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43 文部省雇米國人「フルベツキ」ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

文部省もんぶしょうやとい米國べいこくじん「フルベツキ」ニくだたまヘル勅語ちょくご(明治四年十月五日)

【謹譯】なんじひさシク我邦わがくにリ、敎導きょうどうほうシ、生徒せいと訓導きょうどうス。ちんふかこれよみス。なんじ才學さいがく浩博こうはくニシテ薰陶くんとうこうそうシ、後進こうしんヲシテその成業せいぎょうすみやカナラシム。もっとも欣喜きんきスルところナリ。爾後じ ごますます勉勵べんれいシ、學術がくじゅつさかんニセンコトヲのぞム。

【字句謹解】◯フルベツキ Guido F.Verbeck,D.D.蘭人らんじんで我國が公然開國して以來の最初の來朝者らいちょうしゃ。〔註一〕參照 ◯敎導ヲ奉シ 敎師としての役目をほうじたこと ◯才學浩博 學才がひろく多方面にわたつてゐる。博學はくがく多才たさいの意 ◯薰陶 生徒をよく敎育・感化する ◯欣喜 よろこぶ ◯勉勵 學びはげむ、職務に努力すること。

〔註一〕フルベツキ れは一八三〇年(天保元年)にオランダのノゼリストに生れ、後にアメリカに渡り、アアブルン神學校しんがっこうより選ばれて安政あんせい六年來朝らいちょう肥前ひぜんの長崎にいた。以後、幕府の命で八年間、同地で敎育に從事じゅうじし、明治二年、大學南校にへいせられ、語學・學藝がくげいの敎師となり、六年まで在職、同年政府左院さいんに任用せられて翻譯ほんやく顧問こもんとなり、八年から十年までは元老院げんろういんに職を奉じた。明治維新前後に於ける氏の功勞こうろうは大きく、ナポレオン法典翻譯ほんやく紹介、二百年來のオランダに代つて、ドイツの醫者いしゃを採用するやうに進言したのも氏であつた。なほ米國人とあるのはアアブルン神學校から派遣されたからで、生國しょうこくは前述通りオランダである。

〔注意〕明治四年十月十五日には、我が維新前後に於ける外國人の功勞者こうろうしゃに多くの勅語ちょくごたまわつてゐる。文部省關係かんけいでは、

(一)『文部省雇獨逸人どいつじん「ミユルラ」及「ホフマン」ニ下シ給ヘル勅語』/(二)『文部省雇獨逸人「ホルツ」ニ下シ給ヘル勅語』

がある。工部省こうぶしょう關係かんけいでは「工部省雇英國人カアケル」及び「英國人ブラレトン」「佛人ふつじんウエルニイ及チボジイ」に各勅語ちょくごたまわつてその功勞こうろう嘉賞かしょうせられた。なほ、明治三年十月十五日には、

(三)『文部省雇和蘭おらんだい「ボオドイン」ヘ下シ給ヘル勅語』

がある。

【大意謹述】なんじフルベツキ、久しい以前に我國に來朝らいちょうして、敎師の地位に多數たすうの生徒に學術がくじゅつを敎へて、今もその方面に從事じゅうじしてゐる。これちんの深くよろこぶ所である。更に朕が滿足まんぞくに思ふのは、汝が博學はくがく多才たさいであり、申分もうしぶんなく敎師としての職務をつくして、同方面に進む者共ものども便宜べんぎあたへ、研究を早く完成させるやう指導したことである。朕は汝が今後も益々ますますこの方に努力し、我國の學術を日一日と盛大にしてかんことを望む次第である。

【備考】安政あんせい六年の夏から冬にかけて來朝らいちょうした最初の外人宣敎師中、敎育方面に功勞こうろうがあつたのは、フルベツキのほかに、ブラオン、ヘボン、ウイリアムスらの三人がある。フルベツキは、長崎府立の濟美館せいびかん佐賀藩設立の致遠館ちえんかんのために育英上いくえいじょう盡力じんりょくし、更に東京帝國大學の前身、開成所かいせいじょのためにも、少からぬ力を注いだ。れは日本へ來て以來日本語を學修がくしゅうし、靑年せいねんに英語を敎へた。と同時に、西洋の新しい學問をもつたへたのである。彼れについて學んだ名士には、大隈重信おおくましげのぶ副島種臣そえじまたねおみ後藤象二郞ごとうしょうじろうらの人々がある。彼れは三十九年間、日本にをり、卒去そっきょ前迄、日本のためにつくした。