66-2 帝都復興ニ關スル詔書 大正天皇(第百二十三代)

帝都ていと復興ふっこうかんスル詔書しょうしょ(第二段)(大正十二年九月十二日)

【謹譯】いずくんはかラム、九がつじつ激震げきしんこと咄嗟とっさおこリ、震動しんどうきわメテ峻烈しゅんれつニシテ、家屋かおく潰倒かいとう男女だんじょ慘死ざんし幾萬いくまんナルヲラス。あまつさ火災かさいほうおこリ、炎燄えんえんてんのぼリ、京濱けいひん其他そのた市邑しゆうニシテ焦土しょうどス。かん交通こうつう機關きかん杜絕とぜつシ、ため流言りゅうげん蜚語ひ ごさかんつたハリ、人心じんしん恟恟きょうきょうトシテ倍倍ますますその慘害さんがいだいナラシム。これ安政あんせい當時とうじ震災しんさいくらフレハ、むし凄愴せいそうナルヲ想知そうちセシム。

【字句謹解】◯奚ソ圖ラム どうして思ひ設けよう、全く突然の事に驚きあきれる意 ◯九月一日ノ激震 所謂いわゆる大正十二年の關東かんとう地方大震災のこと。〔註一〕參照 ◯咄嗟ニ起リ あつといふ間に起る ◯震動極メテ峻烈 この時は初期微動一三・九秒で、水平動、震幅しんぷく約一二センチメエトルあまり(約四寸)に及んだとしょうされてゐる。峻烈しゅんれつははげしい意 ◯家屋ノ潰倒 家が地震によつて、あるいはつぶれ、又はたふれること ◯慘死 むごたらしい死に方で死んだ人 ◯剩ヘ その上 ◯火災 火事のこと ◯炎燄天ニ冲リ さかんに燃えあがる炎が天にまで達する、大火の形容である ◯京濱 東京と横濱よこはま ◯市邑 村や町 ◯一夜ニシテ焦土ト化ス 一夜の間に都會とかいつちのみとなつてしまつた ◯杜絕 停止する ◯流言蜚語 根據こんきょのない噂やいろいろな評判 ◯恟恟 おそれ騒ぐ人々の心が落ちつかない形容 ◯倍倍 益々ますますと同じ ◯安政當時ノ震災 所謂いわゆる安政あんせいの大地震しょうせられるもの。〔註二〕參照 ◯凄愴 物すごく悲慘ひさんなこと ◯想知 想ひ知る。

〔註一〕九月一日の激震 大正十二年九月一日午前十一時五十八分四十四秒に起つた關東かんとう地方一般にわたる大震災は、震源地が伊豆大島附近ふきんだとされてゐるので、相模灘さがみなだ・東京わんの沿岸は激震地帶ちたいあたり、特に被害がはなはだしかつた。この時の慘害さんがいは、罹災地りさいち一府六けんを通じて、死者九一、三四四人、行方不明一三、二七五人、重傷者一六、五一四人、輕傷者三五、五六〇人を算し、家屋の全半かい・全半しょう・流失・破壞はかい總計そうけいは、じつに六九四、六二一世帶せたいに及び、五十憶乃至ないし百億えんの損失となつてゐる。

 東京・横濱よこはま兩市の調査によれば、東京市二四、〇〇〇、〇〇〇坪うち燒失しょうしつ面積は四割六分の一一、〇〇〇、〇〇〇坪にあたり、横濱市はそう面積一二、〇〇〇、〇〇〇、坪內燒失しょうしつ面積は二割八分の二、八〇〇、〇〇〇坪に及んだ。東京市では一、五四五、〇二九人(六割三分)が住居を失ひ、死亡者五八、一〇四人、行方不明者一〇、五五六人となり、横濱市では二七八、三八八人(六割四分)が路頭に迷ひ、死亡者二一、三八四人、行方不明者一、九五一人をかぞへた。

〔註二〕安政の大震 安政あんせい元年十一月四日と五日及び安政二年十月二日、江戸に起つた大震災のこと、約二まん五千人以上の者が慘死ざんしした。その他は調査が出來ないので不明である。慘死者ざんししゃすうにも數說すうせつあり、最も多いのは十まん人とある。ほ火災のためけた面積は十四ちょう平方だつた。

【大意謹述】以上の如く小康しょうこうを保つて來た折柄おりから、去る九月一日に、このやうなだい不祥事ふしょうじが起らうとは誰が想像し得たらうか。この度の大地震は、その瞬間に至るまで人々は豫知よ ちせず、更に惡いことには、震幅しんぷくが古今にまれな程大きかつたため、無數むすうの家屋は潰れたり倒れたりして滿足まんぞくな形をのこさず、いたましい死に方をした者が、幾萬いくまんかぞへられない程に多かつた。しかも天災はこれにとどまらず、地震の直後、四方から火事が起り、天も燃えあがるかと思ふばかりのいきおいひろがり、東京・横濱よこはま及びその附近ふきんの多くの町村ちょうそんは、ただ一夜の間に見渡す限りの焦土しょうどしたのである。この時、一切の交通機關きかんは働きをとめ、國民は目の前に起つた事しか分からなくなつたから、根據こんきょのない噂やいろいろの評判が立ち、諸處しょしょ方々ほうぼうつたわりつつ次第に大きくなり、不安な人々を一層騒がせて、損害を大きくした。安政あんせい二年の江戸大地震が珍らしいとされてゐたが、今囘こんかいのそれは安政の震災にくらべると、物凄さが幾倍するか見當けんとうがつかないほどである。

【備考】今日こんにち當時とうじのことを考へると、物凄さが泌々しみじみ、感ぜられると同時に、大震火災で受けた大損失を取返すべく、一層の緊張・努力を要する心持が、新しく起るのを禁じ得ない。さて古來、地震については、思想の上からいろいろの解釋かいしゃくを下すものがあつて、大正の大震災にもこれを天罰とか、天譴てんけんとか、神罰しんばつとかひ、あるいは過去、前世の宿業しゅくごう因緣いんねんしからしめるところだといふ風にかいしたものもある。

 由來、日本は、地震國として知られてゐるが、その記錄きろくが始めて正史せいしに見えたのは、允恭いんぎょう天皇の五年で、「地震ゆうべあたる」と『日本書紀』に記されてゐる。次ぎに推古すいこ天皇七年にも地震があつて、「夏四月乙未きのとひつじついたち辛酉かのととり、地動き、舍屋しゃおくことごとく破れぬ。すなわち四方にがっして、地震かみまつらしむ」と記錄きろくしてゐる。この地震の神といふのは埴安神はにやすのかみであらう。

 それから日本では、俗說ぞくせつ地震を以て、なまず所爲しょいとするが、その起源は明白でない。おそらく、鹿島かしま神社じんじゃ要石かなめいしについての傳說でんせつから起つたのであるまいか。『常陸ひたち國志こくし』によると、「土人どじんあいつたふ、大魚たいぎょあり、日本を圍繞いにょうす、首尾しゅびの地にかいす。鹿島かしま明神みょうじん首尾しゅびを釘づけにし、動搖どうようするを得ざらしむ」とある。

 その他、支那し な思想から影響されて、天譴てんけん・天罰などの說も出て來たことは、藤原ふじはら基經もとつね辭表じひょう中にも、「地震などがあるのは、わたくし不德ふとくのためである」とつてゐるのでもわかる。大正十二年の大地震は、必ずしも天譴てんけんといふことは出來ぬかも知れぬ。地震國としてまぬがれ得ぬ運命だつたと見るのが至當しとうである。が、それと同時に、在來ざいらい弛緩しかん狀態じょうたいから目ざめて、緊張すべき時が來たと自覺じかくするところに、一つの意義がある。

 ほ一げんして置きたいのは、勅語ちょくご中に「流言りゅうげん蜚語ひ ごさかんつたハリ」とおおせられたことについてである。その流言りゅうげん蜚語ひ ごにも、いろいろあつたと思はれるが、鮮人せんじん騒ぎの如きは、そのいちじるしい例の一つだつた。もとよりそれは、根も葉もないことであるにかかわらず、當時とうじ輕々かろがろじくこれを信じたものがあつて、流血騒ぎを見た。あの場合、狼狽ろうばいして、常軌じょうきいつしたのは、無理だといへぬ。

 けれども大國民たいこくみん襟度きんどには、けてゐたとはねばならない。ひかへると、ただ感情一ぺんに走つて、理性の判斷はんだんを忘れ、沈著ちんちゃくであるべき場合に、あまりにも、輕率けいそつに流れたことは、當時とうじ識者しきしゃがいづれも、遺憾いかんとしたところであつた。それに朝鮮の人々も、やはり、陛下の臣民しんみんであるから、ああした態度により、彼等の感情を惡化せしめる一因を作つたのは、殘念ざんねんなことである。大事變だいじへんに際し、冷靜れいせい沈著ちんちゃくを失はぬのこそ、大國民たいこくみんの態度だと思ふ。