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60 故徳川光圀贈位追陞ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

大日本詔勅謹解2 道德敎育篇

徳川とくがわ光圀みつくに贈位ぞうい追陞ついしょう勅語ちょくご(明治三十三年十一月十六日 笠間御臨幸記)

【謹譯】つと公道こうどう隱晦いんかいうれヒ、ふか武門ぶもん驕盈きょうえいおそレ、名分めいぶんあきらかニシテこころざし筆削ひっさくシ、正邪せいじゃべんシテ勸懲かんちょういたセリ。まこと勤王きんのう倡首しょうしゅニシテ、じつ復古ふっこ指南しなんタリ。ちんたまたま常陸ひたちこう追念ついねんうたたせつナリ。さらしょうおくリ、もっちんあきらかニス。

【字句謹解】◯公道 至中しちゅう至正しせいの道、今日こんにちふところの皇道こうどう ◯隱晦 かくれて表面に出ない意 ◯驕盈 心がおごつて身分相應そうおう我儘わがまま贅澤ぜいたくをする ◯名分 大義名分のこと、君臣の道及び義理 ◯筆削ニ託シ 歷史の書物中にあたはす。これは『大日本史』のこと、詳しくは〔註一〕參照。この語は孔子こうしが『春秋しゅんじゅう』に書くにあたつて、書くべきは書き、削るべきは削つたことに由來する ◯正邪ヲ辨シ 正義にがっしたものといなとを區別くべつする ◯勸懲 善を賞し惡をらすこと ◯倡首 最初に主張した者 ◯復古ノ指南 王政おうせい復古ふっこを希望する者に確乎かっこたる目的・方針をあたへる者 ◯德川光圀 〔註二〕參照。

〔註一〕大日本史 德川とくがわ光圀みつくに勤王きんのう精神せいしんを中心としてへんした國史こくしである。づ部別から述べれば總卷そうかん三百九十七卷を本紀ほんぎ列傳れつでんひょうの四に分ける。「本紀ほんぎ」は七十三卷を占め、神武じんむ天皇から後小松ごこまつ天皇に至る國史、「列傳れつでん」は百七十卷あつて、后妃こうひ皇子おうじ皇女こうじょを始め、諸臣しょしん將軍しょうぐん・將軍家族・將軍家臣・文學・歌人孝子こうし烈女れつじょ隱逸いんいつ方技ほうぎ叛臣はんしん逆臣ぎゃくしん・外國(諸蕃)に分れ、「」は神祇しんぎ・氏族・職官しょっかん國郡こくぐん食貨しょっか禮樂れいがく・兵・刑・陰陽いんよう佛事ぶつじの十に分ち、「ひょう」は臣連おみむらじやっこ公卿く げ國郡司こくぐんし藏人くらんど檢非違使け び い し・將軍・僚屬りょうぞくの五に分つてある。明曆めいれき三年に編纂へんさん著手ちゃくしゅし、元祿げんろく十年に本紀ほんぎが出來、一年をて后妃・皇子・皇女の三でん成つて十三年に光圀みつくには完成を見ないでこうじた。文字通り完成を見たのは明治三十九年であつた。神功じんごう皇后を后妃こうひでんに入れたこと、弘文こうぶん天皇を御一代としてかぞたてまつつたこと、南北朝正閏せいじゅん神器しんきの所在につて決定したことが本書の一見識とされ、現在この說を正當せいとうとする史家し かが少くない。

〔註二〕德川光圀 水戸み と城主賴房よりふさの子で、ごう梅里ばいりつた。兄賴重よりしげに越えて水戸家をいだので、兄の子賴方よりかたとした、性質英明えいめい藩政はんせいを改革する上に勇斷ゆうだん果決かけつだつた。平生へいぜいがくを好み、みん遺臣いしん朱舜水しゅしゅんすいを師としてじゅを學び、僧侶の腐敗をいきどおつて國內の淫祠いんしこぼつた事がある。延寶えんぽう五年『扶桑ふそう拾遺集しゅういしゅう』を天覽てんらんに供へ、元祿げんろく三年に致仕ち しし、翌年西山せいざん閑居かんきょ、同五年楠公なんこうの碑を湊川みなとがわに建て、十三年、七十歳でこうじた。私諡し しして義公ぎこうふ。世上せじょう水戸み と黄門こうもんあるい西山公せいざんこうとして知られてゐる。著書には『大日本史』『扶桑拾遺集』のほかに『禮義れいぎ類典るいてん』『新編鎌倉史』『參考源平盛衰記』『參考太平記』『參考保元ほげん物語』『常山じょうざん文集』『西山せいざん隨筆ずいひつ』などがある。天保てんぽう三年にじゅ大納言を贈られ、明治二年に從一位を、同三十三年にしょう一位を贈られた。

【大意謹述】なんじ德川とくがわ光圀みつくに、汝は未だ何人なんびとも注意しない時にあたつて、早くも我國に於ける君臣の關係かんけいみだれ、朝廷の正しい道が世からかくれてあらはれないのを悲しみ、武士が權力けんりょくを握つて身分を忘れた行動のあるのを深く遺憾いかんとした事はよみすべき態度である。以上の精神せいしんにより、汝は大義名分を明らかにするため、『大日本史』を編纂し、書くべき正しい筋のものは書き、削るべき不正のてんは削つて、正義を守つた者といなとの區別くべつ嚴格げんかくにし、主として善者ぜんしゃを賞し惡人あくにんいましめた。正しくこの態度は勤王きんのう思想の第一せいであり、じつ王政おうせい復古ふっこに努力した維新いしん志士し しに正確な觀念かんねんあたへて指導したといつても大過たいかはない。ちんは今、常陸ひたち地方にみゆきするに際して、汝のこうを追想することが今更に深い。かつじゅを授けた朕は、再び今囘こんかいしょう一位を授け、汝の精神せいしん・事業をよみする朕の意を明らかにする。

【備考】江戸時代に於ける勤王きんのう先驅者せんくしゃ水戸み と義公ぎこうであつた。れの勤王論きんのうろんしつめてゆくと、結局、倒幕論とうばくろんになるから、普通の大名としては、到底、その唱主しょうしゅたることが出來ない。ところが、水戸家は副將軍の地位にあるので、勤王の唱主となるだけの自由を保留されてゐたことが、何としても、義公の强味であつた。

 勿論、義公は、副將軍の地位を考へて勤王說を唱へたのではない。義公の家には、左樣そ うした傳統でんとうがあつた。すなわち、義公の父威公いこう(賴房)が勤王家で、神道しんどうに心をよせてゐた。この感化が義公に及んだのである。それに義公の乳母めのと(加藤仁兵衞の妻)は岡崎おかざき久安きゅうあんむすめで、後陽成院ごようぜいいんの時、中和門院ちゅうわもんいんに仕へ、侍從じじゅうしょうしたことがあつた關係かんけいから、御伽噺おとぎばなしうちにも、皇室の尊嚴そんげんについて、義公に語つたりした。また義公の夫人は近衞このえ關白かんぱく左大臣信尋のぶひろむすめであつたから、京都の朝廷を崇敬すうけいする心をいだくに至るべき因緣いんねんもあつた。

 かうして義公は、つとに勤王心を有し、歷史に特別の興味を持つてゐた。左樣そ うした立場から、大義名分を明かにするために、新しく國史こくしを編修せねばならないことを痛感したのである。當時とうじの學者は、おおむ支那し な崇拜すうはいおちいり、幕府の儒官じゅかんはやし家で編せられた『本朝通鑑ほんちょうつがん』には、日本の皇室の祖先を太伯たいはくだと斷定だんていする如き不敬ふけいあえてして、一こうかえりみなかつた。この事を知つた義公は、大義名分の上から全然反對はんたいし、しんの國史を書くには日本精神せいしんによらねばならぬ必要を切に認めた。れの『大日本史』は、左樣そ うしたところから生れたのである。

 支那し な崇拜すうはい精神せいしんによつて書かれた國史は、不純な分子が混入して、正しい國史とはへない。これは當然とうぜん、日本精神せいしんを以て書かれねばならぬ。義公の方針は、全くここにあつた。したがつて、ちゅうに述べた如く、獨特どくとくの見識によつて、史實しじつを批判して記述し、つ史料の蒐集しゅうしゅう研究についても全力を注いだ。それに『常山じょうざん文集』が示す如く、義公は立派な學問と詩文しぶんの才があつて、みずから『大日本史』の編纂を統裁とうさいした。それらの內容を一貫するのは、大義名分の精神せいしんで、勤王きんのう思想はここ淵源えんげんを有する。

 義公の『大日本史』が世につたへられると、その感化のもとに、勤王きんのうのため、奮起したものが多い。また水戸がくは、義公によつて基礎をゑられ、それが明治維新の促進にあずかつて力があつた。そのしょうを贈られたのは、以上の如き勳功くんこうによるのである。