40 故藤原藤房を追賞するの勅語 明治天皇(第百二十二代)

藤原ふじはら藤房ふじふさ追賞ついしょうするの勅語ちょくご明治元年九月二十二日 法令全書)

富元弘之年、效力皇室、至忠惻怛。千秋之下、使人景慕不止。近江國妙感寺汝之古跡。近接東巡之道、追感殊深。因爲慰汝之靈魂、遣使石山右兵衞權佐藤原基正、賜金幣。宜。

【謹譯】なんじ元弘げんこうとしあたり、ちから皇室こうしついたし、至忠しちゅう惻怛そくたんなり。千秋せんしゅうしもひとをして景慕けいぼまざらしむ。近江國おうみのくに妙感寺みょうかんじなんじ古跡こせきたり。ちか東巡とうじゅんみちせっし、追感ついかんことふかし。よっなんじ靈魂れいこんなぐさむるめに、石山いしやま右兵衞うひょうえ權佐ごんのすけ藤原ふじはら基正もとまさ遣使つかわし、金幣きんぺいたまふ。せんす。

【字句謹解】◯藤原藤房 元弘げんこうの時、後醍醐ごだいご天皇輔佐ほ さして建武けんぶ中興ちゅうこう大業たいぎょうを成就するにあずかつて力があつた人、〔註一〕參照 ◯元弘 後醍醐天皇時代の年號ねんごう皇紀こうき一九九一年にあたる。北條ほうじょう高時たかときの朝廷に反抗したので天下が一時みだれた ◯力を效す 力をつくす ◯惻怛 同情深きこと ◯千秋の下 千年ののちすなわち永久の時間を意味する ◯景慕 とくをしたふ ◯古跡 記念の場所、〔註二〕參照 ◯追感 過去の人の功績を思ひ出す ◯金幣 金色のぬさのこと。ぬさとは神に祈る時、又ははらいに用ひる。ただしこの場合はきんぷうを意味する。

〔註一〕藤原藤房 藤原ふじはら藤房ふじふさごん大納言だいなごん宣房のぶふさの子で、後醍醐ごだいご天皇に仕へてしょう二位中納言ちゅうなごんとなつた。元弘げんこう元年に北條ほうじょう高時たかときが京都を犯した際、ひそかに天皇笠置かさぎ行幸ぎょうこうさせたてまつり、遂に賊に捕へられて、常陸ひたちに流された。のち高時たかときほろび、建武けんぶ中興ちゅうこうになると、藤房ふじふさ歸京ききょうして、論功ろんこう行賞ぎょうしょうの調査を命ぜられたが、それが公平に行はれないため、諫言かんげんした。が、用ひられず、僧となつて遁世とんせいし、終るところを知らない。

〔註二〕古跡 近江國おうみのくににある妙感寺みょうかんじは普通妙心寺みょうしんじといはれ、藤房ふじふさはそこで遁世後とんせいご餘生よせいを送つた場所としょうせられる。ところが、『大日本史だいにほんし』は調査の結果により、それを否定した。現在ではぼそれが定說となつてゐる。

【大意謹述】なんじ藤房ふじふさよ汝は元弘げんこうらんあたり、後醍醐ごだいご天皇のために全力をつくした、汝はこの上もない忠臣ちゅうしんで、武門ぶもん跋扈ばっこの時勢を悲しみ、深く皇室の衰へたことに同情した。今、千年後の今日こんにちも、その忠誠ちゅうせいを慕ふ者はすこぶる多い。ちん近江國おうみのくに妙感寺みょうかんじに汝が遁世後とんせいご長く住んでゐたと聞いてゐる。妙感寺は今囘こんかい東行とうこうの道のかたわらにある、よって汝の忠義ちゅうぎが特に深く朕の心にしみて忘れられない。それで朕は地下に眠る汝のれいなぐさめるため、石山いしやま右兵衞うひょうえ權佐ごんのすけ藤原ふじはら基正もとまさつかわし、金幣きんぺい下賜か しすることにした。以上は追賞ついしょうあたつての朕の所感しょかんである。

【備考】藤原ふじはら藤房ふじふさの如く、忠實ちゅうじつ淸廉せいれん硬直こうちょくで、しかも時勢を看取かんしゅし、善謀ぜんぼうにも長じた人物は、古今を通じて、極めて少い。ただれの遁世とんせいといふことは、あまりに正直すぎ、潔癖けっぺきすぎはしなかつたかと思はれる。建武けんぶ中興ちゅうこう偉業いぎょうについては、最初から後醍醐ごだいご天皇のために忠義をつくし、いろいろの艱難かんなんて、その偉業いぎょうなかば成つたのである。

 茲迄ここまで來た以上、たとへ、その諫言かんげんを用ひられずとも、最後迄踏み留つて、忠義をつくすのが、一番に有終ゆうしゅう所以ゆえんだつた。が、れの正直と潔癖とは、そこ迄、ゆかずにしまつたのは、惜しい氣がする。勿論かうふのは、れにたいして無理かも知れない。

 以上の如き遺憾いかんはあるが、忠臣として、まさに模範的人物の一人であつた。れが妙感寺みょうかんじにゐたのは、たんなる傳說でんせつであらうとも、左樣そ うした美しい傳說でんせつについて眞僞しんぎを議するには及ばない。それは、後人こうじん感奮かんぷんせしめる一つの意義ある名所ともなるからだ。明治天皇思召おぼしめしまたここにあつたのではなからうかと拜察はいさつする。