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67 明治節制定ノ詔書 今上陛下(第百二十四代)

大日本詔勅謹解2 道德敎育篇

明治節めいじせつ制定せいてい詔書しょうしょ(昭和二年三月四日)

【謹譯】ちん皇祖考こうそこう明治めいじ天皇てんのう盛德せいとく大業たいぎょうつと嚝古こうこ隆運りゅううんひらカセタマヘリ。ここニ十一月三日ヲ明治節めいじせつさだメ、臣民しんみんともなが天皇てんのう遺德いとくあおキ、明治めいじ昭代しょうだい追憶ついおくスルところアラントス。

【字句謹解】◯皇祖考 亡きおん祖父のこと ◯盛德 廣大こうだい御德おんとく ◯大業 大きな事業、〔註一〕參照 ◯嚝古ノ隆運 古來例のない程の盛大な御代み よ ◯遺德 後世にのこる御恩德ごおんとく ◯昭代 よく治つた御代み よ、〔註二〕參照 ◯追憶 すぎ去つた時をなつかしく思つて再び頭に浮べる。

〔注意〕十一月三日は、明治天皇御生誕ごせいたん遊ばされた日である。

〔註一〕明治の大業 アメリカ人ノツクスは明治時代を大觀たいかんして、「日本はヨオロツパが三百年間の努力によつて成就じょうじゅしたところを僅々きんきん三十年間に成就した」とひ、明治の進歩が非常に目ざましいことを賞揚しょうようした。事實じじつ、明治年間の進歩を數字すうじ的に示すと、すべてにわたつて、驚くべき膨脹ぼうちょうしてゐる。明治元年明治天皇卽位そくいされた時、わが國の面積は約二まん四千方里ほうりだつた。それが臺灣たいわん・朝鮮を領有するに及び、四萬三千方里となつた。人口もまたそれと同じで、以前は三千萬內外にとどまつてゐたのが、明治末年まつねんには、六千三百萬に增加ぞうかした。明治八年頃、四五千萬圓まんえん歳入さいにゅうだつたのが、明治末年には六億えんに上り、明治の初めに二千六百萬圓だつた貿易は、明治末期に十億圓に上つた。その他、鐵道てつどうの延長は七千マイル(明治の末)に達し、陸軍は十九個師團しだん、五十萬の精兵せいへいを蓄へ、海軍は大艦だいかんせき噸數とんすう五十幾萬いくまんかぞへるやうになつた。以上の進歩は明治天皇の御指導によるところが多い。

 それゆえ、ある外字がいじ新聞は「その發展はってんは世界史上、類例を見ないほど、目ざましい。明治四十五年間に於ける治世ちせいは、まさ驚歎きょうたんあたいする。日本國民が各種の平和事業につくしたあとは、世界の國民を奮起せしむるに足り、その戰勝せんしょう餘威よ いは、世界に響きつつある」とつた。また『ジユルナルヅ・デバア』紙は、「吾人がじんの時代に於けるいずれの君主も、陛下に及ぶものがない。ドイツの明君めいくん、ウイルヘルム一世の事業も、またイギリスの故ヴイクトリア女皇じょおう治世ちせいも、明治天皇の統治された時代、人民と協同、盡力じんりょくされた事業にくらべると、はるかに下位にある」とつた。それによつても明治天皇盛德せいとく・大業の一面がわかる。

 思ふに、明治天皇は、早く國歩こくほ艱難かんなんの局面に起たれ、少からぬ御苦心ごくしんを重ねられた。卽位そくいせられたのは、慶應けいおう三年正月で、御年おんとし十六歳であらせられた。いで明治元年、御年十七歳の時、南殿なでん出御しゅつぎょあつて、あまね公卿く げ諸侯しょこうされ、みずか天神てんしん地祇ち ぎを祭つて、五箇條かじょう御誓文ごせいもんはっせられたのである。同二年六月、神祇官しんぎかん行幸ぎょうこうあらせられ、御祖先ごそせん國是こくぜを一定したことを報告、爾來じらい日毎ひごと御學問所ごがくもんじょ出御しゅつぎょあつて、國政こくせい總攬そうらんされた。

 當時とうじ、一面においては、各種の改革を斷行だんこうせられ、他面においては、新舊しんきゅう思想の衝突からくる動搖どうようしずめて、國民を指導されたのであるから、その御骨折おほねおりのほどは、非常なものであつたらう。やがて西南戰爭せんそうむと、ようや世局せいきょくも安定に近付いたので、閣員かくいん督勵とくれいして、主に內政上の刷新さっしんを行はせられた。次いで國會こっかい開設の運動が民間において益々ますますさかんになり、政黨せいとうようや擡頭たいとうして、朝野ちょうやの衝突がはげしくなつたとき、明治十四年、國會こっかい開設の詔勅しょうちょくたまわつた。これにより、政治上の雲行くもゆきぼ安定し、國民はむかふところを知つた。當時とうじ、陛下は三十歳であらせられたのである。

 爾來じらい國政こくせいは一段の進歩を加へ、明治十八年には、太政官だじょうかんはいして、內閣組織が成り、二十年には、海防かいぼう充實じゅうじつに特別の力を注ぐこととなつた。やがて二十二年になると、帝國ていこく憲法けんぽう發布はっぷがあり、翌二十三年には敎育きょういく勅語ちょくご渙發かんぱつされた。同じ年、始めて帝國ていこく議會ぎかいが開かれ、立憲りっけんの基礎ここに成つたのである。時に陛下の御年おんとしは三十九歳であらせられた。

 その後、日淸にっしん戰爭せんそう日露にちろ戰爭せんそうの二大役だいえきがあつて、陛下は勵精れいせい國事こくじ大御心おおみこころを傾け給ひ、日夜多忙を極められ、ほとん御暇おんいとまとてはなかつたのである。しかもその中にあつて征戰せいせんおもむける將卒しょうそつ勞苦ろうくを深く思ひやられ、優渥ゆうあく御諚ごじょうたまわつた。その大きく深い御仁慈ごじんじ御心みこころ當時とうじ御詠ぎょえいによく現はれてゐる。

 當時とうじ、二大戰役だいせんえきの勝利に伴うて、日本の國勢こくせいおおい伸張しんちょうし、日英にちえい攻守こうしゅ同盟どうめいの成立に次いで、韓國かんこく(朝鮮)を日本の保護下に置く事となり、更に明治四十三年には、朝鮮ちょうせん併合へいごう條約じょうやくが締結された。ここに至つて、日本が東洋全局の平和を保つべき基礎をぼ固めることが出來たのである。かくて明治四十五年、陛下は日本の國威こくい益々ますます世界に發揚はつようする隆運りゅううん時代に、御病おんやまいのため、寶算ほうさん六十一歳で、國民深悼しんとうのうちにほうぜられた。當時とうじ上下しょうかげて、只管ひたすら、陛下の御平癒ごへいゆを祈願したことは、今ほ記憶に新たなるところであらう。かの乃木の ぎ大將たいしょう夫妻は忠誠ちゅうせいの心から、殉死じゅんしすべく、自刄じじんしたのであつた。

 明治天皇追慕ついぼする國民の熱情は、その後、日一日、濃厚を加へた。そして國難こくなんきたる毎に、天皇の偉大を今更に思ひ浮べまゐらせて、その後威靈いれいにすがりまゐらせようとする心持こころもちで一杯になる。代々木よ よ ぎにしづまります明治天皇御神祠ごしんしに、參拜さんぱいするものが年々、いよいよ多きを加へてゆくのは、そのためである。

〔註二〕最大の治世 明治天皇御遺德ごいとく欽仰きんごうするものは非常に多い。外人中にも、それが中々なかなか、少くない。そのうちで、多年たねん、日本にしたしみを持つたウイリアム・エリオツト・グリフイスといふ米國の學者(文學博士・神學博士)の明治天皇かんは、特に注目をく。グリフィス氏いわく、「明治天皇御特質ごとくしつの一つは、寬容かんようと同情心にあつたと思ふ。これらのてんについて、多くの話をも聞いたが、誰も皆思ひりの深い立派な人格の御方おかただと話して居た。世には偉大な人物でも隨分ずいぶん亂暴らんぼうな人がある。しかし、明治天皇は偉大性と同時に人間味がゆたかであらせられた。そのてんが、いたく私の心をいたのである。その御治世ごちせいくも長かつたといふことは日本の歷史中にあつて、驚異すべき特徵とくちょうであるが、世界においても、これほど長く治世ちせいつづいた主權者しゅけんしゃは少い。明治の如く政治上に大變化だいへんかのあつた時代には、ことにさうである。それから明治天皇は、その周圍しゅうい幾多いくたの偉人を引付けられたが、それは天皇御自身が偉大であらせられたからである。全く新政府設立の當時とうじ天皇の四に、あれほど多くの有力者がゐたことは確かに驚異であつた」と。更にグリフイスは附言ふげんして、日本の靑年せいねん寄語き ごし、「この際、私は日本靑年にたいして一げんしたい。諸君は日本の將來しょうらいと安全のために、常に天皇たいする敬虔けいけんの念を保持し、そのたっと傳說でんせつ愛慕あいぼせねばならぬ」とつてゐる。

 詩人野口のぐち米次郞よねじろう氏は『明治節めいじせつを喜んで』の題下だいかに、明治天皇遺德いとく追慕ついぼし、「じつ日露にちろ戰爭せんそう當時とうじに於ける明治天皇雄姿ゆうし萬雲ばんうんを貫く富士山にたとふべきもので、その大稜威おおみいずは十ぽう無碍む げわたらせられると思はれた。海外にゐた私共わたしどもはいふまでもなく、すべての外國人にも、天皇こそ世界に最も偉大なロマンチストであるとえいじた・・・そして日本のノマンチシズムは決して乾坤けんこんてき賭博とばくでなく、所謂いわゆるかむながらの道へ捧げる犠牲心にほかならなかつた。天皇は歌ひ給うた『おのづからあだのこころもなびくまでまことの道をふめや國民くにたみ』・・・神明しんめい御照覽ごしょうらんあれ、私共わたしども日本人は傳統でんとう的に平和の國民である」と述べた。

 それから德富とくとみ蘇峰そほう氏は『明治の御代み よ明治天皇』の題下だいか追慕ついぼまことを述べ、「明治の御代み よに於ては、恐れながら陛下はじつに最善の船長にておわせり。明治の社會しゃかいの航海は、決して無事安穩あんのんならざりしなりあるいは大暴風雨に襲はれ、あるいは暗礁にり上げんとし、或は水夫の絕望ぜつぼうとなり、或は乘客じょうきゃく混亂こんらんとなり、或は羅針盤らしんばんを失ひ、或はかじを折り、或は蒸汽じょうき機關きかんを損じ、の困難はふばかりなかりしなりしかかも檣橋しょうきょうの上に起つ船長は、泰然たいぜん自若じじゃくたり。船長は豫定よてい針路しんろに向つて急がず、騒がず、の航海を持續じぞくしたり。しかしてかくの如くして明治の御代み よは、堂々として、大正の御代み よりしなり」とつた。更に語をいで「明治の御代み よに於ける最も大なる難題は、時代の要求と、社會しゃかいの供給との矛盾これなり。時代は國民に獻身的けんしんてき努力を要求せり。されど社會しゃかい怖外心ふがいしん崇外心すうがいしんとをあたへたり。時代は國民に擧國きょこくの公共心を要求せり。されど社會しゃかいは遠心的個人主義あたへたり。の要求と、供給との矛盾は、半世紀にわたる明治の御代み よをして、幾囘いくかいか國家的危機におちいれんとしたり。此際このさい、我が明治天皇にして、縱令たとえ人君じんくんの天職を行ふ善意を以てし給うても、まん中正ちゅうせいの道を踏み外し給うたるが如きことありしならば、我が帝國はたちまの中心てんを失ひ、意外なる傾覆けいふくを見たらんも、未だ知るべからず。だ我が明治天皇は、如何い かなる場合に於ても、よびいく國家の權衡けんこう把持は じし給うて、進歩のうちに秩序をぐうし、秩序のうちに進歩をぐうし、世論の急進にへんしたる場合も、常歩じょうほしっし給はず。世論の反動に傾きたる場合も、の目標をしっし給はず。一切の世論の上に超然ちょうぜんとして、しかも世論を調節し、ひにの國家をして今日こんにちあらしめ給ひしなり吾人ごじんは陛下が輔弼ほひつ臣僚しんりょう獻替けんたいに待ち給ふ事の、多大なりしをいなあたはず。されど輔弼ほひつ臣僚しんりょうは千百もありし。いやしくも陛下の聖德せいとくあらずんば、いずくんぞの時代の一大痼疾こしつたる矛盾をすくひ、我が維新いしんの大目的を遂行すいこうするを」と述べてゐる。

 最後に「およそ我が明治天皇の如く、終始しゅうしかん恒久こうきゅう持續じぞく御方おんかたは、世界古今に比類ひるい多からざるべし。陛下はたんる一二のてんのみならず、すべてのてんに於て、かくの如くおわせり。されば我が國民の或者あるものが、あたかも竿を立つるが如く、あるいは左に傾き、或は右に傾き、或はうしろに傾き、ほとんどいずれかに偏倚へんいしたるにかかわらず、我が明治天皇は、つね中正ちゅうせいを保持し給ひしなり。明治の御代み よ堅實けんじつなる進歩は、じつに陛下のの御性格のたまものなり」と讃仰さんごうした。

【大意謹述】亡きおん祖父であられる明治天皇は、その廣大こうだい御德おんとくと盛大な御事業ごじぎょうとにより、古來類例るいれいを見ない程の御盛運ごせいうんの時代を開かれ、國史上に明治時代といふ輝かしい一時期を後世にのこされた。ゆえちん今年こんねんから、その御生誕ごせいたん當日とうじつあたる十一月三日を明治節めいじせつと定め、一般國民と共に永久に天皇の後世にのこされた御恩德ごおんとく追慕ついぼし、明治といふよく治まつた立派な時代を、末長くなつかしみ、之を記念するため、ここに祭日と決定する。

【備考】明治時代は、國史上、大化たいか革新かくしん時代・元祿げんろく時代よりも、更に偉大である。大化革新の時代は、支那し な文化を採用して、皇室中心的にすべての方面に改革を斷行だんこうせられ、皇道こうどう光輝こうき發揚はつようした。それから元祿げんろく時代は、江戸及び京阪けいはんの文化はいちじるしく活氣をび、創造的・建設的にはなやかさを極めた時代だつた。この二つの大きい時代を思ひ起すことは、國民に取つて、限りないインスピレエシヨンをるわけだ。

 が、以上の二つの時代を一つにしたほど偉大なのは明治時代である。その中心となられたのは、明治天皇であらせられる。思ふに、天皇を追慕し、その遺德いとく欽仰きんごうすることは、やがて國民の心身を緊張せしめる所以ゆえんで、天皇が、中正ちゅうせい不偏ふへん大道たいどうを歩まれて、國民を正しい方へ只管ひたすら導かれ、不斷ふだん精勵せいれい勤儉きんけんを以てせられたことを思ふと、國民は、寸刻すんこくも、偸安とうあん姑息こそくせいに甘んずるわけにゆかぬのである。

 それに考へる迄もなく、明治時代の偉大を築きあげるには、多大の犠牲がはらはれてゐる。日淸にっしん戰爭せんそう日露にちろ戰爭せんそうは、その最大なもので、當時とうじ天皇におかれては、文字通り、不眠不休に政務を御總攬ごそうらんになつた。いかに勤勉な閣臣かくしんいえども、天皇絕大ぜつだい御精力ごせいりょく卓絕たくぜつした御識見ごしきけんの前にはおのづから、頭が下つたのである。すなわち偉大な時代の出現には、偉大な犠牲がはらはれる。この事を考へるならば、今後、更に輝かしい時代を招來しょうらいするには、絕え間なき努力、休むことなき向上が必要である。

 率直にいふと、昭和の時代は、これを大正時代にくらべると、あままさつてゐるとは思はれない。少くとも、現在迄の有樣ありさまによると左樣そ う考へられる。更に大正時代は、これを明治時代にくらべると、著しく光彩こうさい生氣せいきとを減じたかんがある。このてんについて、國民は猛省もうせいしなくてはならぬ。昭和時代に於ける維新いしん實現じつげん!もしこの事が正しい道において行はれたら、あるいは明治に匹敵する時代を現出げんしゅつせずとも限らぬ。けれどもこの事は容易でない。

 更に明治時代の人物について見ると、一たいに規模・輪廓りんかくが大きく、濶達かったつ豪放ごうほうで男性的美が多かつた。それが大正になると、次第に規模をせばめ、輪廓りんかくを小さくし、濶達かったつ豪放ごうほうの分子に乏しくなつて來た。昭和に入ると一層、この傾向がはなはだしくなつて來てゐる。小利口こりこう・小細工に長じて人物が多くなつて、神經しんけい過敏かびんで、いらいらしたものが少くない。

 かうした時代にあたつて、明治天皇御遺德ごいとくを年々、追慕ついぼし、合せて盛運せいうんを極めた明治の黄金期を思ふことは、國民に取つて、最もよき敎訓に接する機會きかいあたへよう。また敬拜けいはい誠意せいい明治天皇に捧げるについて、この時よりよきはない。風淸く菊かほるシイズンに、明治節めいじせつしゅくすることは、いかにも、意義深き國民的大祭たいさいの一つである。これをもつともつとさかんにしゅくしたい。