54 海軍兵學校ヘ臨御ノ節生徒ニ賜ハリシ勅語 明治天皇(第百二十二代)

海軍かいぐん兵學校へいがっこう臨御りんぎょせつ生徒せいとたまハリシ勅語ちょくご(明治十二年十二月二十五日)

【謹譯】ちん本日ほんじつしょ生徒せいと事業じぎょうルニ、進歩しんぽまた昔日せきじつニアラス、感悦かんえついたリ、なお勉强べんきょう漸次ぜんじ海軍かいぐん盛大せいだいのぞム。

【字句謹解】◯昔日ノ比ニアラス 昔とはくらべものにならない程進歩した ◯感悦ノ至リ この上もなくよろこばしい ◯漸次 一歩々々段々にといふ意。

〔注意〕海軍兵學校へいがっこうかんする勅語ちょくごは、明治時代に左の如くおおいだされてゐる。

(一)『海軍兵學校ニ臨御りんぎょセラレシ時列席ノ各艦長ニたまヒシ勅語ちょくご』(明治十二年十二月十五日)/(二)『海軍兵學校卒業證書しょうしょ授與式じゅよしきノ勅語』(明治十四年十一月十九日)

【大意謹述】ちんは本日、本校に臨んで諸生徒の授業ぶりをたが、敎へ方といひ、設備といひ、非常に進歩して昔の有樣ありさまにくらべると、ずつと立優たちまさつてゐる。これは朕にとつてこの上もなくよろこばしいことである。ほ今後一層勉强して、一歩づつ確實かくじつに海軍のいきおいが大きくならん事を望む次第である。

【備考】ここたまわつた勅語ちょくごはいすると、日本の海軍が、陛下の御奬勵ごしょうれいにより、そのいちじるしい進歩の道程どうていいたことが分明わ かつて、會心かいしんの至りである。思ふに、日本は四面、海にかこまれた島國であるから早く海事は開けたが、海軍は、つとに芽ばえて、相當そうとう發展はってんを見せた割に鎌倉・室町に及んで、左程さほど發達はったつせず、安土桃山時代とても、同樣どうようであつた。その理由は何によるか。一つは內地で陸戰りくせんが多かつたによる。

 かの元寇げんこう襲來しゅうらいの時、豐公ほうこうの朝鮮征伐の時、日本軍は、海軍に於て思はぬ敗北を取つた。だから、支那し な・朝鮮の海軍將帥しょうすいは、「日本は、陸戰に强いが、海戰では、弱い」とつてゐる。その理由を說明したみん戚繼光せきけいこうらの說によるとそれは、海軍の設備が、支那などよりも劣つてゐためで、日本の船があまりにも、弱小だつた結果にほかならない。日本海軍の將卒しょうそつそのものは、支那海軍を向ふにまわしても、實力じつりょく上、決しておとりはしなかつたことを戚繼光せきけいこうらも裏書うらがきしてゐる。

 要するに、巨艦を作ること、大砲を備へ付けることなどの上に、日本海軍は、あまりに不用意だつた。ここ元寇げんこうの時、豐公ほうこう朝鮮征伐のときに於ける敗因があつた。ところが、明治につて、日本海軍の發達はったつは、非常に著大ちょだいで目ざましかつた。それは、明治天皇御奬勵ごしょうれいによるところが最も多いが、一つは、海軍將士しょうし發奮はっぷん努力によるところが少くない。

 今、幕末から明治初期に於ける海軍について略記する。西力せいりょく東漸とうぜんいきおいに目ざめて幕府が海防に留意したところから、元治げんじ元年五月、將軍しょうぐん家茂いえもちは、海軍奬勵しょうれいの命令をはっし、次いで慶應けいおう二年正月、フランス海軍士官をへいしてその敎へを受け、海軍知識の普及を計つた。その結果、同年七月、軍艦操練所そうれんじょの名を改めて、海軍所かいぐんじょとした。翌三年六月、海軍々校を設置、この方面の擴張かくちょう從事じゅうじしたが、當時とうじの軍艦は、すべてでわずかに九そうあるにすぎなかつた。

 明治維新後、明治元年三月、天皇の大阪行幸ぎょうこう、軍艦天覽てんらん盛事せいじがあるので、肥前ひぜん以下十五に命じ、軍艦及び蒸氣船天保山てんぽうざん沖に碇泊ていはくせしめた事がある。次いで同二年九月、東京築地つきじに海軍操練所そうれんじょを置くにつき、諸藩につたへ、十八歳から二十歳迄のものを大藩たいはん五人、中藩ちゅうはん四人、小藩しょうはん三人づつ、稽古けいこ修學しゅうがくいださしめた。これを三年十一月、海軍兵學寮へいがくりょう改稱かいしょうしたのである。

 ほ同年十月、海軍の兵制は、すべて、イギリス式を參酌さんしゃくして、定める事に決した。かうした大體だいたいの方針が確定した以來、日本海軍は、徐々、面目を一新し、明治九年、海軍兵學校を置き、兵學寮の名稱めいしょうはこれを廢止はいししたのである。のち日淸にっしん日露にちろの戰爭に、海軍の威力を發揮はっきした基礎は全く明治に入つて築かれたのであつた。無論一つは、將士しょうしの素質が、優秀で、聖旨せいしじて、勤勉、まなかつたによるところが多い。