3-1 紀小弓等四將に下し給へる勅 雄略天皇(第二十一代)

きの小弓おゆみしょうくだたまへるみことのり(第一段)(九年三月 日本書紀

新羅自居西土、累葉稱臣、朝聘無違、貢職允濟。逮乎朕之王天下、投身對馬之外、竄跡匝羅之表、阻高麗之貢、呑百濟之城。

【謹譯】新羅しらぎみずか西土せいどり、累葉るいようしんとなへ、朝聘ちょうへいたがふことなく、貢職こうしょくまことれり。ちん天下てんかきみたるにおよびて、對馬つしまそときて、あと匝羅さわらほかかくし、高麗こ まみつぎふせぎ、百濟くだらしろむ。

【字句謹解】◯新羅 三かん馬韓・辨韓・辰韓)のうち辰韓しんかんのち新羅しらぎとなつた。シラギ、またはシンラともいふ。時に斯盧し ろ斯羅し らとも書く。〔註一〕參照 ◯西土 西方せいほうの意 ◯累葉 時代を重ねて長い間のこと。累世るいせに同じ。〔註二〕參照 ◯朝聘 貢物みつぎもの持參じさんして來朝らいちょうする使者 ◯貢職允に濟れり 貢物も約束通り持つて來た ◯身を對馬の外に投き 對馬つしまより近くには一歩も來ない。この意は言ふまでもなく、貢物使こうぶつしが少しも來なくなつたことである ◯匝羅の表に竄し 匝羅さわら草羅そうらとも書く。朝鮮半島慶尙けいしょう南道なんどう梁山郡りょうさんぐんにある地方名、神功じんごう皇后がこの城をいたことが『』に見える。これもやはり一もつも貢物を持つて來なくなつた意である ◯高麗の貢を阻ぎ 高麗こ まが我が國に貢物を持參するのを途中で奪ふ意 ◯城を呑む 城を征伐して自己の所有とする。

〔註一〕新羅 三かんは今日の朝鮮である。朝鮮の位置は、恰度ちょうど、アジヤ大陸と日本聯島れんとうとを結び付ける橋と云つたやうなおもむきがある。その一面は大陸に接續せつぞくし、他の三面は海にかこまれてゐる。その人種は、海岸方面からきたつたものと、大陸方面から來たものとから成り、高勾麗こ まの如きは、大陸種族から成立つてゐた。三かん馬韓ばかん辨韓べんかん辰韓しんかんうち辨韓べんかんは、朝鮮南部に位置を占め、一めい卞辰べんしんとも、卞韓べんかんともしょうする。それは十二國から成つてゐた。辰韓しんかんは、辰國しんこくともいひ、馬韓ばかんの東に位置を占め、南方は、辨韓べんかんに接し、これ又十二國から成つてゐる。『後漢書ごかんじょ』には、「七十八國皆いにしへの辰國しんこくなり」とあるのを見ると、最初は七十八の部落が存在したのであらう。辰韓しんかんは、現時の慶尙道けいしょうどうあたり、知識の進んだてんでは、一番すぐれてをり、强盛きょうせいでもある。馬韓ばかんは朝鮮の西部を占め、北は樂浪らくろうに接し、南は日本にたいし、西方は海に臨んでゐた。今の全羅ぜんら忠淸ちゅうせい京畿けいきの三道にあたる。馬韓ばかんは五十四國から成り、大國は萬餘まんよ家、小國は數千すうせん家を包有したといふから、國といつても、部落にちかい。これは、三韓共通と見てよからう。その民族は、勇悍ゆうかんで、力作をすに適した。百濟くだら馬韓ばかん五十四國のうちの一つだと云はれてゐる。

 日本と朝鮮との交通は、三韓時代からひらけ、後、それが高勾麗こ ま百濟くだら新羅しらぎ任那みまなとなつてからも、かはる所はない。それから人種上、新羅しらぎ任那みまなぼ日本人種と同一で、高勾麗こ ま百濟くだらは大陸だねにちかい。新羅しらぎの建國は、日本の崇神すじん天皇の時代で、後に辨韓べんかんもこれに附屬ふぞくし、國勢稍々や や盛んだつた。その首府は、今の慶州府けいしゅうふの東方四里の地、金山きんざん加里か りにあつたとつたへられてゐる。神功じんごう皇后が三韓征伐に赴かれた際、新羅しらぎは兵力上、これにこうすることが出來ないで降服し、爾來じらい、年々朝貢ちょうこうしたのである。後、新羅しらぎ强盛きょうせいとなつて、百濟くだらおかし、仁明にんみょう天皇の頃は、最早もはや朝貢ちょうこうせぬのみならず、時には日本の邊境へんきょうおびやかすことさへもあつた。

〔註二〕累葉 新羅しらぎと我が國との關係かんけいじつ神代かみよに初まり、素盞嗚尊すさのおのみことがその子の五十猛命いそたけるのみことを率ゐて韓地かんち往來おうらいしたとの傳說でんせつがあり、新羅しらぎ國王の祖は稻飯命いないのみことだとする說もある。そののち垂仁すいにん天皇の三年に新羅しらぎの王子天日槍あめのひほこ入朝にゅうちょうして各種の貢物みつぎものたてまつり、神功じんごう皇后の征韓せいかんに至つて國史上深い關係かんけいを持つた國となつた。爾後じ ご兩國りょうこく關係かんけいを、この時代まで列擧れっきょすれば

(一)神功じんごう皇后の三かん征伐の結果、新羅しらぎは人質を出し、毎歳まいとし八十そう調賦ちょうふやくした。(二)應神おうじん天皇五年に新羅使つかいきに日本にたいして人質とした微叱許智み し こ ちを取返さうとして來朝したが、種々いつわりを云つたので、之が調査にあたつた葛城襲津彥かつらぎのそつひこいかつて使者き殺し、新羅の一部を攻めたといふ傳說でんせつがある。(三)應神おうじん天皇四十七年に新羅使者は、日本に朝貢ちょうこうする百濟くだら貢物みつぎものを奪つた。朝廷では千熊長彥ちくまのながひこに命じて新羅王を詰責きっせきさせた。(四)應神おうじん天皇四十九年には、荒田別あらたわけ及び鹿我別かがわけしょうとして、百濟の諸士を率ゐしめて新羅を討つた。(五)應神おうじん天皇六十二年には、新羅朝貢いたので、朝廷では葛城襲津彥かつらぎのそつひこつかわして攻めた。(六)應神おうじん天皇七十六年には、使者を遣して朝貢せしめた。(七)應神おうじん天皇八十三年には、百濟の弓月君ゆづきのきみ歸化き かするのを、新羅が妨害した。朝廷は襲津彥そつひこに命じて弓月君ゆづきのきみを召さしめたが、それをも新羅とどめたので、二年後に兵を派遣すると、新羅は陳謝した。(八)應神おうじん天皇百年には、使者を遣して調賦ちょうふを催促した。新羅船が現在の神戸港に到つた時に火災を起し、他國の船に延燒えんしょうしたため、船大工をもこうした。(九)仁德にんとく天皇十一年に使者を遣し朝貢ちょうこうせしめ、その人々を使用して茨田堤まんだのつつみを築かせた。(十)仁德にんとく天皇十七年には、朝貢ちょうこうした非禮ひれいを責めた。(十一)仁德にんとく天皇五十三年に至つて、又も新羅朝貢ちょうこういたので、朝廷は田道たみちを派遣し、不服從ふふくじゅうならば討伐するやうに命ぜられた。新羅も兵をげてあらそつたが大敗した。(十二)允恭いんぎょう天皇三年には、新羅醫師い し天皇御病氣ごびょうきを診察するために來朝らいちょうし、見事恢復かいふくさせたてまつつた。(十三)允恭いんぎょう天皇四十二年に至り、天皇崩御ほうぎょましました。新羅は久しく朝貢ちょうこういでゐたが、この報を受けて弔使ちょうしを派遣した。時に日本との間に誤解を惹起ひきおこし、その後は又も朝貢ちょうこうひんを減ずるやうになつた。

等である。

 かくして、雄略ゆうりゃく天皇御代み よに至り、八年間は一度の朝貢ちょうこうもなく、新羅しらぎは日本軍を恐れて、高麗こ まと結ばうとして失敗し、兩國りょうこく(新羅・高麗)はここに至つて、互にうらみをいだき合ふやうになつた。次ぎに九年、雄略ゆうりゃく天皇親征しんせいされようと決意なされたが、神がそれをとどめられたので、ここ謹述きんじゅつするみことのり紀小弓きのおゆみ以下に下されたのである。

〔注意〕新羅しらぎ討伐の詔勅しょうちょくとしては、この他に

(一)新羅討伐のみことのり雄略天皇七年八月、日本書紀)/(二)新羅を討つの詔(欽明天皇二十三年六月、日本書紀

などがある。いづれも任那みまなにある日本政府にかんしたことが根本となつてゐる。

【大意謹述】新羅しらぎ我國わがくに西方せいほうに位する國で、代々しんしょうして日本に服從ふくじゅうし、朝貢ちょうこう使者寄越よ こして約束通り調賦ちょうふ持參じさんすることを怠らなかつた。しかるにちんだいとなると、對馬つしまから一歩も我が國に近づかず、匝羅さわらから深く內部にかくれてまるで姿を見せない。その上、高麗こ ま貢物みつぎものを持參するのを途中で妨害し、不都合にも百濟くだらの城を奪つてしまつたのである。

【備考】新羅しらぎについては、『大日本史』のうちに、詳しく記されてゐる。それによると、最初、閼川おせん楊山ようざんそん突山とつざん高墟こうきょそん觜山しざん珍支ちんしそん茂山もさん大樹だいじゅそん金山きんざん加里か りそん明治めいじさん高那こうなそんなど六部から成つてゐた。それへ支那し な秦人しんじんが加はり雜居ざっきょしたところから、秦韓しんかんしょうしたのである。新羅しらぎの地は、土地肥えて、五こくみのりよく、蠶桑さんそうの業も、また相當そうとう發達はったつした。その最初の國王は名を赫居世かくきょせい、姓を居西于きょせいうしょうし、爾來じらい、日本の神功じんごう皇后が三かん征伐におもむかるる迄、いく變遷へんせんてゐる。新羅しらぎ叛服はんぷくつねなきことは、雄略ゆうりゃく天皇の時代以前においても、往々おうおう見るところの現象で、百濟くだら貢物みつぎものを妨害したり、日本の軍隊に抵抗したり、始終しじゅう油斷ゆだんのならない國であつた。『大日本史』によると、「雄略帝ゆうりゃくていくらいきて、八年に及べども、新羅しらぎ朝貢ちょうこうせず」と記してゐる。これには、多少の原因もあつた。允恭いんぎょう天皇ほうぜられたとき、新羅しらぎつつしんで哀悼あいとうの意を表し、使者を贈つて、貢物みつぎものけんじ、禮節れいせつにおいてはけたところがなかつた。ところが、その際、使者耳成山みみなしやま畝傍山うねびやまを見て、「うねひはや、みみはや」と云つたのを、誤つて釆女うねめに通じたものとつたへられ、推問すいもんを受けたことがある。それを聞いた新羅國王訥祇とつぎは、日本の處置しょちうらみ、爾後じ ご貢物みつぎものを減じた。次いで訥祇とつぎそっし、その子、きん慈悲じ ひが王位にくと、全く朝貢ちょうこうをやめ、高勾麗こ まを味方に引入れ、日本に反抗する態度を示した。「八年に及べども朝貢ちょうこうせず」と『大日本史』にあるのは、右の如き事情にもとづいてゐる。