5-1 新羅を討つの詔 欽明天皇(第二十九代)

新羅しらぎつのみことのり(第一段)(二十三年六月 日本書紀

新羅西羗小醜、逆天無狀。違我恩義、破我官家、毒害我黎民、誅殘我郡縣。我氣長足姬尊、靈聖聰明、周行天下、劬勞群庶、饗育萬民。哀新羅所窮見歸、全新羅王將戮之首、授新羅要害之地、崇新羅非次之榮。我氣長足姬尊、於新羅何薄。我百姓、於新羅何怨。

【謹譯】新羅しらぎ西羗せいきょう小醜しょうしゅうにして、逆天ぎゃくてん無狀むじょう恩義おんぎたがひて、官家かんかやぶり、黎民れいみん毒害どくがいして、郡縣ぐんけん誅殘ちゅうざんせり。氣長足姬尊おきながたらしひめのみこと靈聖れいせい聰明そうめいにして、天下てんか周行しゅうこうしたまふ。群庶ぐんしょ劬勞いたわり、萬民ばんみん饗育やしなひたまひ、新羅しらぎまられれるをあわれみ、新羅しらぎおうまさうたれんとするのこうべまっとうし、新羅しらぎ要害ようがいさずけ、新羅しらぎ非次こ えたるさかえしたまひき。氣長足姬尊おきながたらしひめのみこと新羅しらぎいてなんうすからむ。百姓ひゃくせい新羅しらぎいてなんうらみかある。

【字句謹解】◯西羗の小醜 きょうきょう俗字ぞくじきょう蠻族ばんぞくの意、すなわち日本から西方にある未開國。雄略朝ゆうりゃくちょう以後の日本と新羅しらぎとの關係かんけいに就ては〔註一〕參照 ◯逆天無狀 天にさからひてじょう無し。我が皇室の命に反對はんたいして無禮ぶれい擧動きょどうがある。この意味から「てん」を「きみ」とくんずる人もある ◯我が官家を破り 任那みまなにある日本府にっぽんふを滅亡させたこと。天皇はこの暴狀ぼうじょう逆鱗げきりんあつてみことのりはっせられた。〔註二〕參照 ◯黎民 一般人民、百姓ひゃくせい黎庶れいしょに同じ ◯毒害して 生命を奪ふ意 ◯氣長足姬尊 神功じんごう皇后のこと。〔註三〕參照 ◯靈聖聰明 他の人々にすぐれて知識があり、聖人のやうに道理に明るいこと ◯天下を周行したまふ 仲哀ちゅうあい天皇と共に四方に親征しんせいされた意 ◯群庶 一般人民 ◯劬勞り 仁政じんせいほどこす ◯新羅の窮まられ歸れるを哀れみ 新羅しらぎが日本軍に攻められて手足も出せなくなつたのに同情する ◯將に戮れんとするの首を全うし 死罪にあたるのを特別の恩惠おんけいを以て助けたこと、共に『神功じんごう皇后紀』に見える。前の部分については、「新羅しらぎおうこれ戰々お じ栗々わななきて、せんすべしらず。すなわ諸人しょにんつどへていわく、新羅しらぎの國を建てしより以來このかた、未だかつ海水かいすいの國にのぼることを聞かず。天運てんうんきて國の海となれるか。ことば未だおわらざる間に、船師せんし海に滿ちて、旌旗せいき日に輝き、皷吹聲つづみふくこえを起して山川さんせんことごとくにふるふ。新羅しらぎおうはるかに望みて以爲お もへらく、非常の兵まさおのが國をほろぼさむとす。おぢて心まどひす。すなわち今めていわく、れ聞く、東に神國しんこくあり、日本とまた聖王せいおうあり、天皇ふ。必ずの國の神兵しんぺいならむ。あに兵をげて以てふせぐべけむやといひて、すなわ素旆しろきはたあげてみずかまつろひぬ」とある。のちの部分は「時にる人のいわく、新羅しらぎおうちゅうさむとおもふ。ここ皇后こうごういわく、初め神のおしえけて、まさに金銀の國をさずかれり、又三ぐん號令ごうれいしていわく、自服まつろわんをなころしぞ。今すでたからの國をつ。また人まつろひしたがひぬ。之を殺すはさがなしとのたまひて云々」とあるのにあたる ◯非次たる榮 順序によらずもちふる。晉書しんしょづ。ここでは特別の思召おぼしめしを以て優遇したまふ意 ◯何ぞ薄からむ 決して仁惠じんけいてんで不十分であつたことはない ◯我が百姓 我が國民の意 ◯何の怨みかある 新羅しらぎが我が國民をうらむ理由は少しもない。

〔註一〕西羗の小醜 雄略朝ゆうりゃくちょうまでに於ける日本と新羅しらぎとの關係かんけいは、『紀小弓きのおゆみしょうに下し給へるみことのり』の中で簡單かんたんに說明した。ここではその後の交渉、及び任那みまなの形勢についてを略述りゃくじゅつする。

(一)雄略ゆうりゃく天皇二十三年に、吉備臣尾代きびのおみおしろせい新羅しらぎ將軍に任ぜられ、吉備國きびのくにまで行つたが、天皇崩御ほうぎょと、引率した蝦夷え ぞ兵の離叛りはんとによつて目的を果さなかつた。(二)淸寧せいねい天皇の三年には使者を派遣して朝貢ちょうこうをうながした。(三)繼體けいたい天皇の七年には汶得至もんとくち朝貢ちょうこうした。(四)繼體けいたい天皇の二十一年に近江毛野おうみのけぬを派遣し、任那みまなを攻めた新羅しらぎを討伐せしめた。時に筑紫つくし國造くにのみやつこであつた磐井いわい新羅しらぎ內應ないおうしたので、毛野け ぬは十分、所志しょしを達し得なかつた。(五)繼體けいたい天皇の二十三年には、再び毛野け ぬを遣はし、新羅しらぎさとして土地を加羅か ら(任那)に返さしめようとされた。(六)欽明きんめい天皇元年に新羅しらぎちょくして朝貢ちょうこうせしめた。(七)欽明きんめい天皇二十三年に新羅しらぎ任那みまなを亡ぼしたので、之がため日本府にっぽんふも滅亡した。

 以上の關係かんけいから天皇日本府にっぽんふ恢復かいふくの目的でみことのりを下されたのである。

〔註二〕我が官家を破り 前述した如く任那みまなは古代朝鮮の一分國ぶんこくで、現在の慶尙道けいしょうどうの西方の大半を占め、全羅道ぜんらどうにもわたつてゐた。垂仁すいにん天皇御代み よ任那みまな國號こくごうたまわり、神功じんごう皇后の時に日本府にっぽんふを置いて、日本の重臣を駐剳ちゅうさつせしめた。後、欽明きんめい天皇の時に至つて新羅しらぎほろぼされ、その後、恢復かいふくの念を代々よ よ天皇いだかれたけれども、結果からいへば徒勞とろうに終つた。左にその重要な年代表を示す。

(一)垂仁すいにん天皇二年、任那みまな使つかい歸國きこくするにあたり厚く給與きゅうよし、赤絹あかぎぬ一百匹を任那みまなおうたまわつた。途中、新羅しらぎじんが之を奪つたところから兩國りょうこくの仲がわるくなつた。ほこの年、任那みまなこいにより鎭將ちんしょうとして鹽乘彥しおのりひこを派遣した。(二)仲哀ちゅうあい天皇九年、神功じんごう皇后の遠征に際して、任那みまな日本府にっぽんふを置いたといふ說があるが、一說には、凱旋がいせんの際に內官家うちつみやけを設け、また日本府は、鹽乘彥しおのりひこ任那みまなのため新羅しらぎを討つて武威ぶ いを輝かした時に始めて設けられ、神功じんごう皇后はこれを復活されたとふ說もある。(三)神功じんごう皇后攝政せっしょうの六十七年には、荒田別あらたわけ鹿我別かがわけしょうとして新羅しらぎを討ち、日本府にっぽんふの基礎を固め、任那みまなは我が屬國ぞっこくとなつた。(四)應神おうじん天皇の二十五年に、我が役人が任那みまな專斷せんだん行爲こういがあつたので、天皇はそれを召還しょうかんされた。(五)雄略ゆうりゃく天皇七年には、吉備田狹きびのたさ任那みまな國司こくしとなつた。(六)雄略ゆうりゃく天皇八年には、高麗こ ま新羅しらぎを攻めた。新羅しらぎおう任那みまなつてすくいを日本に求めたので、日本はそれにおうじ、高麗こ まの軍を撃破げきはした。(七)顯宗けんそう天皇三年には、紀大磐きのおいわ任那みまなにあつて三かん併呑へいどんを志し、百濟くだら兵にかこまれた。この任那みまないきおいは下り坂となる。(八)繼體けいたい天皇六年には、任那みまなぞくする四けん百濟くだらあたへた。(九)繼體けいたい天皇二十一年には、近江毛野おうみのけぬしょうとして新羅しらぎを討たしめ、そのおかした土地を任那みまなのため恢復かいふくしようとしたが、前述せる磐井いわい謀叛むほんによつて果さなかつた。(十)繼體けいたい天皇二十三年には、伽羅か ら任那の一國)の一部を百濟くだらたまはつた。伽羅か ら王は遂に新羅しらぎに降つた。新羅しらぎが優勢となるにしたがつて、任那みまないきおいは衰へた。(十一)宣化せんか天皇二年、任那みまな新羅しらぎのため侵された時、大伴狭手彥おおとものさてひこの努力できゅうふくすることが出來た。(十二)欽明きんめい天皇二年には、百濟くだらみことのりして任那みまなの再興をはかつたが、成らなかつた。(十三)欽明きんめい天皇二十三年、任那みまなは遂に新羅しらぎのために亡ぼされた。

〔註三〕氣長足姬尊 神功じんごう皇后のことで、父は氣長宿禰おきながのすくねのおおきみ、母は葛城高額媛かつらぎのたかぬひめである。

〔注意〕欽明きんめい天皇は、その二十三年に任那みまな日本府にっぽんふが亡び、征討軍も所期しょき效果こうかおさめなかつたので御心みこころなやまされ、最期の瞬間まで、任那みまな興復こうふくこころざしを捨てられなかつた。御遺詔ごいしょううちには、この事に言及されてゐる。

  欽明天皇御遺詔(三十三年四月、日本書紀

 ちんやまいはなはだし。後事こうじを以てなんじしょくす。なんじすべからく新羅しらぎを打ち、任那みまなほうじ建て、更に夫婦むつびをなし、舊日きゅうじつの如くならしむべし。みまかるともうらむことなし。

 久米く め邦武くにたけ氏の『日本古代史』中には「書紀に任那みまなほろぶるのち六月のみことのりは、梁書りょうしょ王僧おうそう辨傳べんのでん陳覇先ちんはせん誓文せいもん其儘そのまま剽竊ひょうせつしたるものなれば抹殺すべし」と論じてあるのは注意すべき事と思ふ。大體だいたい文辭ぶんじがどうも日本的でない。したがつて意味通じかぬるやうな箇所かしょもある。

【大意謹述】新羅しらぎは我が西方にある未開國であるが、朝廷の命にたがひ、無禮ぶれい擧動きょどうが多い。日本から受けた數々かずかずの恩と義理とを忘れて任那みまな日本府にっぽんふを破り、國民を慘酷ざんこくな目にあはせ、日本にぞくする土地を奪つた。新羅しらぎが少しでも人間としての道を知るならば、決してさうした行動をるものではない。昔、神功じんごう皇后は人に優れた知識を持たれ、聖人のやうに道に明るく、仲哀ちゅうあい天皇御在世ございせの間には、諸共もろどもに諸國を親征しんせいされて萬民ばんみん仁政じんせいほどこし、恩惠おんけいれられた。その崩後ほうご禍源かげんを絕つ目的で新羅しらぎを攻め、國王の進退はまつたのに同情して、死罪にあたるのを特別に許し、土地をきゅうのままにして、ごう新羅しらぎに損失をかけなかつたのである。皇后の新羅しらぎたいする態度に少しでも無慈悲なところがあつたらうか。又、新羅しらぎに居る我が國人こくじんに向ひ、新羅しらぎは何のうらみを持つわけがあらうぞ。

【備考】久米く め邦武くにたけ氏の說はしばらいて、この大詔たいしょうはいすると、雄風ゆうふう堂々どうどう當時とうじの日本が、海外に向つて、鮮かな威光いこうを示したことが拜察はいさつせられる。新羅しらぎが日本に抵抗して、殘虐ざんぎゃくな手段を執るに至つたについては、そこに事情がある。欽明きんめい天皇の時、百濟くだらが、日本のために、新羅しらぎが侵略したところの任那みまなの地を取返さうとした時、新羅しらぎおおいいかつて高麗こ まと同盟し、百濟くだらの地をおかした。よっ百濟くだらが日本に向ひ、援軍を求めると、天皇は、十五年五月、內臣うちのおみ援兵えんぺい一千、馬一百、船四十隻を授けて援助せしめられた。が、この時、百濟くだらおおいに敗れ、その國王は殺され、王子余昌よしょうは、からくも身を以てまぬがれるといふ有樣ありさまだつた。當時とうじ新羅しらぎほ日本軍の手並てなみを恐れたので、追撃戰をさず、百濟くだら併呑へいどんしてしまふ迄にはゆかなかつたのである。

 その後、二十二年、新羅しらぎが日本に朝貢ちょうこうした時、朝廷では、以前の罪をいかり、これを冷遇れいぐうされた。新羅しらぎは、これをいきどおつて、二十三年、任那みまな及び日本府にっぽんふを亡ぼしたのである。よって六月、詔勅しょうちょくにある如き趣旨のもとに、おおい新羅しらぎの罪を責め、次いで七月、大將軍紀男麻呂宿禰きのおまろのすくね、副將河邊臣瓊岳かわべのおみにえを派遣し、新羅しらぎを討伐せしめられた。男麻呂宿禰おまろのすくねら、よく戰つて、新羅しらぎの軍を打破り武威ぶ いを揚げたが、副將河邊臣瓊岳かわべのおみにえは、運わるく、部將伊企儺い き なと共に敵手に落ちたのである。その際、伊企儺い き なが容易に敵に屈せず、「新羅王我がしりくらへ」とののしつて殺されたことは、史上有名な一挿話そうわで、よく日本男兒だんじ意氣い きを現はしてゐる。それから同年(二十三年)八月、大伴狭手彥おおとものさてひこ高麗こ まを討つて、これを破り、その國王をはらつたことによつて、日本の國威こくい宣揚せんようした。爾後じ ご高麗こ まは、日本に服從ふくじゅうして、朝貢ちょうこうつづけ、齊明さいめい天皇の時代に及んで、新羅しらぎ併合へいごうされた。

 新羅しらぎが、右の如く、强盛きょうせいを示した所以ゆえんは背後に支那し なの兵力を控へてゐたからである。新羅しらぎ高麗こ まあっし、百濟くだらに打勝つたのは、支那し なの援軍につところが少なくない。ゆえに日本が長く三かん(朝鮮)を支配し、その勢力を持續じぞくするには、背後に潜む支那し なを討つ必要があつたのだ。けれども當時とうじは交通その他の關係かんけい上、そこ迄手を伸ばすわけにゆき兼ねたのである。