17 百僚を勸勵するの詔 元正天皇(第四十四代)

百僚ひゃくりょう勸勵かんれいするのみことのり(養老六年正月 續日本紀

文人武士國家所重、醫卜方術古今斯崇。宜擢於百僚之內、優遊於學業、堪爲師範者、特加賞賜、勸勵後生。

【謹譯】文人ぶんじん武士ぶ し國家こっかおもんずところ醫卜いぼく方術ほうじゅつ古今ここんこれたっとぶ。よろしく百りょううち學業がくぎょう優遊ゆうゆうし、師範しはんたるにふるものげて、とく賞賜しょうしくわへ、後生こうせいつとはげますべし。

【字句謹解】◯醫卜 醫者いしゃ卜筮家ぼくぜいか卜筮家ぼくぜいか陰陽いんようの原理から天地宇宙人事じんじの百ぱん豫斷よだんするもの ◯方術 種々の技術 ◯優遊 しずかにたのしみつつ研究をつづける ◯師範 師として人の模範となり、人を導くことが出來る者 ◯特に賞賜を加へ 特別に褒美ほうびたまはる。〔註一〕參照 ◯勸め勵す 人々の心をはげま學術がくじゅつ從事じゅうじさせる。

〔註一〕賞賜 『日本紀しょくにほんぎまき八、元正げんしょう天皇養老ようろう五年正月二十七日のくだりしたがへば、この時、師範しはん價値か ちを認められた人及びその賞賜しょうしは左の如くであつた。

(イ)明經めいけい第一の博士じゅじょう鍛冶造かじのみやつこ大隅おおすみしょう六位越智直おちのあたえ廣江ひろえに各あしぎぬ二十ぴきいと二十あやぬの三十たんくわ二十ふり。(ロ)第二の博士正七位上背奈公せなのきみ行文ゆきぶみ調忌寸つきのいみき古麻呂こまろ、從七位額田首ぬかたのおびと千足ちたる明法めいほう正六位上箭集宿禰やつめのすくね蟲麻呂むしまろ、從七位鹽屋連しおやのむらじ古麻呂こまろ文章もんじょう從五位山田史やまだのふびと御方みかた、從五位朝臣きのあそん淸人きよひと下毛野朝臣しもずけのあそん忠麻呂ただまろ正六位下樂浪河內さざなみのかわちには、各あしぎぬ十五ひきぬの三十たんくわ二十ふり。(ハ)算術さんじゅつ正六位上山口忌寸やまぐちのいみき田主たぬし悉斐連いいのむらじ三田次みたすき正八位下私部首きさいべのおびと石村いわむら陰陽おんよう從五位上大津連おおつむらじおびと、從五位下津守連つもりのむらじ通王とおるこにきし仲文なかぶみ角兄麻呂つぬのあにまろ正六位余秦勝あぐりのはたかつ志我閇連しがのべのむらじ阿彌陁あみだ醫術いじゅつ從五位上吉宜きしよろし、從五位下呉肅胡明くれしゅくこめい、從六位下秦朝元はたのあさもと太羊たいよう甲許母ここも解工かいこう正六位上上惠我宿禰えかのすくね國成くになり河內忌寸かわちいみき人足ひとたり竪部使主たてべのおみ石前いわさき正六位下賈受君かずのきみ正七位下胷形朝臣むなかたあそん赤麻呂あかまろには、各あしぎぬぴきいとあやくわ二十ふり。(ニ)和琴師なやごとし正七位下文忌寸ぶんいみき廣田ひろた唱歌師しょうかし正七位下大窪史おおくぼふびと五百足いおたり正八位下記多きた眞玉またま、從六位下螺江にしえの夜氣女やけめ茨田連まんだむらじ刀自女とじじょ正七位下置始連おいそめむらじ志祁女しきじょには、各あしぎぬぴきいとあやぬのたんくわふり。(ホ)武藝ぶげい正七位下佐伯宿禰さいぎのすくね武麻呂たけまろ、從七位下凡海連おしぬみのむらじ興志おさし板安忌寸いたやすいみき犬養いぬかい正八位下置始連おいそめむらじ首麻呂おびとまろには、各あしぎぬぴきいとあやぬの二十たんくわ二十ふり

【大意謹述】國家は文官ぶんかん武官ぶかん忠實ちゅうじつな人々の價値か ちを認めて重要視するが、醫者いしゃ卜筮家ぼくぜいか又はいろいろの技術を研究する人々も決して輕々かるがるしく取扱つてはならないことを知つてゐる。昔から今までこの方面の者をとうとび、相當そうとうな地位をあたへたのが最も良い證據しょうこであらう。今囘こんかいこの意を更に徹底するために、群臣ぐんしん中で一般の人々よりも學業がくぎょうすぐれ、人の師となつて學術をつたへるのに十分な人々を拔擢ばってきし、特別に褒美ほうびあたへることにした。無論、ちんの意はれにつてこの者共が一層專門の道に深く志すと共に、後の世の學術研究者をはげまさしめたいてんにある。

【備考】學術がくじゅつ振興しんこう詔勅しょうちょくはいするにつけて、當時とうじ學界がっかいを振返つて見ると、文武もんむ天皇の頃から、日本の學問は、おもむろに發達はったつの一路を辿たどつてゐた。中にも、數學すうがくは一番早く進んだらしい。それに關係かんけいある天文・曆數れきすうの方面に於ても相當そうとう、見るべき成績をあげてゐたらしい。醫業いぎょうもそれらに次いで進み、醫官いかんのほかに、女醫じょい藥園生やくえんせいらが、大寶たいほう年間には、存在した。また陰陽寮おんようりょうにおいて、江戸時代の「ときかね」の如く、標準時を一般に知らせる設備もあつた。

 かうした時代にあたり、學術振興のちょくを下されたのは、日本文化の進歩を希望せらるる深い思召おぼしめしからであらうと拜察はいさつする。當時とうじ學問優秀のゆえに、朝廷から賞賜しょうしがあつた人々は、おおいに感激して、一層、その道にいそしんだ事と思はれる。支那し なでは、政治、道德の學問のみを重んずる傾きが强くて、化學を輕視したが、日本では、左樣そ うしたかたよつた取扱ひをせず、すべて一ように學問を尊重した。この勅語ちょくごの中にも、技術方面に長じた學者をも認めてをられる。支那では、このてんにおいて、偏倚へんきしたところがあつて、卜筮ぼくぜい方伎ほうぎなどは、輕く扱ひ、儒者じゅしゃの如きは、卜筮ぼくぜいなどを異端視いたんしした。ここに日本と支那との間に學術の見方・取扱方とりあつかいかた相違そういが見える。