8 隋の煬帝に復するの書 推古天皇(第三十三代)

ずい煬帝ようだいふくするのしょ(十六年九月 日本書紀

天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至、久憶方解。季秋薄冷。尊候何如、想淸悆。此卽如常。今遣大禮蘇因高。大禮乎那利等往、謹白不具。

【謹譯】天皇やまとのすめらみことつつしみて西皇帝もろこしのきみもうす。使人しじん鴻臚寺こうろじ掌客しょうかく裴世淸はいせいせいいたつて、ひさしきおもまさけぬ。季秋きしゅう薄冷はくれい尊候そんこう何如いかにおもふに淸悆おだやかならむ。ここにもすなわつねごとし。いま大禮たいらい蘇因高そいんこう大禮たいらい乎那利お な りつかわして、もうでしむ。つつしんでもうす。つぶさならず。

【字句謹解】◯隋の煬帝 ずい南北朝なんぼくちょうちんの後にで、それを一とうした王朝で、我が崇峻すしゅん天皇二年(皇紀一二四九年)から推古すいこ天皇二十四年(皇紀一二七六年)までつづき、とうに亡ぼされた。煬帝ようだい文帝ぶんていいで位にいた帝王。〔註一〕參照 ◯天皇 推古すいこ天皇御自身を指す。この書式に就いては〔註二〕參照 ◯西皇帝 煬帝ようだいを指す ◯鴻臚寺の掌客 鴻臚寺こうろじは、唐代とうだい官衙かんがの名、外交事務を取扱ふ、掌客しょうかくすなわち外交官、まらうどのつかひともむ ◯久しき憶ひ 久しい間の氣がかり ◯方に解けぬ 今一掃された。勿論これらは外交上の辭令じれいである ◯季秋 陰曆いんれき九月の異稱いしょうすなわちながづき。秋にあたつての意。この書は九月十二日のくだり(書紀)にある ◯尊候何如 御機嫌ごきげん如何いかがの意 ◯淸悆 無事に消光しょうこうしてゐる意 ◯蘇因高 小野妹子おののいもこの唐名、小野妹子近江國おうみのくに滋賀郡しがごおり小野村おのむらじゅうして小野をうじとし、推古すいこ天皇ちょうに仕へ、大禮たいらいの位となつた。十五年に遣隋使けんずいしとなつてずいき、裴世淸はいせいせいと共に歸國きこくしたが、ずいからの報書ほうしょを失つた。裴世淸はいせいせいかえる時に大使となつて再びずいおもむき、翌年九月に歸國きこくした ◯大禮 後世の三あたる地位。これは推古すいこ天皇十一年に冠位かんい十二かいを定めたうちの一。十二階とは大德たいとく小德しょうとく大仁たいにん小仁しょうにん大禮たいらい小禮しょうらい大信たいしん小信しょうしん大義たいぎ小義しょうぎ大智たいち小智しょうちである ◯乎那利 難波吉士雄成なにわのきしおなり唐名とうめい雄成おなりはこの時の小使しょうしである ◯具さならず 書簡の最後に記す禮儀上れいぎじょう辭句じ く簡單かんたんおそるとふ意。

〔註一〕隋の煬帝 ずいと我國との交渉は他國に比して少いが、この詔書しょうしょの如き、國民精神上せいしんじょう、重要な意味を持つてゐる。今、日隋にちずい交渉について略記りゃっきする。

(一)推古すいこ天皇十五年秋には、大禮たいらい小野妹子おののいもこ遣隋使けんずいしとし、鞍作福利くらつくりのふくり通事つうじとして隋主ずいしゅに書を致した。(二)十六年夏には、裴世淸はいせいせいなどが報答ほうとうに來て、隋主ずいしゅの書を持參じさんした。その答書とうしょすなわここかかげられたものである。裴世淸はいせいせい妹子いもこと共に日本に來た。妹子いもこは再び大使となり難波吉士雄成なにわのきしおなり小使しょうし福利ふくり通事つうじとして、八人の學者を伴ひ、裴世淸はいせいせいを送つてずいおもむいた。翌年、妹子いもこ歸朝きちょうしたが、福利ふくりは長くずいにとどまつた。(三)二十二年には犬上御田鍬いぬかみのみたすき矢田部造やたべのみやつこずいに赴いた。(四)二十三年には、その人々が歸朝きちょうした。

〔註二〕天皇 ずいの書に接した天皇は、聖德太子しょうとくたいしに向はれ、「この書辭しょじはどうか」と問はれた。太子は「これは全然諸侯しょこうたまふ書式でございます。自身を皇帝といひ、日本の皇室を倭皇わこうと呼んでをります。したがつて答書とうしょ當然とうぜん對等たいとう禮儀れいぎでしなければなりません」と申し上げたよしが『聖德太子傳曆でんりゃく』に見える。當時とうじ日の出のいきおいにあつたずいに向つて對等たいとうの返書をされた太子は、日本の國威こくいを輝かしたものと後世から讃美されてゐる。

〔注意〕最初、推古すいこ天皇十五年の秋に我が朝廷からずいに送つた國書こくしょうちには、「づるところ天子てんししょ日沒ひぼつするところ天子てんしいたす。つつがなしや」との部分があつた。これがいささか煬帝ようだいの氣に入らなかつたと見え、翌十六年に裴世淸はいせいせいに命じてもたらした國書こくしょには、全然我が國を屬國視ぞっこくしした樣子ようすをありありと見せた。『日本書紀』によれば、それは「皇帝、倭皇わこうに問ふ」との書き出しで、「使人つかい長吏ちょうり大禮たいらい蘇因高そいんこう、至りてかいす。ちんつつしみて寶命ほうめいけて區宇く う臨御りんぎょし、德化とっかひろめ、含靈がんれいおよぼしこうむらしめんことを思ひ、愛育あいいくじょう遐邇とおきちかきへだつることなし。きみ海表かいひょう介居かいきょして、民庶みんしょやすんじ、境內けいだい安樂あんらくに、風俗ふうぞく融和ゆうわなることを知りぬ。深氣しんき至誠しせいにして、遠く朝貢ちょうこうを修めたり。丹款たんかんちんよみすることあり。ややあたたかなり。このごろつねの如し。ゆえ鴻臚寺こうろじ掌客しょうかく斐世淸はいせいせいつかはして、稍々や や往意おういべ、あわせて物を送ること別の如し」とある。文中の「ちんよみす」などはどう考へても日本を尊敬したものと思へない。以上によると當時とうじずいから考へれば日本などは物のかずにも入らない程度にしか思はなかつたのだらう。聖德太子はの書に接して一大英斷えいだんもと答書とうしょを製作せられ、本詔ほんしょうにある如く、「天皇やまとのすめらみことつつしみて西皇帝もろこしのきみもうす」と對等たいとうの地位に日本を引き上げ、我が地位を海外に表明し、隋王ずいおうの怒りをかえりみられなかつた。任那みまな日本府にっぽんふの失敗に比してこれは何といふ日本の外交上の成功であつたらう。最近になつてやつとおこらんとする日本の自主的外交を、すでに太子はこの時實行じっこうされた。最初に送つた「づるところ天子てんししょ日沒ひぼつするところ天子てんしいたす」の國書こくしょと共に、國民はこの時代に於ける太子の盛大な御意氣ご い きしたがつて日本の敢然かんぜんとして大國たいこくをおそれない元氣を囘憶かいおくしなくてはなるまい。

【大意謹述】東方日本の天皇は、西方ずいの皇帝に敬意を表して國書こくしょを送ります。今、貴國きこくからの使者鴻臚寺こうろじ掌客しょうかく斐世淸はいせいせいなどに接し、長い間の氣がかりが一掃されました。秋になり寒さが日々加はります。御機嫌をお伺ひします。多分おすこやかだと存ずる。此方こちらでも何のかわりもありませぬ。今囘こんかい御禮おれいのため、大禮たいらい小野妹子おののいもこ大禮たいらい難波雄成なにわのおなり正副使せいふくしとし貴國に派遣いたします。簡單かんたんだが、以上つつしんで御挨拶申す。

【備考】當時とうじずいいきおいさかんだつた。煬帝ようだいは、大運河を作り、萬里ばんり長城ちょうじょう增築ぞうちくしたのみならず、征韓せいかんの大軍さへ起した。それゆえれのまなこには、日本は、勿論もちろん、小さな島國しまぐにとしかうつってゐなかつたらう。けれども日本の朝廷は、嚴然げんぜんみずかして、少しも、讓歩じょうほせず、聖德太子しょうとくたいしみずか國書こくしょを作られ、さかんな意氣い きを示された。賴山陽らいさんようの『日本にほん樂府が ふ』には、この事を激賞げきしょうして、左の如くぎんじた。

 づるところつるところ兩頭りょうとう天子てんしみな天署てんしょす。

 扶桑ふそうとりいてあしたすでつ、長安ちょうあん洛陽らくようてんいまあかつきならず。

 嬴顚えいてん劉蹶りゅうけつして日沒にちぼつふ、東海とうかいりんきゅうよっづ。

 山陽さんようが「づるところ」とつたのは、勅書ちょくしょによつたのである。それかられは、日本の皇室の萬世ばんせいけいであること、日本が光明こうみょうの國であることを誇り、支那し なは革命の國でしん起つて亡び、かん之に代るといふ風に動搖どうようえぬのみならず、光明こうみょう日本のやうに明るくない。何となく、落日らくじつの感じがするといふ意味を述べたのである。

 思ふに、明治維新以來、日本の對外たいがい方針を見ると、いたずらに歐米おうべい追隨ついずいを事とし、そこに自主的外交なるものが殆んどなかつた。ロシヤ・アメリカあたりからおどかされては縮まり、翻弄ほんろうされては小さくなるといふ風で、公明こうめい中正ちゅうせいの日本精神せいしんを基本として、外交が行はれない場合が多かつた。要するに、それは退嬰たいえい萎縮いしゅくの外交だつたとへよう。今日は國際こくさい聯盟れんめい脫退だったい滿洲まんしゅう問題の刺戟しげきとにより、ようやく目ざめて來たが、まだ自主的外交の第一歩に入つたばかりで、リベラリストの一部が策動さくどうしてゐるから、はなは覺束おぼつかない感じがする。もつともつと日本精神せいしんの上に目ざめて自主外交の基本をしつかりと作つてほしい。