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65-1 學制頒布五十周年ニ際シ下シ給ヘル勅語 大正天皇(第百二十三代)

大日本詔勅謹解2 道德敎育篇

學制がくせい頒布はんぷ五十周年しゅうねんさいくだたまヘル勅語ちょくご(第一段)(大正十一年十月三十日)

【謹譯】學制がくせい頒布はんぷセラレテヨリここニ五十ねん文敎ぶんきょうあまねおよヒ、學藝がくげいさかんおこリ、もっ今日こんにちアルヲいたス。じつ皇考こうこう大猷たいゆう朝野ちょうや協力きょうりょくトニレリ。いま式典しきてんおこなフハ、ちんもっとよろこところナリ。

【字句謹解】◯學制頒布 學校がっこうの種類・學問がくもんの程度・學修がくしゅうの順序・學校の連絡などにかんする規定で、明治五年に始めて頒布はんぷされた。頒布はんぷとはひろく多方面にきわたらすこと、〔註一〕參照 ◯文敎 學問と敎育 ◯普ク及ヒ 至らぬ場所もない程ひろきわたる ◯大猷 遠大えんだい計畫けいかく ◯朝野ノ協力 政府にる者と民間に在る者とが、同じ目的に向つて力を合せること ◯式典 記念式の意。この時の式は東京帝國ていこく大學だいがくで行はれた。

〔註一〕學制 明治五年の學制がくせい發布はっぷされた前年、文部省が出來たのである。この學制は、すべてにわたつて、かく一主義を用ゐた。それは、フランス式によつたものでづ全國を八大學區だいがっく(明治六年に之を七大學區に改めた)にわかつて、これを大學區といひ、毎區に大學分校一箇所かしょを置き、一大學區を三十二中區ちゅうくとし、その毎區に中學校一箇所を設け、一中學區は人口大約十三萬人まんにんを目標として、更にそれを二百十小區しょうくとし、これを小學區とつた。以上によると、人口約六百人毎に小學校を一つ置くわけである。

 それから督學上とくがくじょうのことに注意して、文部省に本省督學局とくがくきょくを設け、大學本部毎に督學局一箇所を配置した。督學官とくがくかんは、本省の命令によつて、地方官と相談し、大學區の諸學校を監督すると共に、敎則きょうそく得失とくしつ、生徒の進否しんぴについて檢査けんさを加へ、これを論議したり、改正したりする權限けんげん附與ふ よされてゐた。ぎに中學區內に學區取締とりしまり十名乃至ないし十三名を置き、一名毎に小學區二十乃至ないし三十を分擔ぶんたんせしめて、これを取締らせた。萬事ばんじ、こんな風に干渉的にしたのは、何分なにぶん學制によつて、新敎育を行ふ最初のことであるから、强制的な態度に出ないと、能率をあげることの出來ぬ事情が存在したからであつたらう。

 ところが、その後、このかく一主義に反對はんたいするこえようやく高まつて來たので、明治十二年、改正敎育令を發布はっぷしたのである。この事に參與さんよした中心人物は、文部大丞だいじょう田中たなか不二麿ふじまろであつた。れはきゅう尾張おわり藩士はんしで、弘化こうか二年の出生しゅっせいである。維新いしんの際は、勤王きんのう運動に從事じゅうじし、明治元年徵士ちょうしとなり、同四年、文部省が設置されると、文部大丞だいじょうとなつた。同年十一月、現職のまま、理事官として、歐米おうべい各國の敎育を視察し、六年三月、歸朝きちょうした。同年四月、文部きょう大木おおき喬任たかとう參議さんぎてんじたので、文部省の事務は、すべて田中が總理そうりする事になつた。彼は、西洋巡遊じゅんゆう中、アメリカ敎育の自由主義に共鳴したので、十二年發布はっぷの改正敎育令には、明かにその影響を示してゐる。

【大意謹述】かえりみれば、明治五年に學制がくせいが全國にわたつてから、今日こんにちに至るまで、じつに五十年をたので、この間に我が國に於いては、國民敎育が遺憾いかんなく發達はったつし、學問は古今にその比を見ないまでに發展はってんを遂げ、今日こんにちは世界有數ゆうすうの文明國として、深遠しんえんな知識を各國と競つてゐる。近々きんきんわずか五十年の間に、これ程までの進歩を見たのは、じつに先帝(明治天皇)の遠大えんだい御計畫ごけいかくと、朝野ちょうやの國民がその大御心おおみこころたてまつつて力を合せた結果にほかならない。ちんは現在、滿腔まんこうの喜びを以て學制頒布はんぷ五十年記念式に臨んだのである。

【備考】明治初年から同二十年に至るまでの敎育にかんする文獻ぶんけん渉獵しょうりょうすると、その大部分は、歐米おうべい敎育書の翻譯ほんやくであり、紹介である。二十年頃から、杉浦すぎうら重剛しげたけ西村にしむら茂樹しげきなどの人々が出て、日本的敎育をとなへ出したが、それ以前は、すべて、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オランダとつた風に、歐米おうべいの敎育・學制を模倣もほうすることに傾いてゐた。

 無自覺むじかくといへば、ちとその程度がひど過ぎるが、不知しらず不識しらず左樣そ うした傾向を追うたのであらう。したがつて、それらはただ知識の詰め込みが主で、これを統一してゆく日本精神せいしんについては一ごんかず。その德育とくいく方面とても、西洋から翻譯ほんやくした實例じつれいを以てして、忠孝ちゅうこうぽんの日本道德については、ほとんど考へるところがなかつた。かの修身科しゅうしんかの如きは、そのために無意義な存在となつたのである。歐米おうべいの敎育を無批判に受け入れた以上、かうした弊害へいがいの生ずることは、到底とうていまぬがれ難かつた。