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39-1 御注孝經を行ふの制 淸和天皇(第五十六代)

御注ぎょちゅう孝經こうきょうおこなふのせい(第一段)(貞觀二年十月 三代實錄)

哲王之訓以孝爲基。夫子之言窮性盡理、卽知一卷孝經十八篇章、六籍之根源百王之模範也。然此間學令、孔鄭二注爲敎授正業。厥其學徒相沿、盛行於世者、安國之注、劉炫之義也。

【謹譯】哲王てつおうおしえは、こうもっもととなし、夫子ふうしげんは、せいきわつくす。すなわる、一かん孝經こうきょう、十八ぺんしょうは、六籍りくせき根源こんげん、百おう模範もはんなりと。しかるにあいだ學令がくりょうに、こうじょうの二ちゅう正業せいぎょう敎授きょうじゅすとなす。學徒がくとあい沿ひ、さかんにおこなはるるは、安國あんこくちゅう劉炫りゅうげんなり。

【字句謹解】◯哲王 賢明な君主の意 ◯夫子 こう夫子ふうしの意で、孔子こうしのことを言つたもの ◯性を窮め理を盡す これは『易經えききょう』の卦傳かでんに「きわせいつくし、めいいたる」とあるのを指した ◯孝經 孔子こうし曾子そうしとがこうを論じたものを門弟もんていが筆記した書物で、一卷本かんぼん ◯十八篇の章 『孝經こうきょう』は十八篇に分かれてゐるからかう言つた ◯六籍の根源 六籍りくせきは聖人の記した尊い六書の事で、六經りくけいともいふ。詩經しきょう書經しょきょう易經えききょう春秋しゅんじゅう禮記らいき樂器がっきを指すが、最後のものは現存してゐない。根源はそのおしえの根本となるもの ◯百王の模範 代々の帝王の道德・政治上の手本 ◯孔鄭の二注 孔安國こうあんこくが行つた孝經こうきょうちゅうと、鄭玄じょうげんの行つた同書のちゅう。この兩人は共にかん時代の有名な儒者じゅしゃ ◯劉炫 ずいの時代におうしょうより孔傳こうでん孝經こうきょうを得て之をこうし、義疏ぎ そを作りし人。

【大意謹述】いにしえの賢明な帝王が後世にあたへた敎訓には、必ず人間のすべての道德の中心として孝行こうこうが說かれてり、聖人孔子こうしも、人間の本性ほんせい發達はったつさせ、あらゆる道理の根本となるものはこうだとし、いろいろ言葉をつくして敎へてゐる。かうしたてんから考へると、こうの問題を專門として取扱つた『孝經こうきょう』一卷十八篇は、各章句しょうくごとに無限の價値か ちを持ち、いにしえから六經りくけいとして尊ばれてゐる聖人の記した六書りくしょの內容の根本となり、代々の帝王が例外なくこの書物うちに道德上の理想を求めたといつても過言ではない。したがつてこの『孝經こうきょう』には註解書ちゅうかいしょも少くない。先日ちんが學問にかんしたれいを見ると、『孝經こうきょう』をおおやけ敎授きょうじゅする場合には、孔安國こうあんこう及び鄭玄じょうげんちゅうした書を使用するやうにと書いてある。そして學徒がくとの間に現今盛んに用ゐられてゐるのは、孔安國こうあんこうちゅう、及び劉炫りゅうげん義疏ぎ そである。

【備考】日本精神の重要素は、忠孝ちゅうこうぽんにある、忠孝ちゅうこう不岐ふ きにある。支那し なでは、ちゅうを說かぬではないが、より多く、こうとうとぶことは、すでに述べた通りである。『孝經こうきょう』は孔子こうしが述べ、門下もんか曾子そうしがこれを記述したものとされてゐるが、要するに、それは假託かたくで、これを記述したものは、曾子そうしの門下であつて、述べたものは曾子そうしでなかつたと思ふ。無論、曾子そうしは之を孔子こうしに聞き、敎へられたところをつたへたのであらうと考へる。

 孝經こうきょうには、今文きんぶん古文こぶんの二種がある。今文きんぶん漢代かんだい長孫氏ちょうそんし江翁こうおう后蒼こうそう張禹ちょううらが之をつたへた。この經文けいぶんは十八章から成つてゐる。それはもと顏氏がんし所藏しょぞうで、間獻かんけんおうが之を得たのである。そして之を十八章にまとめたのは劉向りゅうこうだといはれる。前述の長孫氏ちょうそんし以下のちゅうは、つたはらぬが、鄭玄じょうげんちゅうなるものがつたはつてゐる。けれども鄭志じょうし鄭玄じょうげんの門下がその師の著述ちょじゅつ追論ついろんしたもの―及びその目錄もくろくによると、鄭玄じょうげんは、『孝經こうきょう』にちゅうしなかつたとされてをり、それが眞實しんじつにちかいとはれる。

 古文は『漢書かんじょ藝文志げいもんし』に「孝經こうきょう古孔氏ここうし一篇二十二章」とあるのが、それだ。この書は孔氏こうし壁中へきちゅうから出たもので、今文きんぶん對照たいしょうすると、四百餘字よ じちがつたところがある。劉炫りゅうげんの時に至つて、庶人章しょじんしょうわかつて二とし、曾子そうし敢問章かんもんしょうわかつて三とし、更に閨門章けいもんしょうを加へて、二十二章とした。註者ちゅうしゃ孔安國こうあんこくだといはれるが、事實じじつ假託かたくであつて、眞實しんじつでないとされてゐる。

 以上、古文こぶん今文きんぶんならび行はれて、唐代とうだいに至つた。玄宗げんそう開元かいげん七年群儒ぐんじゅをあつめて、右の二者につき、論議せしめた。その時、古文家こぶんか劉知畿りゅうちき鄭注じょうちゅうを非難し、劉炫りゅうげん所校しょこう孔安國こうあんこくちゅう正當せいとうだとしたが、それにたいして今文家きんぶんか司馬し ばていは、孔安國こうあんこくちゅう僞作ぎさくだとしてしりぞけ、鄭玄じょうげんちゅうを可とした。この論爭ろんそうは、中々なかなか激烈で、兩人ともあいくだらなかつた。よっ玄宗げんそうは、みことのりを下して、じょうこうちゅうならび行はせる事とした。(開元十年の事は後に述べる)さて『孝經こうきょう』が日本につたはつたのは何年頃か、判明しない。天平てんぴょう寶字ほうじ元年、みことのりして戸毎こごとに『孝經こうきょう』一本をぞうせしめ、天長てんちょう十年、皇太子讀書始どくしょはじめにこれを進めたことが史上に見える。爾來じらい讀書始どくしょはじめには、必ず『孝經こうきょう』を進講しんこうしたのであつた。それから天皇讀書始どくしょはじめに『孝經こうきょう』を進めたのは、この勅書ちょくしょにある如く貞觀じょうがん二年のことである。