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9 馬兵を試練するの詔 天武天皇(第四十代)

馬兵ばへい試練しれんするのみことのり(十三年閏四月 日本紀

凡政要者軍事也。是以文武官諸人、務習用兵及乘馬。則馬兵竝當身裝束之物、務具儲足。其有馬者爲騎士、無馬者爲歩卒。竝當試練以勿障於聚會。若忤詔旨、有不便馬兵、亦裝束有闕者、親王以下、逮于諸臣、竝罰之。大山位以下者、可罰罰之、可杖杖之。其務習以能得業者、若雖死罪、則減二等。唯恃己才以故犯者、不在赦例。

【謹譯】およまつりごとよう軍事ぐんじなり。ここもっ文武官ぶんぶかん諸人しょにんつとめてへいもちゐ、おようまることをならへ。すなわうまつわものならび當身とうしん裝束よそおいものを、つとめてつぶさにそなせ。うまあるものを騎士うまのりびとし、うまなきものを歩卒かちびとす、ならびこころととのへ、もっあつまふにさわりなからしむべし。みことのりむねたがひ、うまつわもの不便ふべんあり、また裝束よそおいくることあるは、親王しんのう以下い か諸臣しょしんおよぶまで、ならびかんがへしめん。大山たいさんくらい以下い かは、かんがふべきはかんがへ、つべきはたん。つとならもっわざるものは、死罪しざいいえども、すなわち二とうへらさん。ただおのさいりてもっことさらにおかすものは、ゆるためしにあらじ。

【字句謹解】◯軍事 この場合は陸軍を主として指す ◯裝束 軍裝ぐんそうのこと ◯不便 そなはらず、間に合はぬこと ◯大山の位 位階いかいの名、大化たいか革新かくしんのとき、冠制かんせい十九階を定め、大山上たいさんじょう大山下たいさんげ小山上しょうさんじょう小山下しょうさんげなどを設けた ◯才に恃りて 平生へいぜいの才能を鼻にかける。

【大意謹述】そうじて政治のようは軍事の上にある。國を守り、民衆を治めてゆくには、軍事の力によるところが多いからだ。ゆえ武官ぶかんのみならず、文官ぶんかん平生へいぜい、兵事を習練しゅうれんし馬にることをもよくするやう用意する必要がある。したがつて兵馬及び軍裝ぐんそうは、十分行屆ゆきとどくやうにし、その充實じゅうじつつとめねばならぬ。よって馬を持ち、馬にるものは、これを騎兵きへいとし、馬を持たないものは歩兵ほへいとする。以上いずれも習練して、一同が集る場合に、差支さしつかへを生ぜぬやう心すべきである。し以上のみことのりそむき、兵馬へいばの用意にことき、あるい軍裝ぐんそうの上に至らぬところがあるものは、親王しんのう以下諸臣しょしんに至る迄いずれも處罰しょばつするであらう。大山たいさんくらい以下にをるものに向つては、罰すべきはこれを罰し、つべき罪に相當そうとうするものはつ事とする。ほ兵馬の事によく習練し、一方の役に立つものはその者に罪あつて死罪に該當がいとうする場合でも、罪二等を減じ、助命するであらう。けれどもこの除外例に依賴いらいして、自己の兵馬の才能あるを誇り、我儘わがままをして罪を犯すものは、決してゆるさない。

【備考】古來、日本は正義と平和とを重んじて來たが、平和を確保するめに、軍事を重んじた事は、一般の知るところである。いかに平和を重んじても、武備ぶ び充實じゅうじつを背景としない場合は、平和を保つことが出來ない。支那し なの如きは、古來、平和を重んじ、兵をいやしんだが、その結果はかえって平和をみだすやうになつた。それは、今日の支那し なを見てもわかる事である。したがつて、文事ぶんじ武事ぶ じの二つを並行的へいこうてき充實じゅうじつせしめないと、しんの平和は保たれない。すなわ威嚴いげんある平和こそ、一番、必要だと考へる。

 古來、日本は祭政さいせい精神せいしんにより、「政治とは敎化きょうかそのものだ」といふ旨を發揚はつようして、文事ぶんじ開發かいはつつとめたが、一面、兵事へいじ輕視けいしせず、平和を守るために必要だとして、その重大な意義を認めた。ここ建國けんこく以來の特色が存在する。伊弉諾いざなぎ伊弉冉い ざ みの二しんほこを執つて、大八洲おおやしま經營けいえいされ、大己貴命おおあなむちのみことは、廣矛こうぼうを以て、中國ちゅうごく平定のぎょうまっとうせられた。よって日本を細戈千足國くわしほこちたるのくにともしょうし、その武備ぶ び充實じゅうじつせる旨を明示めいじしたのである。また天孫てんそんがこの國土に降臨こうりんされるときには、大伴連おおとものむらじ遠祖えんそ天忍日命あまのおしひのみこと來目部く め べ遠祖えんそ天槵津大來目あめのくしつおおくめひきゐ、武備おごそかに天孫てんそん護衞ごえいした。そののち神武じんむ天皇東征とうせいの目的を達せられたとき、道臣命みちのおみのみこと大伴部おおともべの兵をつかさどり、大久米命おおくめのみこと來目部く め べの兵をつかさどり、宮門きゅうもん護衞ごえいしたのである。それら武官ぶかん世職せしょくとなり、代々、その子孫が之をいだ。しかながら、國家の大事が起つた際は、天皇みずから征伐に臨まれ、あるいは皇族が元帥げんすいとして、軍事の大任を負擔ふたんせられ、兵馬へいばけんは皇室に直屬ちょくぞくしたのである。賴山陽らいさんようは『日本外史がいし』のうちで、の重要事に言及し、「日本建國けんこくのはじめは、政治の仕組が簡單かんたん文官ぶんかん武官ぶかん區別くべつなく、國民皆兵かいへいで、天皇陛下は、その總大將そうたいしょうであらせられた。大臣おおおみ大連おおむらじはその副大將で、特別に軍事專門の大將とては、なかつたのである。したがつて、武門ぶもん・武士なるものも存在しない。ゆえに天下泰平なれば格別、非常有事ゆうじの際には、天皇みずか出征しゅっせいせられる。御差支おさしつかえがある場合には、皇子おうじ・皇后を代理とし、決して兵馬へいばけんを臣下にゆだねられる事がなかつた。だから、天下に號令ごうれいする權力けんりょくかみにん掌中しょうちゅうにあつて、よく國內を治め、そのいきおいの及ぶ所、三かん肅愼しゅくしん迄も服從ふくじゅうした」といふ旨を述べてゐる。

 天武てんむ天皇は、軍事に御熱心であらせられ、その充實じゅうじつ銳意えいいされたことが、この詔勅しょうちょくの上にも、よく現はれてゐる。書紀、九年のくだりに「大山位たいさんい以下の馬を長柄杜ながらのもりみそなはし、すなわ馬射うまゆみさせたまふ」とある。天皇はかく兵事へいじの進歩に貢獻こうけんせられたが、國史こくしの改修、法制の改善等文事ぶんじの上にも、少からず、力を注がれた。のみならず、風雅ふうがおもむきにも通ぜられたから、文武ぶんぶ兼備けんびの典型であらせられた。