4 百濟國王に賜へる詔 欽明天皇(第二十九代)

百濟くだら國王こくおうたまへるみことのり(九年六月 日本書紀

德率宣文取歸以後、當復如何、消息如何。朕聞、汝國爲狛賊所害。宜共任那、勵策同謀、如前防距。

【謹譯】德率とこそつ宣文せんもん取歸か えりて以後の ちまさ如何いかに消息しょうそく如何いかにちんく、なんじくにこまぞくめにやぶらると。よろしく任那みまなともに、はかりごとはげみてぼうおなじうし、さきごと防距ふ せぐべし。

【字句謹解】◯德率 百濟くだら官名かんめい第四ほんかん ◯宣文 百濟くだら使者の名、八年四月に宣文せんもん來朝らいちょうしてすくいひ、九年正月にかえつた。なほこれに就いては〔註一〕參照 ◯消息如何 その後の樣子ようすはどうであるかとたずねる意 ◯ 高麗こ まのこと。この場合は八年の春に高麗こ ま百濟くだら馬津城ばしんじょう包圍ほういしたのを指す ◯任那 古代朝鮮の一分國ぶんこく伽耶だいから又は伽羅か らとも云つた。その位置は今の慶尙道けいしょうどうの西方の大部分及び全羅道ぜんらどうの南岸を占めてゐた。崇神すじん天皇の時、同國の王子阿羅斯あ ら し來朝らいちょうしたが、道に迷うてはたさず、後、垂仁すいにん天皇の時、はじめて謁見えっけんした。その際、國名を改めて任那みまなしょうした ◯策を勵みて 計略に全力を注ぐ。

〔註一〕宣文 今我國と百濟くだらとの軍事外交關係かんけい略叙りゃくじょする。百濟くだらは前述の如く、いにしえ馬韓ばかんの地で、箕氏き しを祖とするとつたへられる。垂仁すいにん天皇の十二年に國號こくごう百濟くだらとした。以後欽明朝きんめいちょうに至るまでの關係かんけいは次の如くである。

(一)仲哀ちゅうあい天皇の九年、神功じんごう皇后の西征せいせいあたつて、ふうを望んで歸服きふくした。(二)神功じんごう皇后の攝政せっしょう四十七年に百濟くだらは始めて入貢にゅうこうしたが、途中新羅しらぎ使者貢物みつぎものの大部分を奪はれた。(三)神功じんごう皇后の攝政せっしょう四十九年には、荒田別あらたわけ鹿我別かがわけ新羅しらぎ征伐に向つた。百濟くだらはこの時に兵を率ゐて援助したので、新羅しらぎ故地こ ちの一部をたまはつた。(四)神功じんごう皇后攝政せっしょう五十一年には、雙方そうほう使者が往復した。百濟くだら毎歳まいとし朝貢ちょうこうすべき事をやくした。(五)應神おうじん天皇三年に、百濟王くだらおう阿花あ かが年少であるから叔父の辰斯しんしが自立した。この時、朝貢ちょうこうを納めないので、朝廷はその無禮ぶれいを責めると、百濟くだら辰斯しんしを殺して謝した。(六)應神おうじん天皇八年には、百濟くだら入朝にゅうちょうしない理由で土地をけずつた。(七)應神おうじん天皇十四年には、縫工女きぬぬひめにんけんじ、十五年には阿直岐あ じ き、十六年には王仁わ に來朝らいちょうした。(八)仁德にんとく天皇四十一年には、紀角宿禰きのつぬのすくね百濟くだらに派遣して、物產を調査させた。(九)雄略ゆうりゃく天皇百濟人くだらじん中から後宮こうきゅうの一にん撰定せんていされた。十九年には高麗こ まに攻められて王を失つたが、ていはその弟を立てられた。百濟人くだらじんは日本を再興さいこうの恩人として感謝した。(十)淸寧せいねい天皇三年には使者つかわして朝貢ちょうこうせしめた。(十一)顯宗けんそう天皇三年には、任那みまな日本府にっぽんふにある紀大盤きのおいわ高麗こ ま結托けったくして朝廷にはんした時、百濟くだらは之を攻め破つた。(十二)繼體けいたい天皇三年には、任那みまなの日本府にちょくして、任那みまなにゐる百濟くだらの浮浪民を還付された。(十三)繼體けいたい天皇六年には、任那みまなぞくした四けん百濟くだらにたまはつた。(十四)繼體けいたい天皇二十三年には、加羅か ら多沙津たさのつ百濟くだらにたまはつた。(十五)繼體けいたい天皇二十四年には、百濟くだら任那みまなと土地をあらそひ、近江毛野おうみのけぬが之を裁判出來ないので召還しょうかんされた。(十六)安閑あんかん天皇の元年、及び欽明きんめい天皇の元年には入貢にゅうこうした。(十七)欽明きんめい天皇二年に百濟くだらちょくして任那みまな侵地しんちをもどさしめた。その後度々この意味のちょくはっせられた。百濟くだら新羅しらぎの勢力をおそれてちょくほうじなかつたからである。(十八)欽明きんめい天皇四年、百濟王くだらおう扶南ふなんの財物及びやっこにんけんじた。(十九)欽明きんめい天皇六年には、使者を派遣した。同年百濟くだらじょう六の佛像ぶつぞうたてまつつた。(二十)欽明きんめい天皇七年には、百濟くだら良馬りょうば戰船せんせんをたまはつた。(二十一)欽明きんめい天皇八年に宣文せんもんなどが使者としてきたり、高麗こ まに苦しめられつつある現狀げんじょうそうしてえんうた。この時のやくしたがひ、その後の樣子ようすを問ひ、一時朝廷では百濟くだらの誠意を疑つたが、やがて援兵えんぺいを送る事に決定、このみことのり使者つたへて百濟くだらに達せしめたのであつた。

〔注意〕この當時とうじに於ける日本と百濟くだらとの交渉を詔勅しょうちょく上かられば、ここに謹述きんじゅつするものを除いて、

(一)百濟國王に報じ給へる詔(欽明天皇九年四月、日本書紀)/(二)百濟國王に報じ給へる詔(欽明天皇十年六月、日本書紀)/(三)百濟國王に賜へる詔(欽明天皇十一年二月、日本書紀)/(四)百濟國王に報じ給へる詔(欽明天皇十三年五月、日本書紀)/(五)百濟の使つかいに下し給へる詔(孝德天皇大化元年七月、日本書紀)/(六)百濟を救ふの詔(齊明天皇六年十月、日本書紀

などがある。

【大意謹述】百濟くだら國王こくおうよ、去る一月に貴國きこく使者德率とこそつくらいにある宣文せんもんなどが歸國きこくしたのち、敵はた攻めてきたつたか。その後の樣子ようす如何いかがか。ちんは貴國が高麗こ まのために破られたことを噂に聞いた。今後任那みまなと力を合せ目的を一にして計略に心をつくし、前のやうにおおいに防備するがいいと考へる。

【備考】地理上の關係かんけいから、日本の勢力は朝鮮の北方にある高麗こ ままで及ばなかつた。高麗こ まは日本と交通はしたが、その屬國ぞっこくとなるに至らなかつた。つまり、日本の威光いこう當時とうじ平壤へいじょう以北に達しない。好大王こうだいおう古碑こ ひにある文面によると、日本軍は高麗こ ま軍と戰つて、不利を招いた場合さへあつた。かうした關係かんけいであつたから、高麗こ ま百濟くだらに向つて度々、侵略の手を伸ばしたのである。その都度つ ど百濟くだらは、皇軍こうぐんにすがり、助けを求めたと同時に、日本政府でも、百濟くだらの態度の忠誠ちゅうせいにちかいことを考へ、相當そうとうの援助をあたへた。