57-1 敎育ニ關シテ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

敎育きょういくかんシテくだたまヘル勅語ちょくご(第一段)(明治二十三年十月三十日)

【謹譯】ちんおもフニ皇祖こうそ皇宗こうそうくにはじムルコト宏遠こうえんニ、とくツルコト深厚しんこうナリ。臣民しんみんちゅうこうニ、億兆おくちょうこころヲ一ニシテ、世々よ よセルハ、國體こくたい精華せいかニシテ、敎育きょういく淵源えんげんまたじつここそんス。

【字句謹解】◯皇祖皇宗 御祖先ごそせんの方々、皇祖こうそ神武じんむ天皇以前を、皇宗こうそうは以後を指すのが普通のかいである ◯ 永久にさかえる日本國の意 ◯肇ムルコト 開きはじめる ◯宏遠ニ こう廣大こうだいえんは永遠のこと ◯德ヲ樹ツルコト深厚ナリ とく敎化きょうかの意で、おしえひろく及ぼして民を導き、民をめぐむ。つるは植ゑ立てること。樹木じゅもくを地に植ゑつけて根をおろすやうに、しつかりと民に德をうつし植ゑつけられた意、深厚しんこうは深く厚い ◯我が臣民 世々よ よ臣民しんみんのこと。建國けんこく以來現在までを指す ◯克ク忠ニ克ク孝ニ よくよく古字こ じきみたいしては赤誠せきせいでつかへ、家庭では同じ心をこうとしてあらはす ◯億兆 一般國民のこと ◯心ヲ一ニシ 目的を一にする ◯世々 代々 ◯厥ノ美ヲ濟セルハ そのそのより少し重い意を持つた古字こ じそのの字が指してゐるのは「ちゅうこうに」の忠孝ちゅうこうである。忠孝美風なすは完成させること、忠孝の美風をまとめつくつて今日こんにちに及んだとふ意 ◯我カ國體ノ精華 我が國柄くにがらよりもすぐれた純美なてん ◯敎育ノ淵源 淵源えんげんは事物の基づくところ ◯亦實ニ此ニ存ス この言葉は「國體こくたい精華せいか」を受けたもの。我が國民敎育の大本たいほんも、にあるのではなく、全くこのてんそんする。

〔注意〕この勅語ちょくごは『道德敎育篇』の中心となるものであるから、ここで少しくその成立事情をしるす事とする。明治維新いしんと共に、時の識者しきしゃづ何よりも鎖國さこく當時とうじほとんど入つて來なかつた外國の文化を取り入れ、日本を西洋式の文明開化かいかの國にさせる必要を感じた。政治もさうである。軍事も、經濟けいざいもさうである。したがつて思想、一般の風俗・習慣がまるでかわり、昔からの弊害へいがいであると考へたすべてを打破らうとして、弊害のない立派な日本の長所までも少しも價値か ちなしとした。同時に、西洋であれば何でもよく、とうといと考へる人々が多くなつた。今日こんにち文明史家し かが「西洋心醉しんすい時代」と名づけるのはこの傾向を言つたのである。

 明治政府はこの間中も決して敎育について關心かんしんしないでゐたのではない。明治五年の學制がくせい發布はっぷ・明治十三年の敎育令・明治十五年には『幼學ようがく綱要こうよう』などを頒布はんぷして、種々しゅじゅ日本の國體こくたいもとづいた敎育の普及を計つたが、當時とうじ條約じょうやく改正を一日も早く行ひたい事から、日本をひて西洋文明國化しようとしたことなどが原因となつて、世相せそうは明治十七八年頃から極端な歐化おうか主義となつた。したがつて思想界は混沌こんとんとし、フランス風の民權みんけん思想、ドイツ風の國家主義・軍國思想、イギリス風の實利じつり主義が一方にあれば、他方には未だ從來じゅうらい孔孟こうもうしたがつた儒敎じゅきょうを始め、佛敎ぶっきょう神道しんどう・キリスト敎の精神せいしんも入りみだれて、日本の民衆はいずれを正しいとしてよいか分からなくなつた。

 この歐化おうか主義にたいする反作用として皇室中心思想が起つたのは少しも無理ではない。それは當時とうじの傾向を國民道德の堕落にありとして、西村にしむら茂樹しげきらの日本道德論の研究・主張となつてあらはれた。それと前後してかつ安房あ わたに干城たてきなどの警告論があり、問題は國民思想の再認識、日本思想の建設まで進んだ。ここで第二の國民となるべき人物を作り上げる敎育の目的がやかましく各方面で論じられたのである。

 明治二十三年二月には、內務省で地方官會議かいぎが開かれた。この席上で當時とうじの思想問題がおおいに論議され、一同は文部大臣の意見を聞くために文部省に出頭した。すでにこの時は論の中心が敎育の根本思想につたのは言ふまでもない。文部大臣榎本えのもと武揚たけあきは事が重大なので卽答そくとうせずに、これを內閣に報告した。內閣でも、朝野ちょうやに於いて議論が紛糾ふんきゅうしてゐる問題であるから、この際一きょに解決しようと、遂に問題を上聞じょうぶんに達することとなつた。明治天皇はこれを聞召きこしめされ、國民敎育の根本となる勅諭ちょくゆ起草きそうして提出するやうにとの勅命ちょくめいを文部大臣につたへられたが、間もなく芳川よしかわ顯正けんせいが文部大臣となるに及び、再び同樣どうよう御沙汰ご さ たはいし、いよいよ起草に著手ちゃくしゅすることになつた。

 起草者はさきに述べた芳川よしかわ文相ぶんしょうで、助力者は時の法制局長官井上いのうえこわし、顧問は天皇侍講じこうであり、かつて『幼學ようがく綱要こうよう』をへんした元田もとだ永孚ながざねであつた。この三人が心血しんけつを注いで出來上つた草稿そうこう叡覽えいらんきょうすると、天皇は一字一句も仔細しさい詮議せんぎあらせられ、修正又修正、五箇月かげつ日子にっしを費してやつと定案ていあんが成立した。この上は國民に發布はっぷするのみである。最初は帝國議會ぎかい開會前かいかいぜんに、普通教育の源泉である東京高等師範しはん學校に行幸ぎょうこうの上發布はっぷされることと內定したが、二十三年十月、天皇茨城いばらぎ地方に行はれた近衞兵このえへい小機動しょうきどう演習えんしゅう天覽てんらんの結果、軽微けいび御風氣ごふうきかかられ、そのため、十月三十日に山縣やまがた總理そうり大臣と芳川よしかわ文部大臣とを宮中にされ、御假床ごかしょうの上に於いて親しく之をたまわつたのである。

 以上のほかにほ一ごんけ加へて置きたいことがある。丁度ちょうど歐化おうか主義のさかんな明治十九年に、明治天皇が帝國大學へ行幸ぎょうこうされた。その時、親しく大學の內部をすつかり巡覽じゅんらんあらせられたが、還御かんぎょのち侍講じこう元田もとだ永孚ながざねされ、「過日かじつ、大學において理化・植物・醫學いがく・法學などは、おおいに進歩した樣子を見たが、ひとり、敎育の根本となるべき修身しゅうしんについては、一向に進歩した跡がない。日本の學問は修身しゅうしんを根本とする。このてんとくと考へねばならぬ事であらう」と仰せられた。天皇は、その後もの事について思召おぼしめし元田もとだに告げ給ひ、「帝國大學は最高の學府がくふであつて、高等の人材を養成すべき所である。しかるに和漢わかん修身倫理の道を講ずべき學利がくりがありや無しでは心細い。政治治安の道を講ずべき人材を養成してゆくのに、これではなるまい。あるい國學者こくがくしゃ漢學者かんがくしゃの中に、固陋ころうなものがあるといふが、その固陋ころうは人にあつて、學問そのものの本體ほんたいは、左樣そ うでないから之は是非、學ばせ研究せしめなければならぬ」と仰せられた。元田もとだは「誠に叡慮えいりょの通りでございます」と奉答ほうとうしたので、更に德大寺とくだいじ侍從長じじゅうちょう勅命ちょくめいが下り、時の帝大總長そうちょう聖旨せいしそんするところをつたへた。總長そうちょう恐懼きょうくして、いくらかの方面の施設につくしたとつたへられてゐる。

 ほ帝國大學では、敎育きょういく勅語ちょくご發布はっぷされた翌月、天長てんちょう佳節かせつに、勅語ちょくご捧讀式ほうどくしきを行ひ、その際、總長そうちょう加藤かとう弘之ひろゆきは「我國固有の性情せいじょうを務めて保存し、更にこれが發達はったつはからねばならぬ」といふ旨を告げ、敎授重野しげの安繹やすつぐは、國史こくしの上から、勅語ちょくご要點ようてん謹釋きんしゃくして、日本の傳統でんとうそくした國民道德の精神せいしん發揚はつようすべき必要を力說したのである。

 これより先、大日本帝國憲法が二十二年二月十一日に發布はっぷされ、次ぎにこの勅語ちょくごたまわつて、國民敎育の基礎を定められ、共に我が國體こくたいを中心として政治・敎育の二大方面に明らかな道が開けたのである。

【大意謹述】思ふに我が皇室の御祖先ごそせんたる天照大御神あまてらすおおみかみを始めたてまつり、皇祖こうそ神武じんむ天皇等の御先祖がこの日本國を開きはじめられたのは一ちょうせきのことでなく、そのつてきたるところはひろく、つ遠い。またのために積まれた功績は非常に大きく、どうしてもけないほど、深く國民中に皇室の德を植ゑ付けられたのである。かうしたよき國に生れて、代々、皇室に仕へまつる臣民しんみんは、いずれも君德くんとくに感化せられて、きみにはちゅうつくしおやにはこうつくし、國民全體ぜんたいが皆心を一つにして、わが國體こくたいの美風をまっとうして來た。右の如く、忠孝ちゅうこうを以て、すべてのもといとする日本の國體こくたいは、萬邦ばんぽう無比む ひで、ここに咲いた美しい精神せいしんの花こそ、我國敎育の淵源えんげんをなすものである。

【備考】敎育といふことは、世界各國、必ずしも同一ではない。勿論世界一しんとなるやうな時代が來たら、おのづから、統一されるかも知れぬけれども、それは、實際じっさい上、到底とうてい、望み難い事であらねばならぬ。したがつて西洋と東洋の敎育が、內容上、相當そうとうことなつた要素を有するとひとしく、日本の敎育は、歐米おうべいの敎育と大本たいほんの上で、ことなるのである。

 ところが、明治初年以來、敎育の歐米化おうべいかに伴ひ、敎育の大本たいほんまた不知しらず々々しらず、歐米化するに至つた。いきおいなるものは中々なかなか抑へ難く、避け難いものであるから、歐米的な潮流ちょうりゅうはげしく、日本の上下にみなぎると、敎育の大本たいほんさへも、歐米本位とするやうな弊害へいがいを生じた。このてんは、有識者が特に憂慮ゆうりょしたところで、かしこくも明治天皇におかせられてもまたここ大御心おおみこころまやまされたのである。

 けだ歐米おうべいの敎育は知識本位・才能本位であると同時に實用じつよう本位でもある、勿論イギリスなどでは、人格じんかく陶冶とうやといふことをも重大なものとしてをらぬではないが、それは、一般的でない。大體だいたいの傾向からいふと、道德本位・倫理本位・人格本位であるよりも、より多く智的ちてき・才能的・實用じつよう的な傾向が重んぜられてゐる。平たくいふと、人間に向ひ道德上の魂、どつしりした正義の腹をゑるやうに敎育するよりも、ただ事務とか、學藝がくげいとかふやうな方面に役立つ人物を作ることを主眼しゅがんとしてゐる。これが、歐米流の敎育方針だ。

 ところが、日本の敎育は、ほとんど之とことなつてゐる。勿論、日本においても、知識や才能や實用じつよう的なものを頭からしりぞけるのではない。ある程度まで、敎育上、その價値か ちを認めてゐる。けれどもそれらを以て、主眼しゅがんとし、根本要素とはしない。日本の敎育は、道德本位で、人格鍛鍊たんれんを主とし、しつかりと腹のすわつた、正義に根强い人間を作りげることに主力を置いてゐる。すなわちそれがために、忠孝ちゅうこうぽんを重大な要素とし、敎育の根本生命とするわけである。

 のみならず、忠孝一本を敎育の基礎とすることは、傳統でんとう民性みんせいの上から、最も正しいとされて來た。古來、史上に於ける現象は、要するに忠孝一本の精神せいしんによつてつらぬかれてゐるとつてもよい。無論、時代によつて、そこにおのづから盛衰せいすいを伴ひ、一がい左樣そ うした美風が、いつの世にもさかんだつたとはへぬにしても、大體だいたい左樣そ うした美風を維持して來たのである。

 天照大御神あまてらすおおみかみ高天原たかまがはらにおいて、正義・平和・愛の德を示されたこと、神武じんむ天皇積慶せっけい重暉ちょうき養正ようせい建國けんこくこう宣說せんせつせられたことなどを考へ、代々の天子が、忠孝ちゅうこうぽんの道を奬勵しょうれいされたことを思ひ、臣民しんみんがそれらの大精神だいせいしんしたがつて、行動した佳例かれいの少くないことに想到そうとうすると、日本の國風こくふうの美が由來するところ極めて久しいことを知るのである。

 ところが、西洋學に心醉しんすいするものは、傳統でんとうを考へず國性をかえりみず、一がいに日本道德の大本たいほん陳套ちんとうなりとし、あるいは新しい時代にそぐはない內容を有するものとして、これを輕視せんとするのへいが多い。それは、昭和の今日こんにちにおいて、一層はなはだしいものがる。勿論、滿洲まんしゅう問題發生はっせい以來、聯盟れんめい脫退だったいのことがあつて以來、日本精神の目ざめをいちじるしくうながし、再び日本道德の大本たいほんに重大意義あるを認めるものが次第に多くなつたのは事實じじつだが、ほ西洋學心醉しんすいからさめ切らぬもの、マルクス主義とらはれたものは、往々おうおうにして忠孝一本の大道たいどう呪詛じゅそしようとする。

 が、それはあやまれるのはなはだしいものだ。大忠だいちゅう大孝だいこうの德は今日こんにち、日本のみが有する最高の道だ、最大の道だ。し新しい時代にアツピイルするとふのなら、ただ說き方を現代的にすれば、それで十分なのである。このてんに思ひいたらず、また大忠だいちゅう大孝だいこう大故たいこ大新たいしんの意義を有することを知らないで、頭から國民性・傳統性でんとうせいの美と長所とを無視し、忠孝ちゅうこうぽんの道德に反對はんたいし、敎育の淵源えんげんを否定しようとするのは、全く明治天皇の有難き仰せにそむきまゐらすものとはねばならぬ。

 げんに敎育のきょくあたるものが、國體こくたい尊嚴そんげんを忘れて、赤化せっか運動に沒頭ぼっとうし、あるいは非國民的態度のもとに日本をのろふが如きことをすことは、だんじて許すべからざるものと思ふ。すべては、歐米化おうべいかから離れよ、歐米臭おうべいしゅうから解放されよ。かくして日本の國民性・傳統性でんとうせいの上に起て!そこに始めて國體こくたい尊嚴そんげんを了解し、合せて、忠孝ちゅうこうぽん大義たいぎ自覺じかくするに至るであらう。