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69 敎育者ニ賜ハリシ勅語 今上陛下(第百二十四代)

敎育者きょういくしゃたまハリシ勅語ちょくご(昭和六年十月三十日)

【謹譯】健全けんぜんナル國民こくみん養成ようせい一人ひとり師表しひょうタルモノノ德化とっかツ。こと敎育きょういくしたがフモノ、奮勵ふんれい努力どりょくセヨ。

【字句謹解】◯師表 世人せじんの手本となる人 ◯德化 とくを以て人を敎へ導くことにより、及ぼすところのよき感化かんか ◯奮勵 一生懸命にふるひ起ち、はげむ事 ◯努力 つとめてもっぱら力を注ぐ事。

〔注意〕ここかかげた詔勅しょうちょくは、昭和六年、文理科大行幸ぎょうこうの際、親しく、時の文相ぶんしょう田中たなか隆三りゅうぞうたまわつたのである。

【大意謹述】身心しんしん共にすこやかで、ほがらかな國民を作りあげるには、どうしても、その指導者たる敎員が立派に人の手本となると同時に、その德望とくぼう善行ぜんこうなどにより感化かんかしてゆくことが何よりも肝要かんようである。みずからその儀表ぎひょうを示し、學ぶものに向つて、「かくせよ」と掲示するところがなくてはならぬ。ゆえに高等の敎師を養成する文理科大學の敎職員は、このてんについて自省じせいし、つふるひ立ち、もっぱら力をこの方面に集中してほしい。

【備考】この勅語ちょくごの中心てんは「德化とっか」の二字にあると拜察はいさつしても差支さしつかへなからう。思ふに、近時きんじの敎育家中には、知識萬能ばんのうを信ずるものが少くない。知識がひろく、すぐれてさへをれば、その人格如何いかんは問題とされぬ情勢である、ここに昔の敎育家と現代の敎育家との相違そういがある。昔の敎育家は知識が狭く、また特にすぐれてをらぬものが多かつたが、率先、自分が子弟の手本となるといふことをある程度ていどまで自覺じかくし、ぜんを行ひ、とくにいそしむ傾向が、大體だいたいにおいて强かつた。

 ところが、現代になると、ただ知識の上においてすぐれ、研究に熱心ならば、それでよいとせられてゐる、そこに德の實現じつげん、善の實行じっこうなるものについて、あまり留意しない。時としては、學問の進む割合に、人格は次第に下落してゆく增上慢ぞうじょうまんの敎育家も、少くない。これでは、結局敎師がづ知識に中毒して、次ぎに學生もまた中毒するといふやうな、見苦しい結果をもたらすにすぎない。こんなことでは、敎育の意義は、全く沒却ぼっきゃくされてしまふ。

 今上きんじょう陛下が、特にこのてんについて、文理科大學の敎職員に敎へられたことは、これを一般敎育界に及ぼさるべきものと、おそながら、拜察はいさつする。德化とっか!これが敎育の中心となつてこそ、はじめて、そこに意義があり、效果こうかがある。知識の豐富ほうふのみを目がけて、德化とっかを忘れてしまつてゐる敎育者はおおい自省じせいしなくてはならぬ。

 たとへ、その敎育者が、倫理・道德を講ずる役目にあたつてをらずとも、すべて諸種しょしゅの學問を分擔ぶんたん敎授きょうじゅしてゆく人々は、第一に德化とっかについて考へ、自家の人格圓成えんじょうについて、心からつとめねばならない。すなわちそれが法律を敎へ、あるい理化り かさずけるにしても、その講義の際に、人格鍛錬たんれんといふことを寸秒すんびょうも、念頭から離してはならない。歷史を講じ、地理を語るものもまた寸時すんじも、日本獨特どくとく德化とっかについて、忘れてはならない。一切の敎育家は、その專攻せんこう學術がくじゅつの知識を深めるばかりでなく、德を積むことにも熱心でありたい。かくしてこそ、はじめて、立派な敎育者を作る所以ゆえんで、今上きんじょう陛下がここ留心りゅうしんあらせられたことは、喜ばしい限りである。

 かの近江おうみ聖人せいじんといはれた中江なかえ藤樹とうじゅは、思想家として、必ずしも、その門下の熊澤くまざわ蕃山ばんざんまさつてをつたとはへない。けれども德化とっかにより、一きょうを導き、やがて天下に及ぼす力に至つては、拔群ばつぐんだつた。すなわ藤樹とうじゅ眞價しんかは、率先、德化とっか主義によつたところにあるとつて、差支さしつかへない。學問はすえで、德化とっかもとだ。この本末ほんまつ顚倒てんとうしないやう、敎育當局とうきょくの人々が、自奮じふん自勵じれいすることは、今の非常時期に最も必要だと信ずる。