防ぎ、外交の事をつかさどつた ◯防人 王朝時代に我が西海道さいかいどう邊要へんようの地を守つた兵士のしょう國境こっきょう守護隊で三年交替であつた ◯坂東諸國 今の關東かんとう地方の諸國にあたる、いはゆる坂東ばんどう武者むしゃとして後年は有名になつたが、王朝時代にもこの地方の人は勇敢なために主として防人さきもりとされた。一度西國さいこくの人と交替したが、太宰府だざいふの方で故障が出て、再び坂東人ばんどうじんにしたとの記錄きろくのこつてゐる ◯辨濟し難し その費用が巨大であるのみでなく、時間も奪はれるので、生業せいぎょうはげんでも追ひつかない ◯西海道七國 西海道さいかいどうとは現在の九州地方のこと。七こくとは筑前ちくぜん筑後ちくご豐前ぶぜん豐後ぶんご肥前ひぜん肥後ひ ご日向ひゅうがをいふ。〔註一〕參照 ◯鎭戍 一場所にたむろして敵を防ぐ ◯五敎 兵卒へいそつを訓練する五つの方法。〔註二〕參照。

〔註一〕西海道七國 西海道さいかいどうの名は文武もんむ天皇大寶たいほう元年に置かれた。正しく言へば筑前筑後・豐前・豐後・肥前・肥後・日向・大隅おおすみ薩摩さつまの九こく及び壹岐い き對馬つしま琉球りゅうきゅうを含む。武帝もんむていはこれを前記七こく及び壹岐い き對馬つしま二島に定め、元明げんみょう天皇の時に至つて九國三島となつた。勿論路次ろ じの迷惑を考慮されて、この地方から防人さきもりを選ばれたのである。

〔註二〕五敎 五きょうとは、形色けいしょくはたを目にへ、號令ごうれいすうを耳にへ、進退の度を足に敎へ、長短ちょうたんの利を身に敎へ、賞罰しょうばつまことを心に敎へること。

〔注意〕左にこの當時とうじに於ける太宰府だざいふかんした二三のみことのりげる。

(一)太宰府に下し給へる勅(淳仁天皇天平寶字二年十二月、續日本紀)(二)太宰府建議けんぎに報ずるの勅(淳仁天皇天平寶字三年三月、續日本紀

(三)太宰府に下し給へる勅(淳仁天皇天平寶字三年七月、續日本紀

【大意謹述】九州の太宰府だざいふに集る防人さきもりは、先般來せんぱんらい關東かんとう諸國の兵から選んで派遣することになつてゐる。しかるに關東かんとうから九州に至るまで防人さきもりの通行する國々では、その接待に巨大な費用と時間とを費し、生業せいぎょうをいくらはげんでも追ひつかない程で、非常に苦しんでゐることを聞いた。ゆえに今後は、太宰府だざいふの所在に近い九州七こくの兵合計一千人を選び、防人さきもりの役所に集つて、一定の規律にしたがつて防禦ぼうぎょにんあたらせることにした。その人々が太宰府だざいふに集つた日から早速兵に必要な五きょうを習はせるやうにせよ。

【備考】四面ことごとく海でかこまれてゐる島國とうごく日本は、古代からすで邊要へんようの地をげんに守るべき必要を持つた。したがつて、海防かいぼうには早くから注意し、應神おうじん天皇の時代には、海人あ まみこともちを置き、次いで海人部あ ま べを置いた。それから景行けいこう天皇の時、夷守えびすもりを置いたことが史上に見える。それは、事實じじつ上の防人さきもりだとつてよい。防人さきもりの名が始めて文獻ぶんけんに現はれたのは、大化たいか二年のことである。持統じとう天皇の時代に至ると、防人さきもりの年限を定めて、交替せしめ、大寶たいほう以後には防人司さきもりのつかさを設け、この方面に於ける一切の事務を處理しょりした。その職掌しょくしょうとするところは、太宰府だざいふのもとにあつて、防人さきもり名籍めいせき戎具じゅぐ敎閱きょうえつ食料田しょくりょうでんのこと、船舶せんぱくの修理などを取扱つたのである。