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66-4 帝都復興ニ關スル詔書 大正天皇(第百二十三代)

帝都ていと復興ふっこうかんスル詔書しょうしょ(第四段)(大正十二年九月十二日)

【謹譯】そもそ東京とうきょう帝國ていこく首都しゅとニシテ、政治せいじ經濟けいざい樞軸すうじくナリ。國民こくみん文化ぶんか源泉げんせんトナリテ、民衆みんしゅうぱん贍仰せんぎょうスルところナリ。一ちょう不慮ふりょ災害さいがいかかリ、いまその舊形きゅうけいとどメストいえどモ、依然いぜんトシテわが國都こくとタルノ地位ち いうしなハス。これもっ善後策ぜんごさくハ、ひと舊態きゅうたい囘復かいふくスルニとどマラス、すすンテ將來しょうらい發展はってんはかリ、もっ巷衢こうく面目めんもくあらたニセルヘカラス。おもフニ忠良ちゅうりょうナル國民こくみんハ、義勇ぎゆう奉公ほうこうちんともそのけいラムコトヲ切望せつぼうスヘシ。

【字句謹解】◯首都 第一の都會とかい首府しゅふの意 ◯樞軸 最も大切な部分、てんじて中心地となる ◯贍仰 尊敬の念を以てながめる ◯一朝 突然にの意 ◯不慮ノ災害 思ひをかけぬわざはひ ◯依然トシテ 前と同じやうに。この部分は、當時とうじ一部の方面に「遷都論せんとろん」が起つたので、特に御詔みことのりの中で非遷都の意味を言明げんめい遊ばされた ◯國都 一國全體ぜんたいを代表する都會とかい首府しゅふの意 ◯是ヲ以テ 東京は日本の首府しゅふであるがゆえにの意 ◯善後策 後始末をつける計畫けいかく ◯舊態 もとの有樣ありさま、大震災以前の有樣ありさまのこと ◯巷衢ノ面目 市街の樣子ようす ◯義勇奉公 國家・社會しゃかいのために一身を犠牲にして力を致すこと ◯其慶ニ そのよろこびに、すなわ首府しゅふとして益々ますます盛大となりゆく東京に住むよろこび。

【大意謹述】ここでちんは我國に於ける東京の地位を考へて見たい。東京は日本帝國の首府しゅふであり、政治上・經濟けいざい上の中心地である。又、一國の文化はすべて東京からはっして地方にひろがるので、はば全國民が東京を一段高いものの一つの模範としてながめてゐるともいへるが、突然に思ひもよらない天變てんぺん地異ち いのために、表面からた過去の姿は見るよすがもなくなつた。けれども實質じっしつ地震以前と少しもかわらず、昔通り我が國の首都としての地位を保つてゐる。この理由からも今囘こんかいの震災の後始末をつける計畫けいかくは、たん地震以前の東京の姿を再現するにとどまらず、更に進んで將來しょうらい益々ますます發展はってんする見通しのもとに、市街の樣子ようすを全然新しく、誰が見てもはずかしくないまでにしなければならない。我が忠良ちゅうりょうな國民は國家のために一身を犠牲にして、朕と共にこの我國の首府しゅふを一層發達はったつさせ、ここに住む喜びや幸福を一同と共にしたいと思ふ。

【備考】帝都の復興!これについて、當時とうじ、いろいろの意見が出た。づ復興の意義について考察すると、ふく復舊ふっきゅうで、以前の有樣ありさま恢復かいふくすることであるが、こうは創作・創建を意味し、これから、新しく、意義あるものを生まうとする旨を含む、したがつて、大正天皇の仰せの如く、舊態きゅうたいふくするばかりでなく、數歩すうほ進んで、もつと立派な新しい面目めんもくを創造してゆくことが、復興の正當せいとうな意味であつた。

 以上に關連かんれんして、精神せいしんの復興といふこともまたとなへられ、この方面については、十一月十日、新たに國民精神せいしん作興さっこう詔書しょうしょたまわつた。それについては、すでに『思想社會しゃかい篇』に聖旨せいし謹述きんじゅつしてあるから、ここには、ただ九月の帝都復興についてのみ感想を披瀝ひれきするにとどめる。

 以上について、今、當時とうじ、都市設計について意見を發表はっぴょうした學者・思想家諸氏のうちで、いくらか具體的ぐたいてきなことを述べたのを二三、ここげる。ある學者は「學理がくりの示すところ、常識のだんずるところ、祖先以來、吾等われら日本國民が體驗たいけんせしところより之を言ふも、東京下町の某々ぼうぼう地域は、地震たいして、非常に弱い(中略)しかるにそこに地上けんを有してゐる資本主義の威力のため、それをどうすることも出來ぬ。以前に殷賑いんしんであつた場面に今後もにぎやかな市場街區がいくを建設すべき設計が進行して居るといふことは、どうしても、國家民人みんじんの百年後に親切な態度ではない。ニュウヨオクのような地盤の固いところに設計せられた地下鐵道てつどうの如きを、そつくりそのまま眞似ま ねて、日本の東京に作つたりしたならば、どんな事にもなると思ふ。今後、東京に出現すべき地下鐵道てつどうの研究については、の專門家の多くが年來、苦衷くちゅうを集めしところ、必ずやそこに遺算いさんなきを期して居るだらうけれども、『往々おうおうにして情實じょうじつに動かさるるところ純理じゅんり如何いかんかえりみない』といふやうな、やからが時として、國家社會しゃかい百年のけいたずさはらんとする餘弊よへいに考へ到るとき、今後に建設せらるる地下鐵道てつどうその物の平生へいぜいにすら、不安なきを得ない」(伊藤長七)とつた。

 更にある思想家は、「日本本土の地形は山嶽さんがく多く、平原少く、大都だいとに適する地は極めて少い。しかしてそのうち最大なる平原は利根川とねがわの平原である。しかるに河川の多きところは、地が起伏多く、數里すうりわたしんの平原地は、武藏野むさしののほかにない。しかるに隅田川以東及び以北の地は水流多く、かつ冲積層ちゅうせきそうひろいので之を省き、別に隅田川とその支流入間川いるまがわ及び多摩川たまがわによつて限らるる地を見るに、そこに東京の西部と八王子はちおうじとをつらぬる、一ぺん七八里の殆ど正三角形の地がある。この東南部すなわち東は東京の山手やまのてより西はかしらいけ附近ふきんに至る地は小流が多くある。それらは東北に向ふものは隅田川にり、東南に向ふものは多摩川にり、そのながれの兩側はおおむね水田となつてゐる。したがつて起伏多く、地形は複雜ふくざつである。しかるに田無町たなしまち府中町ふちゅうまち立川たちかわ拜島はいじま靑梅あおめ扇町おうぎまちや入間川いるまがわ川越かわごえ和田町おおわだまち等をつらぬる約五里の圓經えんけいを有する圏內の地は、自然の小流も極めて少く、海拔かいばつは百米奕メートルを上下し、西は高く、漸次ぜんじ東に向つて低下するも、一ぼうほとんしん平原へいげんである。だその中央に東西二里、南北一里ばかりの橢圓形だえんけい丘陵きゅうりょうがある。それが狭山さやまおかである。地方的にはこの丘を東西に連絡する線の北は埼玉けん入間郡いるまぐんぞくし、南は東京府きた多摩た まぐんぞくす。ひろさは入間側も北多摩側も、現在の東京市の約二倍である。狭山丘さやまおかを中心とし、この全平原を網羅もうらする都市計畫けいかくつるとせば、現今の世界にかんたる國都こくとのヴイジヨンがいづる。從來じゅうらいの如き群居ぐんきょを避けて十分に餘裕よゆうある計畫けいかくを立て、將來しょうらい發達はったつ豫想よそうせば、これとても過大かだいなるまじと思はれる」(岡田哲藏)と述べた。

 かく人々の意氣い きごみさかんであつたが、その設計は、大體だいたいにおいて、アメリカ式に傾いてゐた。アメリカ式、必ずしも不可でない。けれども、東京えきに下車した外客がいきゃくが、周圍しゅういを一ぺいするなり、すぐ「これアメリカの延長で、日本の特色が全く沒却ぼっきゃくされてゐる」とたんじたのを聞くと、そこに多くの遺憾いかんがある。日本は、日本獨自どくじ精神せいしん・趣味により、そこに、アメリカ模倣もほうでない、新樣式しんようしきを創造すべきであつた。このてんが、閑却かんきゃくされたのは、何より遺憾いかんで、取返しがつかぬのである。