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34-1 朝堂禮法の制 嵯峨天皇(第五十二代)

朝堂ちょうどう禮法れいほうせい(第一段)(弘仁十年六月 日本紀略

諸司於朝堂見親王大臣、以磬折代跪伏、以起立代動座。太政官少辨已上初就位者、外記左右史以下皆起。若大辨一人先就位者、見後來大辨已下不起。中辨已下先就位者、見後來大辨卽起。

【謹譯】諸司しょし朝堂ちょうどういて、親王しんのう大臣おとどまみゆるには、磬折けいせつもっ跪伏きふくへ、起立きりつもっ動座どうざふ。太政官だじょうかん少辨しょうべん已上いじょうはじめてくらいもの外記げ き左右史さゆうのふびと已下い かみなつ。大辨だいべんにんさきくらいものごとき、後來こうらい大辨だいべん已下い かればたず。中辨ちゅうべん已下い かさきくらいものは、後來こうらい大辨だいべんればすなわつ。

【字句謹解】◯諸司 一般の諸役人を指す ◯朝堂 天子が國政こくせいを執られる場所 ◯磬折 けいは石で折れ曲つた矩形ますがたにかけて打ち鳴らす樂器がっきのこと、そのやうに腰を前方に折りまげて致すれい磬折けいせつといふ ◯跪伏 兩足を折り、手を地に垂れて致す禮法れいほう ◯動座 我が坐席ざせきを少し下方にさげること ◯外記 國訓こっくんは「とのしるすつかさ」である。太政官だじょうかん主典さかんで、詔勅しょうちょく及び奏文そうもん、又は一切の公文書こうぶんしょのことをつかさどつた。大外記だいげきしょうじょう少外記しょうげきじゅ七位じょうで共に二にん。この配下に史生しせい十人、使部つかいべ四十三人があつた ◯大辨 べんとは太政官判事はんじのことで、大・中・少に區別くべつされた。詳しくは〔註一〕參照 ◯位に就く の人のにつく事。

〔註一〕大辨 べんの各自の位は、大辨だいべんじゅ四位じょうで左右各一にん中辨ちゅうべんしょう五位じょう(後に四位)で左右各一人、少辨しょうべんしょう五位で左右各一人で、八しょうの事務を分掌ぶんしょうし、庶事しょじしもつたへた。國訓こっくん大辨だいべんは「おほともひ」、中辨ちゅうべんは「なかのともひ」、少辨しょうべんは「すないともひ」である。

〔注意〕この制の前後に於て朝禮ちょうれいかんしたみことのりには、次の如きものがある。

(一)拜禮はいれいの制を定むるのみことのり(天武天皇八年正月、日本書紀)/(二)京城けいじょう諸司しょし非禮ひれい嚴禁げんきんするの詔(文武天皇慶雲三年三月、續日本紀)/(三)禮儀れいぎ嚴肅げんしゅくにするの詔(元明天皇慶雲四年十二月、續日本紀)/(四)れいを習はしむるの勅(嵯峨天皇弘仁九年正月、類聚國史)

【大意謹述】天子が親しく國政こくせいを執らるる場所で、諸省の人々が親王しんのう・又は大臣おとどに面接した時には、今までの兩膝りょうひざを曲げ手を地に垂れる跪伏きふくれいめて、身體しんたい上半身かみはんしんを前方に曲げる磬折けいせつれいを行ふ。同時にを動く必要はなく、その場所で起立すればよろしい。太政官だじょうかん少辨しょうべん以上が任命されたばかりで役所にれば、外記げ き及び左右の史官しかん以下は全部起立する。大辨だいべん古參者こさんしゃは新任の大辨だいべん以下を見ても起つ必要はない。中辨ちゅうべん以下は如何い かに古くから位にあつても、新任の大辨だいべんを見れば起立しなければならない。

【備考】弘仁こうにん時代は、支那し な文學ぶんがくが最も盛んな際で、文人ぶんじん詞客しかくの優れたものが輩出はいしゅつした。同時に、支那文化の香氣こうきなり强く放散された時代で、朝禮ちょうれいの如きも、支那とう制を採用されたのである。ここに述べられてゐる禮法れいほうの如きも、とうかたによられたのであつて、禮儀れいぎを整頓する上から、かく命ぜられたものと拜察はいさつする。