15 大將軍大野東人に報ずるの詔 聖武天皇(第四十五代)

大將軍たいしょうぐん大野東人おおぬのあずまびとほうずるのみことのり天平十二年十一月 續日本紀

今覽十月二十九日奏、知捕得逆賊廣嗣。其罪顯露、不在可疑。宜依法處決、然後奏聞。

【謹譯】いま、十がつ二十九にちそうて、逆賊ぎゃくぞく廣嗣ひろつぐとらたるをる。つみ顯露けんろうたがふべきにあらず。よろしくほうつて處決しょけつし、しかのち奏聞そうもんすべし。

【字句謹解】◯大野東人 大野おおぬの果安はたやすの子で、神龜じんき年間には藤原ふじはら宇合うまかいしたがつて陸奥む つ蝦夷え ぞを討ち、多賀城たがじょうの要塞を建つべき旨を上申して成功し、蝦夷え ぞ鎭定ちんていした。よっじゅ位下いげの陸奥む つ鎭守府ちんじゅふ將軍しょうぐん按察使あ ぜ ちとなり、のち藤原朝臣ふじはらのあそみ麻呂ま ろしたがつて諸國の兵を率ゐて蝦夷え ぞを討ち、次いで多賀城たがじょうとどまつた。天平てんぴょう十一年に參議さんぎとなり、いで本詔ほんしょうに見ゆるやうに太宰少貳だざいのしょうに藤原廣嗣ふじはらのひろつぐちゅうし、武功ぶこういちじるしく、十三年にじゅとなり、翌年こうじた ◯ 上奏文じょうそうぶん臣下しんかから天皇たてまつひょうのこと ◯逆賊廣嗣 藤原廣嗣ふじはらのひろつぐのこと。〔註一〕參照 ◯顯露 明らかに天下に知れ渡つてゐて、疑ふ餘地よ ちがない ◯處決 處分しょぶんを決する ◯奏聞 申し上げる。

〔註一〕逆賊廣嗣 藤原廣嗣ふじはらのひろつぐ宇合うまかい長子ちょうしで、天平てんぴょう中にじゅ位下い げじょし、いで太宰少貳だざいのしょうにとなつた。元々廣嗣ひろつぐ當時とうじ宮廷に於いて飛ぶ鳥を落すほど勢力があつた吉備眞備きびのまび及び僧玄昉げんぼうと合はず、遂に君側くんそくかんを除くことを上表じょうひょうして許されず、突如、兵をげた。朝廷では大野東人おおぬのあずまびと大將軍たいしょうぐんに、紀飯麻呂きのいいまろを副將軍に命じ、一まん七千の兵で之を攻め、別に佐伯常人さえきのつねひと阿部蟲麻呂あべのむしまろに兵四千を授けて討たしめた、廣嗣ひろつぐ所々しょしょ轉戰てんせんしたが、到頭とうとう、捕へられ、天平十二年十一月にちゅうに服した。

〔注意〕廣嗣ひろつぐらんの原因は表面は眞備ま び玄昉げんぼうを排斥するといふにあるが、裏面りめんには藤原氏一門の京師けいしに於ける勢力あらそひに多大の關係かんけいがあるらしい。又、眞備ま びは後年へんせられて筑前ちくぜんのかみになつた時、廣嗣ひろつぐの墓を祭つてゐる。なほ、本事件に關係かんけいある勅語ちょくごは、本詔ほんしょうを除いて、次の如くである。

(一)畿內きないどうに下し給へるみことのり天平十二年九月、續日本紀)(二)大將軍大野朝臣おおぬのあそみ東人あずまびと等に下し給へる勅(天平十二年九月、續日本紀)(三)藤原廣嗣ふじはらのひろつぐ追討ついとうするの勅(天平十二年九月、續日本紀)(四)大將軍大野東人等に下し給へる勅(天平十二年十月、續日本紀

【大意謹述】ちんは今、なんじの十月二十九日に於ける上奏文じょうそうぶんを見て、朝敵ちょうてき藤原廣嗣ふじはらのひろつぐが汝の手に捕へられたことを知つた。廣嗣ひろつぐの犯した罪は天下周知の事實じじつで、一てん、疑ふの餘地よ ちがない。ゆえすみやかに國法こくほう通りに處分しょぶんし、しかのち、詳細の事を奏上そうじょうせよ。

【備考】廣嗣ひろつぐについては、多少、同情すべきてんがある。けれどもれが大義たいぎ名分めいぶんについて、深く考へるところがなかつたのは缺點けってんであらう。賴山陽らいさんようの『日本政記』を見ると、「官軍かんぐん先蜂せんぽう佐伯常人さえきのつねひとゆみはっして之をふせぐ、呼んでいわく、廣嗣ひろつぐ反逆す、とうするものは族誅ぞくちゅうせん、と。廣嗣ひろつぐ馬よりはいしていわく、廣嗣ひろつぐ敢て反するにあらず、姦臣かんしんちゅうせんとふのみと。常人つねひといわく、官符かんぷめて兵をはっす。そむくにあらずして何ぞやと。廣嗣ひろつぐこたふるあたはず、馬にのぼりて退く」とある。れが、今一段、反省し熟慮じゅくりょして、大義たいぎ名分めいぶんについて考へたなら、かく迄の失敗を見なかつたかも知れない。が、彼れの心事しんじを察すると、あわれむべきてんがある。要するに、廣嗣ひろつぐは、政治上の犠牲者だ。