63-2 戊申詔書 明治天皇(第百二十二代)

戊申詔書ぼしんしょうしょ(第二段)(明治四十一年十月十三日 官報

【謹譯】かえりミルニ、日進にっしん大勢たいせいともなヒ、文明ぶんめい惠澤けいたくともニセムトスル、もとヨリうち國運こくうん發展はってんツ。戰後せんごあさク、庶政しょせい益々ますます更張こうちょうようス。よろシク上下しょうかこころヲ一ニシテ、忠實ちゅうじつぎょうふくシ、勤儉きんけんさんおさメ、しん醇厚じゅんこうぞくシ、リ、じつキ、荒怠こうたいあいいましメ、自彊じきょうマサルヘシ。

【字句謹解】◯日進ノ大勢 人文じんぶんが日に進み、月に伸び、發展はってんしてく自然のせい ◯文明ノ惠澤 文明は人智じんちが開け、百ぱんの事物が整頓して、世の中がほがらかに明るくなるをふ。惠澤けいたくはめぐみ、うるほひ、前段の「人文じんぶんリ、つきすすミ」「福利ふくりともニス」とある趣旨をここで更に述べられたのである ◯固ヨリ いふ迄もなく、きまつてゐるといふ義 ◯內、國運ノ發展ニ須ツ うちは日本帝國のこと、國運こくうんは國の運勢、つとは、必ず發展はってんしなくてはならぬ意 ◯戰後 戰爭ののちすなわ日露にちろ戰爭せんそうを終つてのち ◯庶政益々更張 百ぱん政務せいむはますます更始こうししんして、規模を盛大にしなくてはならぬといふ義 ◯上下、心ヲ一ニシ かみ、政治のきょくあたるものも、しも、一般國民も、擧國きょこくの方針で上下のへだてなく、あい提携ていけいし歩調を同じうし、心を合せる ◯忠實、業ニ服シ 眞面目ま じ めにまめやかにせいを出して、家業に從事じゅうじする ◯勤儉 業務にはげみ、物事をつづまやかにすること ◯產ヲ治メ 各自のなりはひをはげんで、家產かさんを治め、ととのへる ◯惟レ信、惟レ義 れは强く指示して、感歎かんたんの意をあらはす。しんとは、こころまことにして言行げんこういつわりなきをいひ、とは、人のみ行ふべき正しき筋道を守ることをいふ。明治天皇は明治十五年一月、御下賜ご か しの『軍人勅諭ちょくゆ』にて「しんとはおのれげんおこなひ、とはおのれぶんつくすをふ」とおおせられてゐる ◯醇厚、俗ヲ成シ じゅんまじりものがなくてきよらかなること。こうはあついこと、重み深みあること。ぞくは風俗・習慣。すなわきよつ深み厚みある風習が國民一般のならはしとなるやうにならねばならぬと仰せられたもの ◯華ヲ去リ、實に就キ 浮華ふ かで、うはべのかざり。じつはまじめ。すなわちうはべの華美か びなことを捨てて、內容の堅實けんじつ・健全な生活をしてゆくこと ◯荒怠 こうおのれすべき事をすてて、に走るをいふ。ぞくにすさむ意である。たいはおこたり、なまける ◯自彊息マス これは『易經えききょう乾卦篇けんかへんにある所のことばすなわち「天行てんこうけんなり。君子以て自彊じきょうまず」とあるによる。それはみずかつとめてぜんすこと、天の作用・働きの正確にして、いつも休まぬ如くでありたいといふ意になる。善をなすには、まずたゆまず自發じはつ的に努力せねばならぬこと。

【大意謹述】國際こくさい關係かんけいのことについては、大體だいたい、右に述べた如く、善處ぜんしょしなくてはならぬが、更に日に月に進んでやまない世界の大勢たいせい適應てきおうし、文明・文化からくるところの美果び かおさめ、互ひにそれをけ、たのしまうとするには、當然とうぜん國運こくうん發展はってんたねばならない。ところが、ここに注意すべきは、日本が日露にちろ戰爭せんそう大役たいえきをすましてから、まだ三年ばかりしか經過けいかしないことである。戰後の經營けいえいなるものは中々なかなかむづかしく、ともすると、弛緩しかんしたり、放漫ほうまんになつたりしやすい。このてんから考へると、一切の政務、一切の施設は、以前にくらべて、一層更新し、伸張しんちょうすべきことを要する。だから、上流といはず、中流といはず、下流といはず、全國民がその向ふところをいつにして、こころざしを合せ、各自の業務を忠實ちゅうじつに守り、少しの怠慢たいまんなく、勤めはげんで、いやしく奢侈しゃしなどの風習に染つてはいけない。萬事ばんじ質素を旨とすべきである。

 そうじてこの場合、よいと信じたことは必ずこれを實行じっこうし、空論くうろん放言ほうげんふけるべきではない。また人間の當然とうぜんむべき筋道はこれを固く守り、義にそむくやうなことがあつてはならぬ。したがつて日常の風俗は、深みあり、厚みあり、淸純なるべきで、それが無意識のうちにも、おのづから實現じつげんされるやうにありたい。ひかへると、すべて華美か びに走つて、けばけばしいことや、うはつらばかり華やかに飾ることを避け、つとめて堅實けんじつで、何の飾り氣もない眞摯しんしな風習を形造るべきである。以上のやうな充實じゅうじつした生活を送るには、精神せいしんを緊張して、みずからすさみおこたることをやめ、丁度ちょうど天體てんたいの運行が、四時しいじ正しい活動をして、やすまない如く、一般國民は、つとめて善をすことに全心ぜんしんを傾け、しかも一日たりとも、ゆるむやうなことがあつては、いけない。

【備考】古來、世の進歩をかえりみないで、みずかおごり、輕浮けいふにして只管ひたすら華やかなことを旨とし、勤儉きんけんを去り、篤行とっこうを離れた邦國ほうこくあるいは衰へ、あるいほろびてゐる。そのいちじるしい例を西洋に求めると、ここにロオマがある。世界的な大帝國ロオマは何故なにゆえ衰亡すいぼうしたらうか。それは帝政ていせい時代、ニロていその他、貴族らによつて、かもし出された享樂きょうらく浮華ふ かの生活のためである。シエンキエイツチの『クオ・バヂス』の中にえがかれてゐるペトロニヤスは、左樣そ うしたアトマスフィアを色濃く代表してゐる。

 彼は音樂おんがく舞踏ぶとうとを愛し、匂ひのよい香料・香水を喜び、芳烈ほうれつ美酒びしゅを好んだ。彼は、また歡樂かんらく饗宴きょうえんおもむくため、ひるて、ばかり起きてゐた。彼れの周圍しゅういには美しい侍女じじょ從順じゅうじゅん奴隷どれいがゐて、彼につかへ、いつも香水風呂によくして、贅澤ぜいたくまいふけつた。かうした風習が、當時とうじの貴族を支配した以上、國はおのづから衰へざるを得ない。必ずしも、亡國ぼうこくの責任は、背敎者はいきょうしゃユリアン所爲しょいとのみへぬのである。ジユリアンは、反基督キリスト主義をかかげてたたかひ、その生活はゆるんでをらなかつた。けれどもロオマの貴族の多數たすう驕奢きょうしゃ安逸あんいつに流れた以上、世界的な帝國とても、土崩どほう瓦壞がかいすることをまぬがれぬのである。

 東海とうかい散史さんしの『佳人かじん奇遇きぐう』を見ると、幽蘭ゆうらん女史じょしが、イスパニヤの衰微すいびを語るところで「昔時せきじ西班牙イスパニヤ人が剛敢ごうかんたゆまず、萬里ばんり鯨波げいはえ、千百の艱難かんなんめ、米國の大陸を發見はっけんして、我が版圖はんとせしより、國旗こっきかいひるがへり、威名いめい歐洲おうしゅうとどろき、富强ふきょう天下にかんたり。しかれども滿まんは損を招き、えいを生じ、上下しょうか驕傲きょうごう風俗ふうぞく壞頽かいたいし、(中略)憶萬おくまんの金銀はいたずらわらいていし、こびけんずる後宮こうきゅうて、あるい貪婪たんらんくなき僧侶・貴族の奢侈しゃしきょうし、金銀濫出らんしゅつ、國力疲弊ひへいし、森林荒廢こうはいせ、民貧しく、人各々そのせいを救ふに急なる、にわか廉恥れんちかえりみるにいとまなく、盗賊横行、寧日ねいじつなし」と述べてゐる。

 いかに、富强ふきょうを以て、世界に鳴る國でも、こころおごり、滿ち、ほしいまま榮華えいがを追ひ求めて、國民の士氣し きが衰へると、たちま亡國人ぼうこくじんみちを急がねばならなくなる。日本とても戰後の好景氣に浮かれて、國民の氣風が惰弱だじゃくになり、風俗が浮華ふ かに流れると、かえつて惡い結果を招くこととならう。それゆえに、明治天皇は、左樣そ うした弊害へいがい續出ぞくしゅつしないやう、ここに全國民をいましめられたのである。

 自彊じきょうまず!ただこれである。天の運行・活動は、その間に變化へんかあり、風雨ふうう寒暑かんしょの差はあるが、四時しいじじょあやまつたことがない、晝夜ちゅうや區別くべつをみだしたことがない。太陽は朝、東天とうてんに現はれると、ゆうべは必ず西天せいてんに沈みゆくのである。それは萬年まんねん・十萬年まんねんも一定してかわることなく、規則正しい。すなわ自彊じきょうまずである。星は照るべくして照り、月は輝くべくして輝き、雨は降るべくして降り、風は吹くべくして吹く。これもまた時によつて、剛柔ごうじゅう晴曇せいどん寬猛かんもうのけじめはあるとしても、そこに一定の軌道があつて、それからはづれたことがない。すなわ自彊じきょうまずである。國民もまたかういふ風にいささか懈怠けたいさず、いつも正道せいどうんでゆくならば、國はさかえずにはをらない。明治天皇は、かく思召おぼしめして「自彊じきょうマサルヘシ」とおおいだされたものと拜察はいさつする。

 思ふに、勤儉きんけん質實しつじつによつて、古來、國をおこした例は少くない。ドイツ興隆こうりゅうの基礎をしたプロシヤの如きは、のよき例であらう。この美風を率先、勵行れいこうしたのはフリイドリツヒ一世であつた。王は、一六四〇年(日本、明正天皇の時代、寬永十七年)十二月、三十歳で卽位そくいしたが、當時とうじ、三十年戰爭せんそうの後を受けて、國力衰へ、民衆も生活に困つてゐた。王はつとめて、この方面の救濟きゅうさいに苦心し、農工業を奬勵しょうれいすると共に、敎化きょうか政策にも力を入れた。そのあとをいだフリイドリツヒ三世も、勤儉きんけんの旨を實行じっこうし、王室の經費けいひを節減して、國民の負擔ふたんを少くし、パリイ流行の美服をけんずるものがあると、たちまちこれを叱り付けて、火中かちゅうに投じた。プロシヤが、新興しんこうドイツの中心勢力となつたのは、右の如く、勤儉きんけん質實しつじつの美風を奬勵しょうれいした結果にほかならない。申す迄もなく、明治天皇平生へいぜい、質素をたっとび、贅費ぜいひはぶいて、率先、模範を示されたことは國民一般のつと拜承はいしょうする所であつた。

 拜聞はいぶんするところによると、陛下は、御召物おめしものなども、幾度でも、すすがせられ、御召お めしなされた。御座所ござしょ絨緞じゅうたんも、少し位損じても、容易にへようとされない。また宮內省の豫算よさんは、毎年陛下の御手許おてもとへ差出すのであるが、冗費じょうひもくすべきものがあると、如何い かにしても、御許しなく、質素・儉約けんやくを旨とせられた。

 かつ奠都てんと三十年の記念祭があつたとき、會長かいちょう澁澤しぶさわ榮一えいいちが上野の會場かいじょう御臨幸ごりんこうを願ひいでたとき、嘉納かのうあらせられた。ところが、その後、急に御取止おんとりやめの御沙汰ご さ たが下つた。それは、嚴肅げんしゅくなるべき記念式に、藝者げいしゃ手古舞てこまいなどを御覽ごらんきょうするとあつたのを浮華ふ かなりとして、御氣お きされぬためであつた。澁澤しぶさわ會長かいちょうは、ひどく恐懼きょうくし、改めて二重橋にじゅうばし前の御苑ぎょえんまで臨御りんぎょあおぐ事として御言葉をたまわつたのである。また展覽會てんらんかい書畫しょが買上かいあげをなさるのは、御自身のたのしみのめでなく、斯道しどう奬勵しょうれい思召おぼしめしによる。

 以上、天皇御勤儉ごきんけんであらせらるる事を拜記はいきしたが、更にこれを戊申ぼしん詔書しょうしょ渙發かんぱつされた當時とうじ世相せそうについて、考へて見ると、戰勝熱せんしょうねつに浮かれた國民の一ぱんは、噴火山上さんじょう舞踏ぶとうするやうな有樣ありさまおちいつてゐた。それに戰後經營けいえい重責じゅうせきになつてゐた西園寺さいおんじ內閣ないかくは、財政上、積極政策を執り、いちじるしく國費の膨脹ぼうちょううながしたところから、國家の歳計さいけいは、從來じゅうらいの三倍に激增げきぞうし、しかも內には、多數黨たすうとうを誇る政友會せいゆうかいが、天下を我物顏わがものがおにのさばつて、始末が付かなかつた。

 かうして、內政が紊亂ぶんらんしたに加へて、歐米おうべい列强れっきょうは、日本の戰勝を嫉視しっしし、黄禍論こうかろんを以て、日本をひ、あるいは日本國民を「好戰こうせん民族」として排斥はいせきし、太平洋岸では、至るところ、排日はいにち運動がさかんに起つた。一たい、アメリカは明治維新以來、始終しじゅう、日本に好意をよせ、日淸にっしん戰爭せんそうの時などは日本の肩を持つたのである。ところが、日露にちろ戰爭の勝利により、日本が、事實じじつ上、東洋の盟主めいしゅたる地位に進むと、がらりと態度をへ、嫉視しっしするやうになつた。アメリカに於ける排日はいにち運動の一因は、確かにここにある。

 このてんに想ひ到るならば、日本國民は、ぐに戰勝の甘美かんびな夢からめねばならない。ところが、事實じじつ左樣そ うでなく、ややもすると、戰勝の餘榮よえいと國運の著しい發展はってんとに慢心まんしんし、華奢かしゃ荒怠こうたいおちいるの風が多かつた。したがつて自彊じきょうむなき精神せいしんをいつの間にか失ひ、競馬熱・投機熱がさかんになつて、その間に危險きけん思想さへもかもし出すに至つたのである。

 そこで明治四十一年七月、西園寺さいおんじ內閣の後を受けて成立したかつら內閣は、銳意えいい紀綱きこう振肅しんしゅく、財政の緊縮きんしゅくつとめ、他面ためん、ゆるんだ民心みんしんを引締めることに心を注いだ。その結果、西園寺さいおんじ內閣によつて計畫けいかくされた大博覽會だいはくらんかいを延期し、馬券の發賈はつばいを禁ずるなど、庶政しょせい刷新さっしんこころざしたが、容易にそのじつげ得なかつたのは、すこぶ遺憾いかんであつた。

 明治天皇質實しつじつを旨とせらるる例は、かず多くつたへられてゐる。平生へいぜい、用ひらるる御硯箱おすずりばこ鹿兒島產かごしまさんのもので、竹を二つ割にして、中を黑塗くろぬりにした簡素かんそ極まるものである。それを御在世ございせい中、何十年にわたつて使用された。御墨おすみりへつて、御手お て墨汁ぼくじゅうがつく迄で使用せられ、御筆おふで穗先ほさきがすり切れたのちさへ、永く用ひられたのである。

 各省から奏上そうじょうする重要書類その他を入れて置かれる御箱おはこは、民間の人々の想像する如く、立派なものではなく、おんワイシヤツ、御襦袢おじゅばんなどを入れてあつた、白ボオルの空箱あきばこ無雜作むぞうさに用ひられた。それに御執務ごしつむ遊ばさるる御座所ござしょとても、一こう修飾せられず、質素を極めてゐた。御机おつくえの上にかけられた緋羅紗ひらしゃは、いつとなく、御煙草おたばこの火が落ち、燒痕やけあとがいくつとも出來てゐたが、容易に取替ることを許されなかつたのである。

 ぎに天皇は、年中政務にいそしまれ、四十五年の久しい御治世ごちせいのうちで、避暑に赴かれたのは、ただかいだけであつた。侍臣じしんたちは、陛下の御健康のためにといふので、再三、避暑をすすめまゐらせたが、御許可がなかつた。

御前おまえたちのふところは、最もだが、あの城外の路上を見なさい。このはげしい暑さの日中ひなかに、粒々りゅうりゅうそびらに流れる汗にぬれながら、老人が荷車をひいてゐるではないか。それを思ふと、ちんは避暑する氣にはなれぬのぢや」

おおせられた。

  重荷おもにひく車のおとぞきこゆなる

      てる日の暑さへがたき日に

  としどしにおもひやれども山水やまみず

      みてあそばむ夏なかりけり

 以上の御製ぎょせいはいすると、天皇如何い か勵精れいせいあたられ、日夜、政務を御總攬ごそうらんなされた御樣子ごようすがわかる。

 したがつて右に述べた如き國狀こくじょう御覽ごらんになつた明治天皇は、いたく大御心おおみこころなやまし給ひ、ここ勤儉きんけん信義しんぎ醇厚じゅんこう自彊じきょうの諸德を奬勵しょうれいせられ、固く荒怠こうたいに流るることをいましめ、を去り、じつにつくべきことを敎示きょうじせられたのである。