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62-4 日露講和成立ノ際下シ給ヘル詔勅 明治天皇(第百二十二代)

日露にちろ講和こうわ成立せいりつさいくだたまヘル詔勅しょうちょく(第四段)(明治三十八年十月十六日 官報

【謹譯】さき亞米利加ア メ リ カ合衆國がっしゅうこく大統領だいとうりょうノ、人道じんどうたっと平和へいわおもんスルニテテ、日露にちろ兩國りょうこく政府せいふ勸告かんこくスルニ講和こうわこともっテスルヤ、ちんふか好意こういりょうトシ、大統領だいとうりょう忠言ちゅうげんレ、すなわ全權ぜんけん委員いいんめいシテことあたラシム。

【字句謹解】◯亞米利加合衆國大統領 北アメリカ合衆國の最高地位にあり、政治方面の統率者、この時はルウズベルトであつた ◯人道ヲ尊ヒ 平和な社會しゃかいを保つて行く人間の正しい道を尊重すること ◯勸告 誘ひ告げる ◯好意 善意のこと ◯諒トシ 理由あることと承認する ◯忠言ヲ容レ 忠告を承知する。〔註一〕參照 ◯全權委員 帝國の全權ぜんけんまかせ、事を圓滿えんまんにはこぶやうに任命した役人。〔註二〕參照。

〔註一〕講和提唱 講和說はすでに三十七年八月頃、ロシアの一部識者しきしゃ間に行はれたが、その後日本の連戰連勝の結果、九月の遼陽りょうよう會戰かいせん後には、外國新聞もこれを問題とし、バルチツク艦隊全滅(日本海海戰)で、ロシアは最後の希望も失つた。

 最初講和の議を提出したのはフランスだつた。日本は、フランスがロシアとの同盟國にあるので、アメリカに意見を求め、ワシントン駐剳ちゅうさつ公使こうし高平たかひら小五郞こごろうに命じて事情を陸軍きょうタフトに通ずると同時に、東京駐箚ちゅうさつアメリカ大使グリスカムにも非公式に日本の意を本國に通じた。そこで大統領ルウズベルトは斡旋あっせんろうを執るに至つたとつたへられてゐる。

〔註二〕日露講和全權委員 日露講和會議かいぎの場所はアメリカのポオツマス。我が首席しゅせき全權ぜんけん當時とうじ外相であつた小村こむら壽太郞じゅたろう、次席全權は駐米公使高平たかひら小五郞こごろうであり、ロシア側の首席は大藏おおくら大臣として敏腕を示したウイツテで、次席は駐米大使ロオゼンだ。明治三十八年八月十日から會議かいぎを開き九月に入つて講和が成立した。それについて、ここに講和に關係かんけいある人物の輪廓りんかくを少しばかり記述して置く必要がある。當時とうじ、平和の勸告かんこく者、仲裁者ともいふべき地位にゐた米大統領ルウズベルトは、最も傑出けっしゅつした人物の一人である。

 れは、テオドル・ルウズベルトといひ、西紀一八五八年、ニユウヨオク市に生れた。父の祖先は十七世紀の半ば頃から、同市に居住し、母は由緒ある舊家きゅうかの出身である。ルウズベルトは、上流社會しゃかい同樣どうようの敎育を受け、一八八〇年、ハアバアト大學を卒業した。後、ヨオロツパを巡遊じゅんゆうし、一年ばかりで歸國きこくすると、コロンビヤ大學に入つたのである。そこでは、約一年勉强した後、伯父の事務所で法律を專攻せんこうした。が、彼が最も興味を持つたのは、政治と文學とである。

 一八八一年、二十三歳の時ルウズベルトは、始めて政界にり、レパブリカンとうの指名によりニユウヨオクの州會議員しゅうかいぎいん選擧せんきょされ、三年間在職した。當時とうじ彼れの誠實せいじつ大膽だいたん・勇氣はたちまとうの間に知られ、次第に重きをすに至つた。當時とうじ彼れは腐敗せる市政の刷新さっしんにつとめ、常に奮鬪ふんとうつづけたのである。

 その後、一八八四年、シカゴ市に開かれたレパブリカンの國民大會たいかいに委員として出席し、同とう獨立派どくりつは、エドモンドを大統領候補者にし、聲援せいえんしたが、失敗にした。爾來じらい彼れは、政界に於て失意の境地につたので、約三年間この方面から離れ、ダコマ山麓の家に起居ききょして、農牧生活を送るかたわら、もっぱら文學研究にふけつたのである。思ふに、この三年間は、彼れの修養しゅうよう上、少からぬ利益りえきあたへたであらう。

 やがて休養した彼は、新しい勇氣に滿ちたので、一八八九年、ハリソンの執政しっせい時代に再び政治方面に進出し、內政整理委員の一人となつた。爾來じらい在職六箇年かねん、一八九五年には、ニユウヨオクの警察委員となり、市政の弊害へいがい矯正きょうせいすることに十分の手腕をふるひ、人望は次第に高くなつた。その結果、彼は、時の大統領マツキンレイに拔擢ばってきせられて、海軍次官の要職に就いた。間もなく、イスパニヤと開戰した折、彼れは海軍次官の地位を離れ、騎兵きへい聯隊れんたいの中佐となつて戰場に出た。彼の名聲めいせいが全國にとどろいたのは、この際だつた。彼は、大學校のスポオツ選手、西部地方の牧牛者くぎゅうしゃ力技家りきぎしゃ冒險ぼうけん勇士などを率ゐて、キユウバに進み、サンチアゴを手に入れた。この武勳ぶくんにより、大佐に昇進、イスパニヤが降服した後も、久しく熱帶地ねったいちとどまつて身心をつてゐた。

 爾來じらい、彼の進路は坦々たんたんたるもので、一八九八年には、ニユウヨオク知事となり、一九〇〇年には、マツキンレイのもとで副統領の重位じゅういを得た。ところが、のち一年、大統領マツキンレイが暗殺された結果、ここに一躍して大統領の榮冠えいかんるに至つた。彼れの特色は、正義を愛して、これがため、如何い かなる奮鬪ふんとうをもしない所にある。また彼は、太平洋問題に留意して、アメリカの海軍を擴張かくちょうしたが、一面、「平和製造者」を以て自任じにんしてゐる。彼れが卒去そっきょしたのは、一九一九年(大正八年)である。

 次ぎに講和のことをルウズベルトに取次いだ陸軍きょうタフトは、オハヨ州シンシナチ市郊外に生れ、辯護士べんごし地方裁判所判事はんじ收稅官しゅうぜいかん檢事けんじ總長そうちょうなどの職をて、ルウズベルトの後繼者こうけいしゃとなり、一九一〇年、レパブリカン派からされて、大統領となつた。彼の特色は、敏活びんかつで多々益々ますますべんずる行政的手腕の上にあつたとはれる。

 それから講和全けん小村こむら壽太郞じゅたろう及びウイツテについて一げんする。小村は、日本の外交史上、陸奥む つ宗光むねみつと共に記憶さるべき俊傑しゅんけつであつた。彼は日向ひゅうがの人、安政あんせい二年の出生である。明治八年、文部省留學生としてアメリカに赴き、歸朝きちょう後、裁判官となり、更に外務省にてんじ、翻譯ほんやく局長となつた。彼れが出世の端緒いとぐちは、日淸にっしん戰爭せんそうの際、駐支ちゅうし公使として、敏腕をふるつた時にあつた。當時とうじ、彼は、北京駐在の日本代理公使として、和戰わせんぱつの危機に臨んだが、早くも形勢を察し、本國政府から訓令くんれいがまだ到著とうちゃくしないのに、斷乎だんことして、國旗をいて、上海シャンハイへ引揚げてしまつた。この一きょにより、彼の俊敏しゅんびんを知られたのである。

 聞くところによると、大隈おおくま重信しげのぶは、最初、小村を輕視けいししてゐたが、右の行動を知つて以來、ようやく小村を重んじたさうである。のち累進るいしんして、明治三十四年、かつら內閣の外務大臣となつた。當時とうじ、桂內閣の三人男として注目されたのは、海相かいしょう山本やまもと權兵衞ごんべえ藏相ぞうしょう曾禰そ ね荒助あらすけ、それから小村であつた。人物評論家鳥谷部と や べ春汀しゅんてい氏は、當時とうじの小村をえがいて「第十七議會ぎかい開け、地租ち そ增徵ぞうちょう繼續けいぞく案の議事日程にのぼりたるの日、は議事の光景をむがめに、議場の傍聽席ぼうちょうせきにあり。(中略)すでにして、痩骨きゅうこつ稜々りょうりょう軀幹くかん短少たんしょうの人物は大臣席に現はれたりき。彼れは容貌ようぼう風采ふうさいの以て人を服するに足るものなしといえども、有名なる日英同盟の締結者として、聲譽せいよを中外にせたる小村外務大臣なりき。彼れは一議員の海軍第三期擴張かくちょう日英同盟の一條件じょうけんなりしやと問へるにたいして、ごう躊躇ちゅうちょする所なく、極めて明晰めいせき直截ちょくせつに、何の關係かんけいなしと卽答そくとうしたりき。彼れが機敏きびんの人物たるはの態度及び發音はつおんの調子にて十分表現せられ、人をして北淸ほくしん講和會議かいぎの際、列國れっこく使臣ししんため公使ねずみこうしの名をかんせられし當年とうねんを想像せざるを得ざらしめたりき」とつてゐる。

 春汀しゅんてい氏は更に人物の眞價しんかに言及し、「日英同盟成るや、加藤かとう高明たかあき歎美たんびしていわく、彼はさき英國たのむべからざるを語り、人の日英同盟を言ふものをあざけりて迂愚う ぐしたりしが、一旦、時局の必要に際會さいかいせば機宜き ぎを誤らずして、形勢におうずるの手段をる。彼が如きは、じつに機敏の外交家とふべしと。彼は磊落らいらくにして快活かいかつなり。卓上たくじょう談話の如き、あえて巧妙の域に達したりといふあたはずといえども、獻酬けんしゅう活潑かっぱつ、言語簡潔にして、一てん澁滯じゅうたいところなきは、對手あいての心意を爽快そうかいならしむるに足るものなくむばあらず。だ彼は談話の際、屢々しばしば右手を以て鼻頭はながしらつまみつつ、目を細くして笑ひくずるるの奇癖きへきあり。あるい兩手りょうてを組み合せ、もしくはれを抑揚よくようして少しも落ち付かず、あるいは談論の佳境かきょうるや、呵々か か大笑たいしょうして雙肩そうけん異樣いようゆるがすなどは、多少威嚴いげんを損ずるなきにあらずといえども、の一きょどう毫末ごうまつ厭味いやみなく、倨傲きょごうの風なきは、はなはだ喜ぶべしとす」とつてゐる。

 かうして小村は、日露講和全けんとして、ポオツマスにおもむく迄は、好評の人であつた。ところが、その講和をまとめて、歸朝きちょうに就くとき、日本においては、彼のしたところについて不滿ふまんいだくものが多かつた。日本があらゆる犠牲をはらつて得た勝利にともなふだけの收穫しゅうかくがないといふのが、國民の不滿ふまんと激怒とをび起したのである。

 當時とうじ萬朝報よろずちょうほうは小村を痛撃つうげきして、「現下げんか眼前がんぜんよこたはれる日露にちろ兩國りょうこくの講和談判に至りては、その決定如何いかんただちに帝國の浮沈ふちん興亡こうぼう榮辱えいじょくかんし、和議わ ぎの進行は、しん絕大ぜつだいの危機をつなぐ、国民的大問題とはまさなり。國民的大運動を要すべきは正にこの問題なりて、起て、起ちておおいに之が萬全ばんぜんなる解決をるに努力せよ」と叫んだ。かうして輿論よろんは、いずれも講和條件じょうけんなんじて日比谷ひ び や大騒擾だいそうじょうとなり、交番燒打やきうちとなり、九月六日夜半戒嚴令かいげんれいかれたのである。

 したがつて小村の人望はとみに地に落ち、その歸朝きちょうした時、一にん萬歳ばんざいを唱へるものなく、一りゅうの國旗をかかぐるものなく、彼れは孤影こえいさびしく帝都に入つた。が、今日こんにちとなつて考へて見ると、小村は相當そうとうに努力し、出來るだけのことはしたといふ感じがする。このてんについて、鳥谷部と や べ春汀しゅんてい氏は、公平な立場から、小村の成績を批判して、「小村は外交の技術に於て、決して露國ろこくの全けん委員におとれりとふべからず。ポルツマウスの通信によれば、ウイツテは外交上の典例てんれいに暗きがために、議事の進行は、大抵小村の意見によって決定し、また辯論べんろんに於ても、小村は常に優勝の地歩ち ほを占めたりきと。事實じじつとして信ずべき理由あり。何となればウイツテは露國ろこく第一流の政治家なれども、外交は本來の長所にあらざるのみならず、ごう經驗けいけんを有せざる人なるに反して、小村は少なくとも、日本につては最も卓秀たくしゅうせる能力及び經驗けいけん具備ぐ びせる專門外交家なればなり。しかして終局しゅうきょくの成功はかえつてウイツテに奪はれたりともくせらるるは何ぞや」と自問し、一斷案だんあんを下して、「なし、戰局せんきょく狀態じょうたいは、いま露國ろこくをして我が提出條件じょうけん服從ふくじゅうせしむるの域に到達せざりしがゆえほかならず。あるいは彼れが談判中止の高手段こうしゅだんでざりしをとがむるものありといえども、かかる場合に必要なるは續戰ぞくせんの準備なるを知らざるべからず。しかも東京の政府が大局たいきょくを打算して續戰ぞくせんを不利なりとするに於ては、彼の取るべきみちただ讓歩じょうほの一方あるのみ。問題は續戰ぞくせんを不利としたる政府の判斷はんだんはたして正當せいとうなるやいなやにり。常識を以て考ふれば、和約わやくの結果は國民の大不滿足ふまんぞくたるにとどまらず、元老げんろう閣臣かくしん其他そのたべての人皆中心よりれに滿足まんぞくせざりしや疑ふべからず。いわんや直接折衝せっしょうの任にあたり、榮辱えいじょく感受かんじゅするの最も深大じんだいなるべき小村においてをや。しかれども吾人ごじん露國ろこくの軍隊を破りたり。いま露國ろこくの國防を破らざりき。遺憾いかんながら承認せざるべからざる事實じじつなりとす。いやしく事實じじつを承認せば、小村の外交が理想的成功に達するを得ざりしも、また多少りょうすべきものなくむばあらず。彼は大なる天才にあらず。彼は化學的修練しゅうれんつて造られたる、近世式の外交家なり。彼は突嗟とっさの間、ただちにタイプライタアに就きて、複雜ふくざつなる外交文書を巧みにつづるの技能を有せり。しかれども技能以上化學的修練以上の大なる天才を要する大演劇は、もとより彼れのくわだて及ぶ所にあらざるべし」とつた。

 外交家としての小村の面目めんぼく風采ふうさいは、大體だいたい以上によつて察知することが出來る。その後、明治三十九年、彼は樞密すうみつ顧問官こもんかんとなり、四十一年、第二次かつら內閣が成立するやつて外相がいしょうとなり、侯爵こうしゃく榮位えいいを得た。明治四十四年卒去そっきょ、時にとし五十七。

 更に露國ろこくけんウイツテは、如何い かなる人物であるか。彼は、大藏おおくら大臣として、その名聲めいせいを內外に知られた人物である。その父はゼルマン人の血統にぞくし、一小吏しょうりの地位にゐた。かうした門閥もんばつなき家に生れて、ウイツテは藏相ぞうしょうまで立身りっしんしたのである。彼は一八四九年、コオカサス州に生れ、オデツサ大學卒業後、官設かんせつ鐵道てつどうきょくに入つた。この時から、事務上の手腕を現はし、一八八七年、鐵道てつどうきょく長官となつた。そののち累進るいしんして逓信ていしん大臣となり、一八九二年、ブイシネグラドスキイのあとを受け、大藏おおくら大臣の椅子にしたのである。

 ウイツテの就任以來、大藏省おおくらしょうとみ生氣せいきを加へ、その收入しゅうにゅうおおい增加ぞうかした。シベリヤ鐵道てつどうの完成、陸海軍の擴張かくちょうなども、彼の敏腕によつて、費用を捻出ねんしゅつし、どの方面の氣受けもよい。「ロシヤ近代の建設者」としょうせられてゐるのも理由ある事だつた。ポオツマス講和會議かいぎんだのち歸國きこくして首相の地位にのぼり、種々しゅじゅ貢獻こうけんするところがあつた。ただ彼れが外交家として何の經驗けいけんもなく、技倆ぎじゅつの上では、小村に一歩をゆずつたかんがあつたことは、すでに述べた通りである。

 【大意謹述】この時にあたつて、アメリカ合衆國大統領のルウズベルト氏は、戰爭せんそうが多くの人命を害することを深く憂へ、人道を尊重し平和を重んずる精神せいしんから、日露にちろ兩國りょうこくに向つて切に講和をすすめられた。ちんは深く大統領の親切な氣持を感謝し、快くその忠告をれて講和の意あるところを明らかにした。ここに於て全權ぜんけん委員を選んで事を圓滿えんまんはこぶやう命じたのである。