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日本道德の本質と敎育(備考補遺)(二)道德に關する考へ方

(二)道德にかんする考へ方

 西洋の國家は、征服者と非征服者との關係かんけいから成立つてゐる。そこに日本人の如く、たん一民族が、道義どうぎ肇國ちょうこくのもとに君臨せられた天皇いただき「君臣くんしんにしてじょう父子ふ しなり」とあるやうな情味じょうみがまるで見えない。征服者は、利己主義で國民を抑へ付け、國民はまた利己主義を以てこれにむくい、度々、革命騒ぎを起してゐる。かうした西洋民族の由來を知るならば、それが日本民族とまるでことなつた世界に生きてゐたことがわかるであらう。

 左樣そ うした民族が持つ道德・倫理が、權利けんりで縛られ、義務で固められ、冷たい機械的なものになるのは當然とうぜんだ。それだけに、一層、利己・個人本位の考へを深め、强めてゆくことは、あつても、それが減少し、稀薄になることはだんじてない。ここに西洋文化の恐しい破產性がある。左樣そ うした弊害へいがいを救ふについて、西洋の有識者はいろいろに論ずるが、中々、西洋人の本質は、一朝一夕で、容易たやす矯正きょうせいせられない。

 のみならず、彼等は、自己優越の考へで胸が一杯になつてゐるから、素直に反省しない。自己を謙遜けんそんならしめて、自己改革を行ふだけの考へがない。一たい謙遜けんそんといふことは、全く彼等にないことだ。謙遜けんそんは、東洋人の美德びとくの一つ、こと日本民族の一とくとして、尊重せられる。何處ど こまでも、へりくだつて、人にゆずるといふことは、西洋人の一切が、容易たやすく、し得ないところで、そこに彼等のいちじるしい缺陥けっかんがある。

 日本人は、いかに立派な品物を人に贈つても、「これはまこと粗品そひんで、御氣お きに入らぬかも知れぬが、何卒どうぞ御受納ごじゅのう下さい」とへりくだる。また如何い かに美しい容貌ようぼうを持ち、才德さいとくを備へた妻を友人に紹介するにしても、愚妻ぐさいといひ、荊妻けいさいといひ、山妻さんさいといふ。それからよく學問が出來て、性質のよい子供を人の前に出すにしても、これを豚兒とんじといひ、愚息ぐそくといふ。すべてが謙遜けんそん心持こころもちで一貫せられてゐる。

 ところが、西洋人は、謙遜けんそんの美德なるものを全くかいしないめに、事實じじつ愚妻ぐさいであり、山妻さんさいであつても、これを友人に紹介するときには、「立派な敎養がある妻です。美しくもあり、しとやかでもあり、正に理想の夫人です」といふ。また粗品そひんを人に贈るとき、「これは、すばらしい品です、誰に向つても、誇りべきものと信じます」といふ。また自分の子女について、人に語るとき、「わが賢明な子」「わが聰明そうめいな娘」といふ。それも、もつと誇張していふ場合の方が多い。そこに日本人とは全く反對はんたいな美德(?)を發揮はっきしてゐる。

 以上は、ごく卑近ひきんな一例をげたに留まるが、たんに右の如き、小さな德の一つにおいても、西洋と日本とはまるでことなつた考への上につてゐる。この事に想到そうとうするならば、日本人の有すべき道德・倫理は、當然とうぜん、西洋のと根本において、大分だいぶことなつたものであるべきは申す迄もない。西洋流の考へを持つたものは、「日本の道德は、支配者の道德で、被支配者の道德ではない」とけなしていふ。けれども、それは間違つてゐる。成程なるほど、武士本位の時代には、左樣そ うした傾向が、いくらかあつたらう。けれども明治維新以來、武斷ぶだん政治をやめ、幕政ばくせいほろびたのだから、道德的には、幕政時代の如き、不自然な抑壓よくあつは、取り去られてしまつた。たとへば、ちゅうといふことにしても、それは、臣民しんみんが主君にたいして、誠心まごころをつくすといふことであると同時に、主君もまた臣民の「忠」にたいしては、誠心まごころを以てせらるるのである。こうにしても、子が兩親ふたおやにつくす誠實せいじつたいして、兩親ふたおやは、また誠實せいじつを以て、子にたいするのである。それは、決して一方にかたよることがないのが自然のかたである。ただ臣民が、「忠」の報酬を强要するのはいけないと同時に、子が兩親ふたおや誠實せいじつならんことを强要するのも妥當だとうでない。二千年間人情に生きてゐる日本人は、そんな打算的な考へを有せぬのが、元來の美質だ。

 したがつて、以上のやうな美しい關係かんけい・交渉をすぐ西洋流の權利けんり・義務の頭で、解釋かいしゃくするのは正當せいとうく。權利けんり・義務といふことは、征服者・被征服者の契約によつて、生れて來た殺風景な、冷たい要素を持つてゐる。日本人流儀の人情美とは、世界をことにした存在だ。それゆえ、西洋流に日本特有の道德を頭ごなしに批判し、解釋かいしゃくすると、そこにいろいろの弊害へいがいを生ずる。