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1-1 東征について諸兄諸皇子に賜へる大御言 神武天皇(第一代)

東征とうせいについて諸兄しょけい諸皇子しょおうじたまへる大御言おおみことば(第一段)(日本書紀

昔我天神高皇產靈尊、大日孁尊、擧此豐葦原瑞穗國、而授我天祖彥火瓊瓊杵尊。於是彥火瓊瓊杵尊、闢天關、披雲路、駈仙蹕以戻止。是時運屬鴻荒、時鍾草昧。故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考乃神乃聖、積慶、重暉、多歷年所。

【謹譯】むかし天神あまつかみ高皇產靈尊たかみむすびのみこと大日孁尊おおひるめむちのみこと豐葦原とよあしはら瑞穗國みづほのくにげて、天祖あまつみおや彥火瓊瓊杵尊ひこほににぎのみことさずけたまへり。ここおい彥火瓊瓊杵尊ひこほににぎのみこと天關あまのいわとひらきて、雲路くもじおしわけ、仙蹕みさきはらひおひていたります。とき鴻荒あらきひ、とき草昧くらきあたれり。くらくしてもっただしきをやしなひ、西偏にしのほとりらす。皇祖こうそ皇考こうこうすなわしんすなわせいにして、よろこびかがやきかさね、きわ年所としのついでたり。

【字句謹解】◯我が天神 一般に天神あまつかみとは高天原たかまがはらにまします神々を指すが、皇室の御血統について云々する際には天神あまつかみといへば、高皇產靈尊たかみむすびのみこと及び天照大御神あまてらすおおみかみを指すものと定まつてゐる。時にはこの御兩尊ごりょうそん中の何れか一柱ひとはしらを意味することもある ◯高皇產靈尊 天地の最初に出現した三じんの一で、創世神そうせいじんとしてつたへられてゐる。但し書紀の本文ほんもんには創世神としてこの神は發見はっけん出來ない ◯大日孁尊 天照大御神あまてらすおおみかみのこと ◯豐葦原瑞穗國 あしひしげつたくにの意で、高天原たかまがはらたいしての地上の國土を指したもの。なほ詳しくは〔註一〕參照 ◯擧げて 全部と云ふ意味。これは有名な神勅しんちょく葦原あしはら千五百ち い ほあき瑞穗國みづほのくには、子孫うみのこきみたるべきの地なり。よろしくいまし皇孫すめみまいてらせ、行矣さきくませ寶祚あたつひつぎさかえまさんこと、まさに天壤あめつちともきわまりなかるべし」(第一卷思想社會篇)と交渉を有する ◯我が天祖 天祖あまつみおやは天上から降臨された皇室の御祖先。申すまでもなく瓊瓊杵尊ににぎのみことを指したてまつつたのである ◯彥火瓊瓊杵尊 天照大御神あまてらすおおみかみ御孫おんまご天之忍穗耳命あめのおしほみみのみこと御子み こあたられ、この國土を統治するために高天原たかまがはらから降臨された ◯天關 あまのいはと、天上から地上に往復する關門かんもんの義、『古事記』のあま石位いわくらあたる ◯雲路 天上から地上の間にある雲のむれのこと、『古事記』の「あめ八重や えぐもおしけて、稜威い づきて」にあたる ◯仙蹕駈ひおひていたります 仙蹕みさきは天子の前後に在つて警護するもの、〔註二〕參照 ◯ 世の中の一般の樣子ようす ◯鴻荒に屬ひ 未開の狀態じょうたいにあること、こうは大きい形容、こうは世がひらけぬ意 ◯ 世の動き ◯草昧に鍾れり 草昧くらきは世のけ初めで、未だ萬事ばんじが整つてゐない時、あたるあたるに同じ ◯蒙くして以て正しきを養ひ 太古そのままの質素な風俗を中心として、一歩づつ正しい道を人々に知らしめてゆくこと。この記述は特に注意する必要がある。當時とうじ日向ひゅうが地方につてゐた熊襲くまそ隼人はやとなどの未開族を同化どうかするのに、我が皇室の御祖先に於かせられては、その風俗・習慣を一きょに革新せず、づ不備な諸點しょてんを一つ一つげて新しい便利な方法を敎へ、一歩々々正しい道を示したのである。所謂いわゆる德を以て民をする方針をとつたことは、我が皇室の方針がいたずらに武斷ぶだん一方でなかつたのを物語るに十分である ◯乃ち神乃ち聖 かみひじりともくんず。神にましましながら聖人の德をそなへた意 ◯慶を積み暉を重ね けい仁政じんせい光輝こうきの事であるがここでは正智せいちを意味す ◯多に年所を歷たり 多くの年月ねんげつ經過けいかした。〔註三〕參照。

〔註一〕豐葦原瑞穗國 とよは美稱びしょう、あしはらはあしひしげつた原、みづほは、めでたい稻穗いなほの意で、水田の多い、水のゆたかな美しい國のこと。日本の異稱いしょうかんしては、最初大和一國から全日本に及んだものに、秋津洲あきつしま浦安國うらやすのくに細戈千足國くわしほこちたるのくに磯輪上秀眞國しわかみほづまのくに玉牆內國たまがきのうちつくに虛空見日本國そらみつやまとのくになどがある。

〔註二〕仙蹕駈ひおひていたります これは天孫てんそんの降臨にあたつて、五しんを配したこと。高皇產靈尊たかみむすびのみこと天照大御神あまてらすおおみかみとは瓊瓊杵尊ににぎのみことを降臨させられることになつたが、下界を望みると未だ平定しない部分が多く、所謂いわゆる出雲いづも國家こっかとして知られてゐる大己貴神おおあなむちのかみの一とうが特に勢力が强い。そこで諸神を集合して、これを征伐する適任者を問はれた結果、先づ天穗日命あめのほひのみことを遣はした。しかるにこの天穗日命あめのほひのみことは、大己貴神おおあなむちのかみの機嫌をとつてばかりゐて、いつまでたつても復命ふくめいしない。天上では次にその子の大背飯三熊之大人おおせいいのみくまのうしを遣したが、これも父と同一行動をとつて自分の使命を忘れてしまつた。天上では更に會議かいぎの結果、天稚彥あめのわかひこにこの大任を授けられた。稚彥わかひこは武器を賜つて元氣よく下界に行つたものの、これもそのまま何の報告もない。それもその筈で、稚彥は出雲に下照姬したてるひめといふ美人と結婚し、自分がその統治者にならうといふ野心を起したのである。天上では稚彥の樣子をさぐるため無名雉ななしきぎしを遣したが、これを稚彥は見て、かつて賜つた矢で射殺すと、その矢は天上に達し、高皇產靈尊たかみむすびのみこと御前みまえに到つた。みこと御手お てに取つて御覽ごらんあり、「この矢は稚彥に授けたものであるのに、血で眞赤まっかに染められてゐるところを見ると、下界の神々と戰つてゐるのかも知れない」と、再び投げ還されると、矢はみこと御手お てから離れ、稚彥の胸の上にあたつて、稚彥はそのまま息えた。天上では又も會議かいぎして、今度は經津主神ふつぬしのかみ武甕槌神たけみかづちのかみとをその責任者として下界に派遣し、遂に出雲國家を平定することが出來た。その報告を得ていよいよ天孫てんそん降臨こうりんが決定されると、天照大御神あまてらすおおみかみは三しゅ神器しんきを賜ひ、神勅しんちょくを授けられて、中臣なかとみ遠祖えんそあた天兒屋命あめのこやねのみこと忌部いんべの遠祖に當る太玉命ふとだまのみこと猨女さるめの遠祖に當る天鈿女命あめのうづめのみこと鏡作かがみつくりの遠祖に當る石凝姥命いしこりどめのみこと玉作たまつくりの遠祖に當る玉屋命たまのやのみこと御供おともとして前後に奉仕せしめられた。

〔註三〕多に年所を歷たり 『神武紀』には、このしもの部分に細註さいちゅうで、「天祖てんそ降跡あまくだりましてより以逮このかた、今に一百七十九まん二千四百七十さい」とある。

【大意謹述】今からかぞへきれない程の太古に、高天原たかまがはらられた我が皇室の御先祖、高皇產靈尊たかみむすびのみこと天照大御神あまてらすおおみかみは、下界にあるこのあしの多いいねの盛んに出來る美しい國を、天孫てんそん瓊瓊杵尊ににぎのみことに授けられ、永久に皇統こうとう連綿れんめんつづくことを希望あらせられた。そこで天孫てんそん瓊瓊杵尊ににぎのみことは、天地のさかいである天關あまのいわとをひらき、むらがる雲を押分け、前後に多くの護衞兵ごえいへいを召連れて降臨された。その時は未だ世の中は文化が進んでゐず、萬事ばんじが整頓されてゐない。故に瓊瓊杵尊ににぎのみことは一歩々々その文化を進めようと考へられ、太古質素の風を失はないで、しかも正しい方面に善導ぜんどうされ、今我等のゐる日向ひゅうが地方を平定された。その後、代々よ よの御先祖方は、神であると共に聖人の德をそなへてゐられて、恩惠おんけい萬民ばんみんれ、正智せいちを以て民を導き、非常に長い年月ねんげつたのである。

【備考】この勅語ちょくごは、神武じんむ天皇おん四十五歳の時に、一にち皇兄こうけい五瀨命いつせのみこと稻飯命いないのみこと及び皇嗣こうし手研耳命たぎしみみのみことたまわつたのである。かく神武天皇東征とうせいのことを決定される迄の治世ちせいは、どんな具合であつたか、今日、明確に分明わ からない。天孫てんそん瓊瓊杵尊ににぎのみことが降臨せられた高千穗たかちほの峰についても、種々の說がある。(一)日向ひゅうが肥後ひ ご豐後ぶんごの三國にそばだつ山岳重疊ちょうじょうの地とする說(二)日向國ひゅうがのくに西臼杵郡にしうすきごおり高千穗村たかちほむらとする說(三)大隅おおすみのくに囎唹郡そおごおり日向國ひゅうがのくに諸縣郡もろかたごおりとにまたが霧島山きりしまやまとする說などである。これについて、一々考證こうしょうすることは、しばらき、第一の說、すなわち日向・肥後・豐後の三國にそばだつ山岳重疊じょうちょうの地と解釋かいしゃくした喜田き だ貞吉ていきち氏の說が、穩當おんとうにちかいかと思はれる。それから瓊瓊杵尊ににぎのみことが宮殿をいとなまれた笠沙かささみさきについてもまた、いろいろ說があるが、これを日向の平原とするもの、或は薩摩國さつまのくに川邊郡かわなべごおり野間岬のまさきだとするものもある。いづれにしても、そこは、朝日もよくさせば、夕日もよく照りかがやく、ほがらかな場所で、眺望ちょうぼうも美しく、風もきよかつた。かうした場所に宮殿を作つて、國土經營けいえいあたられたのである。

 當時とうじ、九州方面には、日向ひゅうが大隅おおすみ肥後ひ ごの間に狗奴國くぬのくに熊襲)あり、筑前ちくぜん筑後ちくごの間に耶馬臺國やまとのくにがあるとつたへられてゐる。耶馬臺國やまとのくには、海神國かいじんこくだともはれ、その國王は女性で、垂仁すいにん天皇の頃迄、存續そんぞくしたらしい。一方、狗奴國くぬのくには、天孫てんそん民族に反抗し、次第にはびこり出したので、到頭とうとう景行けいこう天皇の時代に親征しんせいされる事となつた。以上の二國に向ひ、瓊瓊杵尊ににぎのみことは、建國の三大こう養正ようせい積慶せっけい重暉ちょうきの德を以て臨まれ、これを善導するにつとめられたのである。かうした大方針は、瓊瓊杵尊ににぎのみことのあとをがれた火火出見尊ひこほほでみのみことの時代にも、固く守られ、三代目の聖主せいしゅ鸕鶿草葦不合尊うがやふきあえずのみこと治世ちせいに於ても、嚴守げんしゅされたのであつた。