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1-2 東征について諸兄諸皇子に賜へる大御言 神武天皇(第一代)

東征とうせいについて諸兄しょけいしょ皇子おうじたまへる大御言おおみことば(第二段)(日本書紀

而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君村有長、各自分疆用相凌轢。抑又聞於鹽土老翁、曰、東有美地、靑山四周。其中亦有乘天磐船飛降者。余謂、彼地必當足以恢弘天業光宅天下。蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。

【謹譯】しかるに遼邈とおくはるかくにいま王澤おうたくうるほはず、ついむらきみあり、ふれおさあり、おのおのみずかさかいわかちてもっあいしのぎきしろはしむ。抑又はたまた鹽土老翁しおつちのおじきしに、いわく、ひんがし美地よきくにあり、靑山せいざんしゅうす。なかまた天磐船あめのいわふねりてくだれるものありと。われおもふに、くにかならまさもっ天業てんぎょう恢弘かいこう天下てんか光宅こうたくするにりぬべし。けだ六合く に中心もなかか。くだれるものは、おもふに饒速日にぎはやびか。なんきてみやこつくらざらんや。

【字句謹解】◯遼邈の地 遠くへだたつた地方 ◯王澤に霑ほはず 皇室の仁政じんせいがまだ及ばない。たくは水たまりすなわ仁政じんせいを形容した語、水は低い部分ならば何處ど こでも差別なしに到ると同樣どうよう、皇室の恩威おんいは天下の各方面の人民に一人ものこらず達するといふ意から王澤おうたくの二字を用ひる ◯ 町の意 ◯疆を分ちて 土地を分割する ◯相凌轢はしむ おたがいに少しでも自分の土地をひろくし、勢力をさうとあらそふこと ◯鹽土老翁 海路をよく知つてゐる神、いにしえの交通は主として海路だつたから、したがつてこの神は遠國えんごくの事情に通じてゐた。なほ〔註一〕參照 ◯東に美地あり 東とは日向ひゅうがから大和地方を指したもの。美地よきくには主として軍事上・政治上の理想的な土地 ◯靑山四周す 四方に靑々あおあおとした山がつらなつてゐる ◯天磐船 古くは大空を飛行する船と考へられてゐたが、これは不合理で、やはり堅固けんごな船の意と解するのが至當しとうであらう、饒速日命にぎはやびのみことがこれにつて飛びくだつたよしは、『舊事紀く じ き』に、「饒速日命にぎはやびのみこと天磐船あめのいわふねり、河內國かわちのくに河上かわかみ哮峰いかるのみねあまくだります云々」とある ◯天業 神勅しんちょくにある皇室の理想を實現じつげんしてゆくべき事業 ◯恢弘 天下にひろめる ◯光宅 ひかりだいの意、天下に君臨すること ◯六合の中心 天下の中央の意 ◯ その古字こ じで、やや意味の强いもの ◯饒速日 物部もののべ氏の先祖で、神武じんむ天皇御東征ごとうせいに先き立つて大和に移住した高天原たかまがはら系の人、詳しくは〔註二〕參照 ◯都つくる 首府を設定する。

〔註一〕鹽土老翁 鹽土老翁しおつちのおじのことはこの他にも、『神代紀じんだいき』のに出て來る。その(一)は瓊瓊杵尊ににぎのみことに國を知らせたてまつつたので、「時に彼處そ こ一神ひとりのかみあり。名を事勝國ことかつくに勝長狭かつながきふ。天孫あめみまの神に問ひてのたまわく、くにありや。こたへてもうさく、あり。よっもうさく、みことのりのまにまにたてまつらむ。天孫あめみま彼處そ こ留住とどまりたまふ。事勝國ことかつくに勝神かつかみ伊弉諾尊いざなぎのみことみこなり、またの名は鹽土老翁しおつちのおじ」(神代紀下の一書)とあり、その(二)は火闌降命ほすそりのみことつりばりを失つた火火出見尊ひこほほでみのみこと海神かいじんの宮を敎へてゐる。「火火出見尊ひこほほでみのみこと憂苦うれえますことはなはだ深し。きつつ海畔うみべたさまよふ。時に鹽土老翁しおつちのおじふ。老翁お じ問ひてもうさく、何のゆえここしましてうれへたまふや。こたふるに事の本末あるかたちを以てす。老翁お じもうさく、たな憂苦う れへましそ。れまさにいましみことのためにはからん云々」(神代紀下)とある。

〔註二〕饒速日 饒速日にぎはやび長髓彥ながすねひこ推戴すいたいせられて大和に居たが、最初は神武じんむ天皇に抵抗し、盛んに皇軍こうぐんを苦しめた。このために天皇御兄おんあに五瀨命いつせのみことこうぜられた程そのいきおいが强かつた。饒速日にぎはやびのちに至つて天皇と自分とが同族であることを知り、長髓彥ながすねひこ歸服きふくをうながしたものの、つくづくとその性質を考へると、れが決して忠實ちゅうじつしんとしてきみほうずることが出來ないのを知り、遂にこれを殺し、全軍を率ゐて天皇くだつたのである。饒速日にぎはやびニギハヤヒともくんずる。

【大意謹述】現に日向ひゅうがを中心とした地方は申し分なく治まつてゐるが、遠くはなれた部分は未だ皇室の仁政じんせいきわたらず、各町村には支配者があつて、おのおの土地を分けたもち少しでも多くしたいと事々ことごとあらそつてゐる始末である。又、遠國えんごくの事情に明るい鹽土老翁しおつちのおじかつてこんなことを言つた。「東方にあたつて軍事上・政治上、理想的な土地があります。樹々の茂つた山が四方をとりいてゐて、非常に形勝けいしょうの地です。その土地に天磐船あめのいわふねつて天からくだつた者があり、現在はその者に支配されてゐるやうです」と。この國こそ皇室を發展はってんさせ、天下に君臨するのに最もふさはしいと考へる。その位置はまさに天下の中央でもあらうか。そこへ天から飛びくだつたといふのは饒速日にぎはやびのことであらう。さうした申し分のない土地をてることは出來ない。早速兵を進めて、そこを首府としようではないか。

【備考】神武じんむ天皇東征とうせいは、在來の皇居があまりに西南地方にへんしすぎてゐるところから、地理上の中心てんともいふべき大和の國を目ざして、軍を進められたのである。それについて、天皇は海軍を編制され、第一に瀨戸せ と內海ないかいの海上けんを占取すべく、速吸名門はやすいなとを通過し、關門かんもん海峡にで、崗水門おかのみなとに軍をとどめられた。次いで安藝國あきのくにり、備中びっちゅうの高島に皇居を作つて、三年間とどまつてをられたのである。(一說に八年とある)それは、十分、瀨戸內海の海上權を制し、且つ軍備を整へるためだつた。

 それから紀元前三年二月、神武じんむ天皇は、艦隊を統率して、備中の高島を後に、海路ことなく、浪速國なにわのくに(難波)にちゃくせられたのである。此處こ こで上陸して、河內國かわちのくに草香邑くさかのむらおもむき、四月、兵をしたがへて、膽駒山いこまやまから大和國やまとのくにへ入らうとせられた。ところが、當時とうじ土蜘蛛つちぐも梟師たけるなどの蠻族ばんぞくがゐて、却々なかなか、いふことをかない。土蜘蛛つちぐもとは、天孫民族以外の種族で、しかも一番、蠻的ばんてきだつた。彼等は大抵たいてい穴居けっきょ生活をいとなみ、知識に乏しく、倫常りんじょうを知らぬのである。梟師たけるとは、土蜘蛛つちぐもよりも、いくらか進歩した種族で、兵力においても、稍々や やすぐれてゐた。左樣そ うした中にあつて長髓彥ながすねひこは、特に强大で、天孫瓊瓊杵尊ににぎのみこと皇兄こうけい饒速日命にぎはやびのみこと推戴すいたいし、威風いふう、近隣を壓服あっぷくしたほどである。

 神武じんむ天皇の軍は、途中、長髓彥ながすねひこの軍と衝突し、孔舍衞坂くさかのさかで敗北するのむなきに至つた。その際、皇兄こうけい五瀨命いつせのみことは、流矢ながれやのためきずつき、紀伊竈山かまやまこうぜられた。當時とうじ皇軍こうぐんの統率者として、その局にあたつたのは五瀨命いつせのみことであつたから、皇軍士氣し きは、一時そのため、振はないやうな有樣ありさまだつた。當時とうじ皇軍は三たび敗北を重ねたので、退いて、難波なにわあるい吉備き びに赴き、軍容ぐんようを整へるか、迂囘うかいして、熊野へ出るか、二者、その一をえらばねばならなかつたのである。

 この際、難波へ退くことは、一層、士氣の沈衰ちんすいまねく憂ひがあるので、皇軍は熊野へ迂曲うきょくする作戰に出た。すなわ名草邑なくさむらから狭野さ ぬ(牟漏郡)をえて、熊野にゆき、天碧盾あめのうわたてに登つて船を海に浮べたところが、風浪ふうろうはげしいため、非常の苦心を重ね、ようや荒坂津あらさかのつ漂著ひょうちゃくしたのである。その地點ちてんは、紀伊南牟婁郡みなみむろぐん新鹿村あらしかむらであらうと推定される。ここから大和討入うちいり著手ちゃくしゅし、途中、酋長しゅうちょう丹敷戸畔にしきのとべちゅうし、八咫烏やたがらす嚮導きょうどうとして、はしい山路やまじを越え、からくも宇陀う だに出た。それから下流の吉野よしの川尻がわじりに向つて一巡したのち、更に引返して、宇陀に至り、弟猾おとうかしを降服せしめ、兄猾えうかしちゅうして、軍容ぐんようおおいに振つた。かうして、九月、八十や そ梟師たけるの討伐に取りかかつたのである。

 その際、皇軍こうぐん弟猾おとうかしの策をれ、十月、八十や そ梟師たける國見丘くにみがおかほろぼし、十一月、兄磯城え し きちゅうして、弟磯城おとしきを服從させ、十二月に至つて長髓彥ながすねひこ總攻擊そうこうげきを加へた。さいわひ、饒速日命にぎはやびのみこと忠誠ちゅうせいにより、長髓彥ながすねひこを斬つて、恭順きょうじゅんの意を表した結果、大和地方一たいを平定することが出來た。

 その翌年、神武じんむ天皇は、各地に將士しょうしして、土蜘蛛つちぐもを討伐し、三月、畝傍山うねびやまの東南、橿原かしはらに皇居を造營ぞうえいせられたのである。以上、大和平定については、容易ならぬ苦心・努力がはらはれてゐる、橿原に帝都を置かれる迄、神武天皇は、日夜、軍事を總攬そうらんせられ、少しも御心みこころをゆるめられなかつた。そこに天皇英明えいめいであらせられ、智勇ちゆう兼ね備へ給うたことを拜察はいさつすることが出來る。

 けだし大和地方は、全日本の中心地として、統治上、位置よろしきを得てをり、經濟けいざい上にも、都合よいところでもあつた。此處こ こから、天下に號令ごうれいせられることは、比較的に早く皇化こうか全體ぜんたいに及ぼすべく、效果こうか的であつた。かの建國の三大こう積慶せっけい重暉ちょうき養正ようせいといふことも、ここに至つて、おおい發揚はつようさるる機會きかいを得たのである。

 以上、建國の三大こうについては、かつ拙著せっちょ『日本思想十六講』のうちで、簡單かんたんにこれを解說したことがある。それに於て、「かの養正ようせいおおせられたのは、至公しこう至正しせいの道を擁護ようごし、實行じっこうされてゆくことである。かの積慶せっけいと申されたのは、慈愛じあいの心を以て、眞善美しんぜんびの國家を建てようとされることである。かの重暉ちょうきと仰せられたのは、叡智えいちを以て、公道こうどうを照さるる意味である」といふ旨を說いた。つ神武天皇は、平和の精神せいしんを非常に重んぜられ、「やいばに血ぬらずしてあだおのずからにやぶれん」と仰せられ、また「鋒刄ほうじんらずしていながらに天下をたいらげん」とも申された、勿論、いかに平和を重んぜらるるにしても、長髓彥ながすねひこの如く、頑强がんきょう皇軍こうぐんに抵抗するものに向つては、むなく、鋒刄ほうじんを以て、これを征伐せられたのである。すなわ尙武しょうぶの心を一方に備へての威力ある平和主義であることはいふ迄もない。要するに、わが建國けんこく精神せいしんは、右に述べた如く、雄大であり、公明であつて、みちくに―日本の姿を明白に表現してゐる。