52 學習院開校式ニ臨御ノ際下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

學習院がくしゅういん開校式かいこうしき臨御りんぎょさいくだたまヘル勅語ちょくご(明治十年十月十七日 岩倉公實記)

【謹譯】ちんおもフニ汝等なんじらむねほう此校このこう協立きょうりつシ、開業かいぎょうてんおこなフ。そのこころざしよみスヘシ。かつ仁孝にんこう天皇てんのう京都きょうとおい學習院がくしゅういんテ、諸臣しょしんヲシテ就學しゅうがくセシム。ちんいま先志せんし紹述しょうじゅつシ、本校ほんこうなづケテ學習院がくしゅういんごうス。ねがわクハ汝等なんじら子女しじょヲシテ黽勉びんべん時習じしゅうセシメ、もっ皇祖こうそ前烈ぜんれつ恢張かいちょうセヨ。

【字句謹解】◯協立 力を共にして立てる ◯仁孝天皇 第百二十代の天皇天皇が京都に學習院がくしゅういんを建てられた次第は〔註一〕參照 ◯先志 御祖先ごそせんこころざし ◯紹述 受けぐ ◯黽勉 よく勉强すること ◯時習 平常學問をおこたらないこと。この語は『論語ろんご』の開卷かいかん第一ぺーじにある『いわく、まなびて時に之を習ふ、またよろこばしからずや』云々うんぬんる ◯前烈 過去に於ける輝かしい事業功績 ◯恢張 おおいひろめる。

〔註一〕公卿敎育 仁孝にんこう天皇光格こうかく天皇遺旨い しり、公卿く げなどを敎育する目的から、京都開明かいめい門院もんいん舊地きゅうち學問所がくもんじょを設立し、天保てんぽう十三年十一月から開校した。出所しゅっしょする者は大體だいたい四十歳以下十五歳以上の非職ひしょくの人二百人程で、講義こうぎは月に三度、日毎ひごと讀書どくしょし、四しょ・五きょうるい講讀こうどくした。弘化こうか二年に至り、名を學習院がくしゅういんと改めた。

【大意謹述】將來しょうらい華族かぞくは特に國民の指導者として、專門の學術を修める必要があるとちん機會きかいあるごとさとして來たが、諸氏がその趣意しゅいをよく了解し、力を合せて本校を設立したのは、開校式に臨む朕の滿足まんぞくする所である。かつ仁孝にんこう天皇は京都に學習院がくしゅういんといふ學問の研究所を建て、近臣きんしん及び一般の公卿く げの學力を進ましめられたことがあつた。朕は今囘こんかい、御祖先の遺志い しを受けぎ、華族の子弟を敎育する本校を同じく學習院と名づけることにした。汝等なんじらがこの趣旨しゅしを理解し、男女の兒童じどうを通學させ、勉强・豫習よしゅう・復習を怠らないならば、御先祖の過去に於ける立派な御功績を益々ますますひろめることが出來るであらう。

【備考】學習院がくしゅういんの由來について述べると、最初、明治九年、華族かぞく會館かいかん開館式かいかんしきが行はれた時、大臣代理として臨席した柳原やなぎはら前光さきみつが、有力者に向ひ、學校創立のことを勸奬かんしょうしたのである。その後、鍋島なべしま直彬なおあきら山內やまのうち豐誠とよよしらが之に賛成して、建築資金を提供したので、同年五月、設立のことに著手ちゃくしゅした。この事が天聽てんちょうに達すると、明治天皇におかせられては、その趣旨しゅしを喜ばれ、宮內卿くないきょう德大寺とくだいじ實則さねのりむねつたへて、明治十年から同二十四年迄、十五年間、毎年、內帑金ないどきんまん五千えんたまわ優諚ゆうじょうがあつた。それが竣成しゅんせいすると、天皇御親臨ごしんりんあおいだのである。

 當時とうじ皇后陛下また令旨れいしたまひ、きん五百えん御寄附ご き ふがあつた。その令旨れいしは、左の如くである。

 むか嵯峨さ がていの皇后、嘉祥かしょう年間、橘氏たちばなしのために、學館院がっかんいんを設け給ふ。われ菲德ひとくいえども、心に之をしたへり。今日こんにちしたし此校このこうに臨み、主上しゅじょう校號こうごうたまふをかしこみ、喜び思へり。今よりち生徒の昔にもまさりて、つとめ、まなばんことを望む。

 ついで學館院がっかんいんについて一ごんする。その創立の年月は、しつかり分明わ からぬが、場所は京都二じょうのあたり、大宮東方とうほうちょうのところにあつたとはれる。嵯峨さ が天皇の皇后橘嘉智子たちばなかちこが弟右大臣氏公うじきみと協議され、學舍がくしゃを開いて、橘氏の子弟をあつめ、經書けいしょを學ばしめ給うたのである。それは、平安時代の私立學校の一つで、文敎ぶんきょうの上に相當そうとう貢獻こうけんするところがあつた。