32 夷俘を訓導するの勅 嵯峨天皇(第五十二代)

夷俘い ふ訓導くんどうするのみことのり(弘仁七年八月 類聚國史)

夷俘之性異於平民。雖從皇化野心尙存。是以先仰諸國令加敎喩。今因幡伯耆兩國俘囚等、任情入京越訴小事。此則國吏等撫慰失方、判斷乖理之所致也。自今以後篤加訓導、有如此者專當國司准狀科處。

【謹譯】夷俘い ふせい平民へいみんことなる。皇化こうかしたがふといえども、野心やしんそんす。れをもって、さき諸國しょこくおおせて敎喩きょうゆくわへしむ。いま因幡いなば伯耆ほうき兩國りょうこく俘囚ふしゅうじょうまかせて入京にゅうきょうし、小事しょうじ越訴えっそす。すなわ國吏こくり撫慰ぶ いほううしなひ、判斷はんだんそむくのいたところなり。自今じこん以後い ごあつ訓導くんどうくわへよ。かくごときのものあらば、もっぱとう國司こくしじょうじゅんじて科處かしょせん。

【字句謹解】◯夷俘 各地方の未開人が皇軍こうぐんあらそつて敗れた結果、捕虜となつた者で、多く奴隷として使用した。〔注意〕參照 ◯平民 庶民の意 ◯皇化に從ふ 皇室の感化かんかに服し、服從ふくじゅうを誓ふ ◯野心 未開・野蠻やばんな風俗を脫せず侵略を思ひ切れない心 ◯先に諸國に仰せて敎喩を加へしむ これはこのちょくから三年以前の弘仁こうにん四年十一月に下された「夷俘い ふ敎喩きょうゆせしむるのちょく」を指す。〔註一〕參照 ◯敎喩を加ふ 敎へさとして申し分を聞かせる ◯情に任せて入京し 國司こくしあまりに寬大かんだいに支配したので、つげ上つて不平をならべるため京師けいしにやつて來た ◯越訴す 一定の順を飛びこえて訴へる ◯撫慰 なぐさめ方 ◯方を失ひ 正當せいとうを失すること ◯判斷 處理しょりの方法 ◯理に乖く 道理にそむく ◯自今以後 今日こんにち以後、このことがあつて以後はの意 ◯訓導 よく道を說き聞かせる ◯狀に准じて 事件におうじて ◯科處せん 處罰しょばつする。

〔註一〕夷俘に賜つた勅 全文を次に示す。「夷俘い ふせい、平民にことなる。朝化ちょうかしたがふといえども、いまだ野心を忘れず。これを以て諸國司こくしれいし、つとめて敎喩きょうゆを加ふ。しか朝旨ちょうしそむき、存恤そんじゅつを事とせず。彼等のぶる所、日をあらず、うれいを含みうらみを積み、つい叛逆はんぎゃくを致す。よろしく播磨介はりまのすけじゅ五位高階たかしな眞人仲まひとなか備中守びっちゅうのかみ從五位じょう大中臣おおなかとみ朝臣あそん智治麻呂ともはるまろ筑前ちくぜんのすけしょう六位榮井王さかいおう筑後ちくごのかみ從五位下弟村王おとむらおう肥前ひぜんのすけ正六位上朝臣きのあそん三中みなか肥後守ひごのかみ從五位上大枝おおえだ朝臣あそん永山ながやま豐前介ぶぜんのすけ從五位下賀茂縣主かもあがたぬし立長たつながれいし、厚く敎喩きょうゆを加へ、のぶる所の事、早くともあずか處分しょぶんすべし。の事すでに重くたやすく決すべからざる者は、言上ごんじょうしてさばきけ。撫慰ぶ いほうそむいて、叛逆はんぎゃくを致さしめ、及びきょうりて越訴えっそせしむる者は、專當せんとう人等ひとらじょうおうじて罪をせん、ただこれるを得ざれば、百姓ひゃくせいふくせしむ」(類聚國史、弘仁四年十一月)

〔注意〕夷俘い ふとは前記の通り、戰爭せんそうつて捕虜とした奴隷及びその子孫で、それを取扱ふ國司こくしの態度如何いかん從順じゅうじゅんにもなれば、又、〔註一〕に引用したやうに叛亂はんらんはかつた。朝廷では叛亂者はんらんしゃを重く罰すると共に國司こくしにも罪ありとして之を處分しょぶんし、從順じゅうじゅんな者は種々しゅじゅの方法で訓導くんどうしたり、姓名をあたへたり、防人さきもりとしたりした。次には今謹解きんかいする以外に夷俘い ふかんした勅書ちょくしょの代表的なものを左にげる。この中には內容におうじて、『政治經濟けいざい篇』その他で謹述きんじゅつするものもあらう。

(一)夷俘い ふ撫恤ぶじゅつするのみことのり(桓武天皇延曆十七年六月、類聚國史)/(二)夷俘を敎喩きょうゆせしむるの勅(桓武天皇延曆十九年、類聚國史)/(三)夷俘をうつして防人さきもりとなすの勅(平城天皇大同元年十月、類聚國史)/(四)夷俘の田租でんそおさむるの勅(嵯峨天皇弘仁二年十月、類聚國史)/(五)夷俘を敎喩せしむるの勅(嵯峨天皇弘仁四年十一月、類聚國史)/(六)夷俘をして姓名をしょうせしむるの勅(嵯峨天皇弘仁四年十一月、類聚國史)/(七)夷俘をやすんずるの勅(淸和天皇貞觀十一年十二月、三代實錄)

【大意謹述】戰爭せんそうの結果捕虜となり、賤民せんみんとなつた者の性質は、一般の平民とことなり、表面、朝廷の威武い ぶに服してゐても、心の底には長い間に養はれた、未開な、猛烈な氣持や侵略を好む心が失はれてはゐない。ちんはこのゆえ屢々しばしば以前から諸國の國司こくしに、出來る限り、彼等を善導ぜんどうするやうにと命じて置いたのである。しかるに今囘こんかい因幡いなば伯耆ほうき兩國りょうごく夷俘い ふは、國司こくしの制止を聞かずに京師けいしり込み、一定の順序をふまないで、自分等の境遇はあまりに苦しいとうったへて出た。勿論、これは政治上、小さい事件とはいへ、平常から國司こくし訓導くんどうとうを得ず、裁判などにあたつて正しい態度で接しないのが原因であるに相違そういない。今日こんにち以後は、特に道理を說き聞かせ、善導することに熱心とならなくてはいけない。しこのたぐいの者が今後輩出はいしゅつしたならば、夷俘い ふを罪するのは勿論として、時には事件におうじてその國の國司こくしにまでも罪を及ぼすこともあらう。

【備考】當時とうじ、東北から北海ほっかいにかけて跋扈ばっこし、跳梁とうりょうする蝦夷え ぞ種族を平定することが、なりに重要な軍事の一つであつたが、他方、文化政策として、降服した蝦夷種族をいかに手なづけるかが中々、骨の折れる、大切な問題であつた。

 何分なにぶん、彼等は猛烈で、野蠻力やばんりょくに富んでをり、侵略の野心さへいだいたから、中々これを手なづけるわけにゆき難い。桓武かんむ天皇の時代には、降服した蝦夷種族をすつかりちゅうしたことがある。『日本政記せいき』に「二十一年(延曆)春、田村(坂上田村麻呂)を遣はして膽澤いさわきずき、東國とうごく浮浪ふろう四千人を配して、これをまもらしむ。夷酋いしゅう大墓公おおはかこう盤具は ぐこうしゅう五百を率ゐて、きたくだる。田村、二しゅうかえり、そうすらく、『よろしく放還ほうかんして黨類とうるいまねかしむべし』と。朝議ちょうぎおもへらく、虜性りょせい反覆はんぷくつねなし、虎を養ひてわざわいのこす如し。之をちゅうするにかずと、ちょくして河內にらしむ」とある。