敎育ニ關シテ下シ給ヘル勅語(第一段)(明治二十三年十月三十日)
【謹譯】朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。
【字句謹解】◯皇祖皇宗 御祖先の方々、皇祖は神武天皇以前を、皇宗は以後を指すのが普通の解である ◯國 永久にさかえる日本國の意 ◯肇ムルコト 開きはじめる ◯宏遠ニ 宏は廣大、遠は永遠のこと ◯德ヲ樹ツルコト深厚ナリ 德は敎化の意で、敎を廣く及ぼして民を導き、民を惠む。樹つるは植ゑ立てること。樹木を地に植ゑつけて根を下すやうに、しつかりと民に德をうつし植ゑつけられた意、深厚は深く厚い ◯我が臣民 世々の臣民のこと。建國以來現在までを指す ◯克ク忠ニ克ク孝ニ 克は能の古字、君に對しては赤誠でつかへ、家庭では同じ心を孝としてあらはす ◯億兆 一般國民のこと ◯心ヲ一ニシ 目的を一にする ◯世々 代々 ◯厥ノ美ヲ濟セルハ 厥は其より少し重い意を持つた古字。厥の字が指してゐるのは「克く忠に克く孝に」の忠孝である。美は忠孝の美風、濟は完成させること、忠孝の美風をまとめつくつて今日に及んだと云ふ意 ◯我カ國體ノ精華 我が國柄が他よりもすぐれた純美な點 ◯敎育ノ淵源 淵源は事物の基づくところ ◯亦實ニ此ニ存ス この言葉は「國體ノ精華」を受けたもの。我が國民敎育の大本も、他にあるのではなく、全くこの點に存する。
〔注意〕この勅語は『道德敎育篇』の中心となるものであるから、ここで少しくその成立事情を記す事とする。明治維新と共に、時の識者は先づ何よりも鎖國當時に殆んど入つて來なかつた外國の文化を取り入れ、日本を西洋式の文明開化の國にさせる必要を感じた。政治もさうである。軍事も、經濟もさうである。從つて思想、一般の風俗・習慣がまるで變り、昔からの弊害であると考へた凡てを打破らうとして、弊害のない立派な日本の長所までも少しも價値なしとした。同時に、西洋であれば何でもよく、尊いと考へる人々が多くなつた。今日文明史家が「西洋心醉時代」と名づけるのはこの傾向を言つたのである。
明治政府はこの間中も決して敎育について關心しないでゐたのではない。明治五年の學制發布・明治十三年の敎育令・明治十五年には『幼學綱要』などを頒布して、種々日本の國體に基いた敎育の普及を計つたが、當時條約改正を一日も早く行ひたい事から、日本を强ひて西洋文明國化しようとしたことなどが原因となつて、世相は明治十七八年頃から極端な歐化主義となつた。從つて思想界は混沌とし、フランス風の民權思想、ドイツ風の國家主義・軍國思想、イギリス風の實利主義が一方にあれば、他方には未だ從來の孔孟に從つた儒敎を始め、佛敎・神道・キリスト敎の精神も入り亂れて、日本の民衆は何を正しいとしてよいか分からなくなつた。
この歐化主義に對する反作用として皇室中心思想が起つたのは少しも無理ではない。それは當時の傾向を國民道德の堕落にありとして、西村茂樹らの日本道德論の研究・主張となつてあらはれた。それと前後して勝安房・谷干城などの警告論があり、問題は國民思想の再認識、日本思想の建設まで進んだ。ここで第二の國民となるべき人物を作り上げる敎育の目的がやかましく各方面で論じられたのである。
明治二十三年二月には、內務省で地方官會議が開かれた。この席上で當時の思想問題が大に論議され、一同は文部大臣の意見を聞くために文部省に出頭した。旣にこの時は論の中心が敎育の根本思想に在つたのは言ふまでもない。文部大臣榎本武揚は事が重大なので卽答せずに、これを內閣に報告した。內閣でも、朝野に於いて議論が紛糾してゐる問題であるから、この際一擧に解決しようと、遂に問題を上聞に達することとなつた。明治天皇はこれを聞召され、國民敎育の根本となる勅諭を起草して提出するやうにとの勅命を文部大臣に傳へられたが、間もなく芳川顯正が文部大臣となるに及び、再び同樣な御沙汰を拜し、いよいよ起草に著手することになつた。
起草者は前に述べた芳川文相で、助力者は時の法制局長官井上毅、顧問は天皇の侍講であり、嘗て『幼學綱要』を編した元田永孚であつた。この三人が心血を注いで出來上つた草稿を叡覽に供すると、天皇は一字一句も仔細に詮議あらせられ、修正又修正、五箇月の日子を費してやつと定案が成立した。この上は國民に發布するのみである。最初は帝國議會の開會前に、普通教育の源泉である東京高等師範學校に行幸の上發布されることと內定したが、二十三年十月、天皇は茨城地方に行はれた近衞兵の小機動演習を天覽の結果、軽微な御風氣に罹られ、そのため、十月三十日に山縣總理大臣と芳川文部大臣とを宮中に召され、御假床の上に於いて親しく之を賜つたのである。
以上のほかに尙ほ一言、附け加へて置きたいことがある。丁度、歐化主義の旺んな明治十九年に、明治天皇が帝國大學へ行幸された。その時、親しく大學の內部をすつかり巡覽あらせられたが、還御の後、侍講元田永孚を召され、「過日、大學において理化・植物・醫學・法學などは、大に進歩した樣子を見たが、ひとり、敎育の根本となるべき修身については、一向に進歩した跡がない。日本の學問は修身を根本とする。この點は篤と考へねばならぬ事であらう」と仰せられた。尙ほ天皇は、その後も此の事について思召を元田に告げ給ひ、「帝國大學は最高の學府であつて、高等の人材を養成すべき所である。然るに和漢修身倫理の道を講ずべき學利がありや無しでは心細い。政治治安の道を講ずべき人材を養成してゆくのに、これではなるまい。或は國學者・漢學者の中に、固陋なものがあるといふが、その固陋は人にあつて、學問そのものの本體は、左樣でないから之は是非、學ばせ研究せしめなければならぬ」と仰せられた。元田は「誠に叡慮の通りでございます」と奉答したので、更に德大寺侍從長に勅命が下り、時の帝大總長に聖旨の存するところを傳へた。總長は恐懼して、いくらか其の方面の施設につくしたと傳へられてゐる。
尙ほ帝國大學では、敎育勅語が發布された翌月、天長の佳節に、勅語捧讀式を行ひ、その際、總長加藤弘之は「我國固有の性情を務めて保存し、更にこれが發達を圖らねばならぬ」といふ旨を告げ、敎授重野安繹は、國史の上から、勅語の要點を謹釋して、日本の傳統に卽した國民道德の精神を發揚すべき必要を力說したのである。
これより先、大日本帝國憲法が二十二年二月十一日に發布され、次ぎにこの勅語を賜つて、國民敎育の基礎を定められ、共に我が國體を中心として政治・敎育の二大方面に明らかな道が開けたのである。
【大意謹述】思ふに我が皇室の御祖先たる天照大御神を始め奉り、皇祖神武天皇等の御先祖がこの日本國を開き肇められたのは一朝一夕のことでなく、その依つて來るところは廣く、且つ遠い。また其のために積まれた功績は非常に大きく、どうしても拔けないほど、深く國民中に皇室の德を植ゑ付けられたのである。かうしたよき國に生れて、代々、皇室に仕へまつる臣民は、何れも君德に感化せられて、君には忠をつくし、親には孝をつくし、國民全體が皆心を一つにして、わが國體の美風を全うして來た。右の如く、忠孝を以て、すべての基とする日本の國體は、萬邦無比で、茲に咲いた美しい精神の花こそ、我國敎育の淵源をなすものである。
【備考】敎育といふことは、世界各國、必ずしも同一ではない。勿論世界一心となるやうな時代が來たら、おのづから、統一されるかも知れぬけれども、それは、實際上、到底、望み難い事であらねばならぬ。從つて西洋と東洋の敎育が、內容上、相當の異つた要素を有するとひとしく、日本の敎育は、歐米の敎育と大本の上で、異るのである。
ところが、明治初年以來、敎育の歐米化に伴ひ、敎育の大本も亦不知々々、歐米化するに至つた。勢なるものは中々抑へ難く、避け難いものであるから、歐米的な潮流が烈しく、日本の上下に漲ると、敎育の大本さへも、歐米本位とするやうな弊害を生じた。この點は、有識者が特に憂慮したところで、畏くも明治天皇におかせられても亦茲に大御心を惱まされたのである。
蓋し歐米の敎育は知識本位・才能本位であると同時に實用本位でもある、勿論イギリスなどでは、人格陶冶といふことをも重大なものとしてをらぬではないが、それは、一般的でない。大體の傾向からいふと、道德本位・倫理本位・人格本位であるよりも、より多く智的・才能的・實用的な傾向が重んぜられてゐる。平たくいふと、人間に向ひ道德上の魂、どつしりした正義の腹を据ゑるやうに敎育するよりも、唯事務とか、學藝とか云ふやうな方面に役立つ人物を作ることを主眼としてゐる。これが、歐米流の敎育方針だ。
ところが、日本の敎育は、殆んど之と異つてゐる。勿論、日本においても、知識や才能や實用的なものを頭から斥けるのではない。或程度まで、敎育上、その價値を認めてゐる。けれどもそれらを以て、主眼とし、根本要素とはしない。日本の敎育は、道德本位で、人格鍛鍊を主とし、しつかりと腹の据つた、正義に根强い人間を作り擧げることに主力を置いてゐる。卽ちそれがために、忠孝一本を重大な要素とし、敎育の根本生命とするわけである。
のみならず、忠孝一本を敎育の基礎とすることは、傳統・民性の上から、最も正しいとされて來た。古來、史上に於ける現象は、要するに忠孝一本の精神によつて貫かれてゐると云つてもよい。無論、時代によつて、そこにおのづから盛衰を伴ひ、一概に左樣した美風が、いつの世にも旺んだつたとは云へぬにしても、大體、左樣した美風を維持して來たのである。
天照大御神が高天原において、正義・平和・愛の德を示されたこと、神武天皇が積慶・重暉・養正の建國三綱を宣說せられたことなどを考へ、代々の天子が、忠孝一本の道を奬勵されたことを思ひ、臣民がそれらの大精神に從つて、行動した佳例の少くないことに想到すると、日本の國風の美が由來するところ極めて久しいことを知るのである。
ところが、西洋學に心醉するものは、傳統を考へず國性を顧みず、一概に日本道德の大本を陳套なりとし、或は新しい時代にそぐはない內容を有するものとして、これを輕視せんとするの弊が多い。それは、昭和の今日において、一層甚だしいものがる。勿論、滿洲問題發生以來、聯盟脫退のことがあつて以來、日本精神の目ざめを著しく促し、再び日本道德の大本に重大意義あるを認めるものが次第に多くなつたのは事實だが、尙ほ西洋學心醉からさめ切らぬもの、マルクス主義に囚はれたものは、往々にして忠孝一本の大道を呪詛しようとする。
が、それは誤れるの甚だしいものだ。大忠大孝の德は今日、日本のみが有する最高の道だ、最大の道だ。若し新しい時代にアツピイルすると云ふのなら、唯說き方を現代的にすれば、それで十分なのである。この點に思ひ到らず、また大忠・大孝が大故大新の意義を有することを知らないで、頭から國民性・傳統性の美と長所とを無視し、忠孝一本の道德に反對し、敎育の淵源を否定しようとするのは、全く明治天皇の有難き仰せに背きまゐらすものと云はねばならぬ。
現に敎育の局に當るものが、國體の尊嚴を忘れて、赤化運動に沒頭し、或は非國民的態度のもとに日本を詛ふが如きことを爲すことは、斷じて許すべからざるものと思ふ。すべては、歐米化から離れよ、歐米臭から解放されよ。かくして日本の國民性・傳統性の上に起て!そこに始めて國體の尊嚴を了解し、合せて、忠孝一本の大義を自覺するに至るであらう。