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49 故藤原不比等追賞ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

藤原ふじはら不比等ふ ひ と追賞ついしょう勅語ちょくご(明治十年二月十日)

【謹譯】なんじ不比等ふ ひ とちちつい皇室こうしつ功勞こうろうアリ、かつ律令りつりょう鑒修かんしゅうス。ちんこれ追感ついかんス。いま大和やまとこうスルニリ、使つかいつかわなんじおくつきちょうシ、かつ金幣きんぺいたまフ。せんス。

【字句謹解】◯不比等 持統じとう文武もんむ元明げんみょう元正げんしょうの四天皇に仕へた功臣こうしん、〔註一〕參照 ◯ 藤原ふじはら鎌足かまたりのこと、〔註二〕參照 ◯律令 りつは現在の刑法に相當そうとうし、りょうは政治上必要な各種の規定、この場合は文武もんむ天皇律令りつりょう改修を指す。忍壁おさかべ親王しんのう不比等ふ ひ ととが命を奉じてせんあたつた。不比等は又養老ようろう律令りつりょう撰定せんてい關係かんけいしてゐる。これらは有名な大寶たいほう律令りつりょうの基礎となつたもので、明治政府の官制かんせいは主として之にり、明治十八年の官制改革前迄ぜんまで役立つた。ゆえ不比等のこの方面のこうは、これらをすべて含めたものとも考へられる ◯鑒修 撰定せんていの監督の任にあたる。

〔註一〕不比等の閱歷 藤原ふじはら不比等ふ ひ と鎌足かまたりの第二子である。前述した通り持統じとう文武もんむ元明げんみょう元正げんしょうの四天皇に仕へ、和銅わどう元年には累進るいしんしてしょう二位右大臣となつた。養老ようろう二年には太政大臣だじょうだいじんに任ぜられたがして受けず、文武もんむ天皇の四年にみことのりを奉じて律令りつりょうせんした。養老四年に六十二歳でこうずると、元正げんしょう天皇は深く悼惜とうせきされ、めにちょうはいし、太政大臣正一位を贈り、文忠ぶんちゅうおくりなした。男子四人、武知麻呂む ち ま ろ房前ふささき宇合うまかい麻呂ま ろは皆當時とうじにあらはれ、女子のうち宮子媛みやこひめ文武もんむ天皇の左右に仕へ、光明子こうみょうし聖武しょうむ皇后こうごうとなつた。

〔註二〕鎌足の閱歷 鎌足かまたり天兒屋根命あめのこやねのみことけいを引き、中臣氏なかとみししょうした。中大兄皇子なかのおおえのおうじと協力して蘇我入鹿そがのいるかちゅうし、大化たいか改新かくしん畫策かくさくしたのは有名である。天智てんち天皇の二年十月に五十七歳でこうじた。大織冠たいしょっかん內大臣ないだいじん藤原朝臣ふじはらあそんの姓はこの時にたまはつたのである。れは大和やまと多武峯とうのみねほうむられ、後に談山たんざん神社じんじゃしょうして明治七年には別格べっかく官幣社かんぺいしゃとなつた。

【大意謹述】なんじ不比等ふ ひ と、汝の父の鎌足かまたりの後をおそひ、皇室に多くのこうを立て、更に律令りつりょう撰定せんていを監督して完成させた。ちんは常にその功勞こうろう追思ついししてゐたが、今囘こんかい大和地方に行幸ぎょうこうするに際し、使者を汝の墓につかわしてちょうし、金幣きんぺいを授ける。以上。

【備考】政治家には、二つのタイプがある。一つは才腕さいわんすぐれたもの、一つは德望とくぼうひいでたものであつて、不比等ふ ひ との場合は德望において、卓越たくえつしたと見るべきである。れは、鎌足の如き偉人を父に持つたが、始終、謙遜けんそんで、誇りがましいところが一つもない。それに、法制上にも功勞こうろうが多かつた。彼れが、明治天皇から勅語ちょくごたまわつたのは、まさ無上むじょう光榮こうえいとすべきである。