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42-2 服制ヲ改ムルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

服制ふくせいあらたムルノ勅語ちょくご(第二段)(明治四年九月四日 岩倉公實記)

【謹譯】神州しんしゅうもっスルヤもとよひさシ。天子てんしみずかこれ元帥げんすいリ、衆庶しゅうしょもっ其風そのふうあおク。神武じんむ創業そうぎょう神功じんごう征韓せいかんごとキ、けっシテ今日こんにち風姿ふうしニアラス。あににち軟弱なんじゃくもっ天下てんかしめスヘケンヤ。ちんいま斷然だんぜんその服制ふくせいあらたメ、その風俗ふうぞくヲ一しんシ、祖宗そそう以來いらい尙武しょうぶ國體こくたいテントほっス。なんじ近臣きんしんちんたいセヨ。

【字句謹解】◯神州 神の國、日本のこと ◯元帥 軍の統帥者 ◯衆庶 多くの人々、國民全部のこと ◯風ヲ仰ク 下々しもじもの人々が地位や身分の上の人々の態度・行動を仰ぎ見て之を慕ひ模倣もほうする ◯神武創業 神武じんむ天皇中國ちゅうごくを平定して皇室の基礎を定められたこと、創業そうぎょう人皇じんのう第一代の天皇として卽位そくいあらせられたのを意味する ◯神功征韓 神功じんごう皇后こうごうの三かん征伐せいばつ、〔註一〕參照 ◯今日ノ風姿ニアラス 現在のやうな柔弱にゅうじゃくな衣服ではなかつた ◯斷然 事を決斷けつだんする形容 ◯祖宗 日本皇室の祖先の御方々おんかたがた ◯尙武 武事ぶ じたっとぶ ◯意を體セヨ 旨意し い・氣持を知つて實現じつげんして欲しい。

〔註一〕神功皇后の征韓 神功じんごう皇后こうごう仲哀ちゅうあい天皇の皇后で、三かんとは今の朝鮮ちょうせんのこと。正確にいへばこの場合は新羅しらぎ征伐せいばつであつた。皇后は崩御ほうぎょされた仲哀ちゅうあい天皇の後をけて、武内宿禰たけのうちのすくねし、いよいよ新羅しらぎを征して國威こくいを海外に示さうと決定された。橿日宮かしひのみやから松峽宮まつのおのみや(筑前朝倉郡)にうつり、つい層增岐野そ そ き の(朝倉郡安野村)をて、山門縣やまとあがた(筑後山門郡)で土賊どぞくたいらげ、北松浦縣きたまつらのあがた(肥前)橿日浦かしひのうらに至り、松浦灣まつうらわん出帆しゅっぽんして和珥津わにのつ(對馬)にちゃくし、堂々と新羅しらぎに向はれた。新羅しらぎおう波沙寐錦はさむきん皇軍こうぐんいきおいを見ただけでおそれて一戰もせずに降服し、毎年まいねん八十船の調貢ちょうこうおさめることを約し、高麗こ ま百濟くだらの二國もふうを聞いてたちまくだつた。「神功紀じんごうき」には三かん征伐せいばつ群臣ぐんしんはかられるくだりで、「しかれどもしばら男貌ますらおのすがたりて」云々うんぬんとあるから、男裝だんそうされてかれたことが判明する。

〔注意〕衣服の制を改め定める上については、代々の天皇關心かんしんを持たれたことが少くなかつた。次にその代表的な數例すうれいげる。

(一)服飾を制するのみことのり(天武天皇十三年閏四月、日本書紀)/(二)衣服の制を定むるの制(元明天皇和銅五年閏十二月、續日本紀)/(三)服飾を制するの詔(元明天皇靈龜元年九月、續日本紀)/(四)衣服を改むるの詔(聖武天皇天平二年四月、續日本紀)/(五)服色ふくしょくの制を改むるの制(嵯峨天皇弘仁元年九月、日本後紀)/(六)服飾を制するのみことのり(嵯峨天皇弘仁六年十月、日本後紀)/(七)服飾を制するの勅(仁明天皇承和九年五月、續日本後紀)

【大意謹述】日本はいにしえからを以て不服從者ふふくじゅうしゃ鎭定ちんていするのが例であつた。さうした日、天皇みずから全軍の統率者とうすいしゃとなり、一般國民はその態度・行動を仰ぎしたつて共にはげみ、勇敢な氣質きしつが全國にみなぎつてゐたのである。第一代の天皇として皇室のもといを確立なされた神武じんむ天皇や、女人にょにん御身おんみにもかかわらず、いさましく朝鮮ちょうせんを征服し、皇威こういを遠く海外にまで響かせた神功じんごう皇后こうごうの遠征時代は、決して今日こんにちちん周圍しゅういに見るやうな形式のみを重んじた姿で人々はゐなかつた。現在內外多事、活潑かっぱつに行動せねばならぬ時にあたり、柔弱にゅうじゃくな服裝でゐることは到底とうてい許されない、よって朕は意を決して長い間規定となつてゐた柔弱にゅうじゃくな服裝と斷然だんぜん絕緣ぜつえんし、新しく壯美そうびで勇敢な服に改め、過去の風俗をのこりなくへんじ、祖先以來たっとび重んじた日本の國風こくふうを基本として今後の事を規定したいと考へる。これこそ神代かみよ以來の固有の服裝にかえると共に、時勢にしたがつて變化へんかすべき風俗のしたがつた適切な仕業しわざであらう。汝等なんじら近臣きんしんは朕が今これを改める氣持を知り、すみやかに實行じっこうに移して欲しい。

【備考】『岩倉いわくらこう實記じっき』を見ると、この時の事について、「かみ侍從じじゅうみことのりし、平常洋式の服を用ふることを曉諭ぎょうゆたまふ」とあり、ぎに「翌壬申歳みずのえさるのとし五月、車駕しゃが西巡せいじゅんし給ふの時に於て、始めて新式の御軍服ごぐんぷく着御ちゃくぎょし、の九月七日に及んで、陸軍元帥げんすいの服制を定め、聖上せいじょう大元帥だいげんすいとなり給ふときの御服制ごふくせいまた之を設けらる。のちに十一月十二日に至り、文官ぶんかんならび有位者ゆういしゃ及び一般の禮服れいふくあらため、從前じゅうぜん衣冠いかんを以て、祭服さいふくと定めらる」とある。

 以上によると、服裝ふくそうの原則として、日本の傳統でんとうかえりみ、尙武しょうぶ精神せいしんを重んぜられたが、一方では、洋風の活潑かっぱつな服裝を軍事その他、必要な場合に採用せられたのであつた。すなわち時勢の新しい動きを參考して、適當てきとうに服裝のよろしきを制せられたものと拜察はいさつする。