日本道德の本質と敎育(備考補遺)(一)日本の國民性を見よ

(一)日本の國民性を見よ

 思ふに、敎育きょういく勅語ちょくごを正解するについては、當然とうぜん、日本精神せいしんに立つて、之をさなければならぬ。在來は、あまりに西洋流の見方、西洋流の頭で、これを解釋かいしゃくしようとしためにかえってその眞意しんいそんするところを沒却ぼっきゃくした傾きがある。また日本流に考へるものもあつたが、それは、古い頭、古い考へ方にとらはれ、形式化した漢學者、形式化した國學者の心を以てしために、しん勅語大精神だいせいしん發揚はつようすることが出來なかつた。

 世上せじょう、往々にして、「これは新しいからよい」といひ、「これは古いから、よくない」といふ。その「古い」とは、いかなる意味でいふか、その「新しい」とは、どんな意味でいふか。その標準なるものが一定してをらぬ。が、率直に見た儘について、その眞相しんそうに言及するならば、大體だいたいに於て、「新しい」とは、西洋風の考へ方、見方による表現をいひ、「古い」とは、日本流乃至ないし東洋流の考へ方、見方による表現を指稱ししょうするものの如くである。

 それが果して、正しい意味に於て、「新しい」とさるべきであるか、疑ひなきを得ない。要するに、明治初期以來頭から歐米おうべい文化を新しく、優れたものとした常習癖に囚はれた結果にほかならない。成程なるほど、日本は、物質上の進歩、科學上の發展はってんでは、一時、西洋に及ばなかつた時代があつたのだから、明治の初期、中期に西洋文化を優越なるもの、卓絕たくぜつなるものと早呑込みをしたのは無理でなく、ついくらかの理由も存在した。けれどもそれが一つの常習癖となり、固定し、澁滯じゅうたいして、精神上せいしんじょう歐米おうべいの奴隷化するとなると、弊害へいがいしゅつする。それも、西洋文化が惰勢的だせいてきにその威力機能を示した明治末期迄は、まだ西洋崇拜すうはいも、許さるべきであつたとする事情がいくらかあつたらう。しかながら、西洋文化がどしどしくだざかとなつた大正時代は、最早、これを崇拜すうはいする必要もなく、冷靜れいせいに批判してよい時代となつた。しかも日本人の一ぱんは、このてんに目ざめず、依然いぜんとして西洋崇拜すうはいおちいり、心も魂も、西洋化してしまつたのである。

 したがつて、一切の政治、一切の經濟けいざい、一切の學問は、すつかり西洋流のものとなつた。そこに日本の獨自性どくじせいもなければ、創意もない。本來ならば、政治にせよ、經濟けいざいにせよ、學問にせよ、日本の大地にぴたりとはまるものでなくてはならぬ。たとへ、西洋流の考へを採り入れるにしても、それはただ參酌さんしゃくする迄で、それを本位とするのはあやまれるのはなはだしいものである。ところが、明治・大正・昭和を通じての傾向は、一切を西洋流とすることで、それ以外、何の獨自性どくじせいも、また創造性もらぬと考へられ、西洋追隨ついずいのみを可とし、とするのへいから、一歩も離れなかつた。そのようやく目ざめたのは昭和四年頃からのことだ。したがつて、日本國民の存立上、最も大切に取扱はねばならぬ倫理・道德なども、頭から西洋流に考へ、西洋流に扱ひ、それを以て、新味あたらしみあり、光彩こうさいありとして、得意がるものが、敎育界などに多かつた。

 一たい、道德・倫理は、國によつて、おのづからことなつてゐる。東洋と西洋とをくらべると、餘程よほどことなつてゐる。それは、道德・倫理の內容を國民性により、民族性によつて、規定しなくてはならぬ必然性による。またこれを組織するについても、理論本位にゆく西洋流があり、直觀ちょっかん本位にゆく東洋流がある。したがつて、絕對ぜったい個人主義・絕對利己主義・權利けんり本位などに根を置くところの西洋人が作つた道德・倫理は、すぐにこれを日本人にあてはめて、適切だとすることの出來ないのは、うおを水から離れしめて、ひて、陸上生活をさしめるにひとしい無理を生ずる。けだし日本人は、絕對國家主義・相互扶助主義・人情本位であるから、まるで西洋人と立場をことにするところが多い。左樣そ うした民族にあてはまるべき倫理・道德は、やはり、絕對國家主義と一致し、相互扶助や人情のあじわひにぴたりと合ふべきものでなくてはならぬ。勿論、以上は大體だいたいの傾向についてつたので、日本人にも、利己主義・個人主義の考へがまるでないとはへなからう。こと歐米おうべい崇拜すうはい時代以來、西洋流の考へが、隨分ずいぶん混入してゐるから、現代の日本人の考へは大體だいたいかわつてゐよう。

 けれども本質は、そんなに、すう十年間だけで、根本的にかわるものではない。たとへ、西洋中毒のでも、中正・公明の日本精神に目ざめるならば、必ずその本質の上によみがへるにちがひない。それは一つの根强い傳統でんとうつて、二千年來、久しく養はれて來てゐる以上、左樣そ う根本からぐら付くべきものぢやない。したがつて、しんに日本人にあてはまるべき倫理・道德は、國家的・相互扶助的・人情的の基礎的性質を十分に考慮の上に入れて、決定しなくてはならない。勿論、西洋のうちにも、日本人の性質に適當てきとうし、調和しるやうな要素があれば、いくらか參考として、これを活かして用ひることも、不當ふとうではなからう。

 が、それにしても、國家的・相互扶助的・人情的なてんく考へぬといけない。個人主義にも、個性を活かし、ある程度まで、個人の自由を活かしてゆくといふことに、多少の意義がある。かうした考への上から、西洋流を參酌さんしゃくして、その特長を採ることは、少しも差支へなからう。ただ國家を以て、個人の利益りえき搾取さくしゅする機關きかんとし、あるいは個人の利益りえきを徹底擴張かくちょうしてゆくための道具と考へるに至つては、日本人の考へ方と合はない。