3-5 遺詔 雄略天皇(第二十一代)

遺詔いしょう(第五段)(二十三年 日本書紀

今星川王、心懷悖惡、行闕友于。古人有言、知臣莫若君、知子莫若父。縱使星川得志、共治家國、必當戮辱遍於臣連、酷毒流於民庶。

【謹譯】いま星川王ほしかわのみここころ悖惡ぼつあくいだいて、おこない友于ゆううけたり。古人こじんへることあり、しんることはきみくはなし、ることはおやくはなしと。縱使たとえ星川ほしかわこころざして、とも家國かこくおさむるも、かならまさ戮辱りくじょくおみむらじあまねく、酷毒こくどく民庶みんしょほどこしなむ。

【字句謹解】◯星川王 雄略ゆうりゃく天皇皇子おうじで、淸寧朝せいねいちょう謀叛ぼうはんし、ちゅうふくした人。詳しくは〔註一〕參照 ◯悖惡 道德にそむいた惡いこころざし。ここでは皇位うかがふこと ◯友于 和訓わくんは「このかみおとひと」。兄弟の義を指す。書經しょきょうに「兄弟きょうだい」とあり、兄君あにぎみ弟君おとうとぎみとのいつくしみを意味す ◯臣を知ることは君に若くはなし云々 このことばは『管子かんし』の大棄だいきへん、『左傳さでん』の昭公しょうこう十一年のじょうなどに見える ◯戮辱 人の道と合致しないづべき事 ◯酷毒 國民を苦しめる政治。

〔註一〕星川王 星川王ほしかわのみこ雄略ゆうりゃく天皇皇子おうじで、生母は吉備稚媛きびのわかひめである。吉備稚稚媛はかつ吉備田狹きびのたさの妻であつたが、雄略天皇七年に天皇これちょうしたので、田狹た さはそれを怒り、謀叛ぼうはんしてちゅうせられた。この關係かんけいがある上に星川王の性質が執拗しつようで荒々しいところから遺詔いしょう中に特に星川王に言及された。果してその御言おことばの通り母と共に大藏省おおくらしょうを占取し自由に官物かんぶつついやしてその徒黨ととうを集め皇室にはんした。結局大伴室屋おおともむろやに殺されたことが『淸寧紀せいねいき』にある。それは天皇崩御ほうぎょの年のことであつた。

【大意謹述】現在星川王ほしかわのみこの樣子をるのに、どうしても皇子おうじを除いて皇位うかがつてゐるやうにしか思へない。たみすべてを最もよく知るのはきみであり、ちち以上にを知る者はないと支那し な古人こじんいてゐる。ちん君臣くんしんの義からは一くん萬民ばんみんの意味にしたがつて星川王きみであり、父子ふ しの情から考へれば正當せいとうな父の地位にあるので、朕程その心中を見通す者はないのである。まん一、星川王ののぞみが達せられ皇位いたとしても、元々不德な星川王ほしかわのみこにそれだけの力がある筈はなく、惡德あくとく臣下しんかのすべてに及び、國民を苦しめる政治をほどこすに相違そういない。さうなると朕ののぞみと全く反對はんたいな世となつてしまふ。これを知りつつやすんじて世を去ることが出來ようか。

【備考】雄略ゆうりゃく天皇は、星川王ほしかわのみこたいして、あまい感じをいだかれなかつたが、父としての思ひやりから、大伴室屋おおとものむろや東漢やまとのあやのつかの二人にあやまりなきやうにと言葉を添へて託せられた。けれども星川王は、その母君の言葉に動かされ、到頭とうとうはんを計るに至つたのである。

 天皇東宮とうぐうとされた白髪皇子しらがのみこは、葛城韓媛かつらぎのからひめ所出しょしゅつで、早くから臣民しんみんたいして仁慈じんじ振舞ふるまいがあり、すこぶ將來しょうらいのぞみしょくせられたのであつた。