1 殉死を止むるの詔 垂仁天皇(第十一代)

殉死じゅんしとどむるのみことのり(二十八年十一月 日本書紀

夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後議之止殉。

【謹譯】きたりしとき、めぐみしところもっ亡者なきひとしたがはしむるは、はなはいたきわざなり。いにしえふりいえども、からずばなんしたがはむ。自今じこん以後い ごはかりてしたがはしむることをとどめよ。

【字句謹解】◯亡者 死者と同じ、現在この世に生をけてゐない者 ◯傷なり 無慈悲な仕業しわざ ◯古の風 古來からの習慣 ◯殉はしむる 殉死じゅんしせしむる、殉死とは貴人きじんの死にあたつて、近習きんじゅうの者が死後に奉仕するために、墓地の周圍しゅういに生きながら埋められること、じゅんとは身を以てしたがふ意。〔註一〕參照。

〔註一〕殉はしむる 我が國では殉死じゅんしふうがいつごろ始まつたのか判明しない。ここに「いにしえふり」とあり、『日本紀しょくにほんぎ』のかん三十一にも同樣どうように記してあるのを見れば、少くとも、垂仁すいにん天皇御代み よ以前からの風習だつたことが分らう。このみことのりみかど同母弟どうぼてい倭彥命やまとひこのみことこうぜられた時、近習きんじゅうのものが殉死したのをあわれんではっせられたのであるが、同三十二年に皇后日葉酢媛ひはすひめこうぜられた際には、野見宿禰のみのすくねの意見を用ひ、土人形つちにんぎょうを造つて、御墓おはかそばに埋め、これを後世の例とされた。

【大意謹述】平生へいぜい、生存中に恩愛おんあいを加へてゐた者を如何い か殉死じゅんしの風習によるとはへ、死者のそばに埋めて生きながら殺すのは大變たいへん殘酷ざんこくだ。ちんの心はこれがために悲傷い たむのである。それはいにしえからの習慣であるとはいへ、一度ひとたび良くない事と知れば、直ぐ改めたとてなにはばかることがあらう。ゆえにこの時にあたつて、斷然だんぜんかうした惡風あくふう廢止はいしし、今後はく多くの人々を共に死なせることを固く禁じなければならない。

【備考】殉死じゅんしはその主人の死にじゅんずるものが、靈魂れいこん不滅ふめつを信ずるところから生じたものと思はれる。すなわち主人の死後も、冥府めいふにおいて生前と同樣どうよう、これに奉仕することが出來るといふ信念の上に動機をはっしてゐる。このてんからすれば、殉死は、精神せいしんの上で、美しいところを持つてゐる。が、この風習のために、多く有爲ゆうい臣下しんか續々ぞくぞく、殉死するとなると、いきおひ死を奬勵しょうれいするが如き結果におちいるばかりでなく、時には政務せいむその他にも差支へが出來てくる場合が多い。それに、臣下のものが、生きながら、亡き主人の側に埋められるのは、いかにも、殘酷ざんこくで、たとへ動機が純であり、當人とうにんも決心してゐるとはひながら、人情上、見るに忍びない。

 左樣そ うした理由により、垂仁すいにん天皇は、これを禁ぜられたのであらうと拜察はいさつする。その仁慈じんじ思召おぼしめしは、有難いことである。しかし殉死は、事實じじつ、この時の勅語ちょくごによつて全くすたつたかといふと、必ずしも左樣でなかつた。それゆえ孝德こうとく天皇大化たいか二年にも、やはり、この事について、禁令をはっせられたのである。けれどもこの時にも、やはり根絕こんぜつする迄には至らなかつた。中には、夫が死ぬと、妻がこれにじゅんずるやうな地方もあつた。

 そのうち佛敎ぶっきょう弘通ぐづうするにつれ、禁令とあいつて、殉死のふうが次第に減じたが、武士階級の擡頭たいとうに伴ひ、主人の死に際して家臣けらいじゅんずるのを以て、忠義ちゅうぎ象徵しょうちょうだと考へるふうを生じた。戰國時代の如きは、この傾向を一層强めたのである。元龜げんき二年、島津しまづ貴久たかひさ卒去そっきょした時、一人の殉死者があり、天正てんしょう十二年、伊達だ て輝宗てるむねが戰死した際には、四人の殉死者があつた。それが、のちには人數にんずうの多きを誇る風習となり、多いときに、ただ一人ひとりの主人の死にたいして二十人の殉死者さへ出した。德川とくがわ家康いえやすは、如上にょじょう弊風へいふうを嘆いて、殉死を禁じたが、餘風よふうは幕末に及んだのである。明治につては、乃木の ぎ大將たいしょう夫妻の殉死があつたが、このてんについて、いろいろ批評もあつたけれども、その壯烈そうれつ精神せいしんは、深く時人じじんを動かした。それが殉死の終幕であつた。

 乃木大將の殉死が、何故なにゆえ、人々に深い感動をあたへたか。それは、大將の平生へいぜい古武士こ ぶ しの風格を備へ、明治天皇たいする忠誠において、ぐんくところがあつたからだ。殉死は、原則として、當然とうぜん、禁ぜられてをり、つ生命に執著しゅうちゃくするのふうが强くなつた明治後期では、ほとんど殉死者を見なかつた。のみならず、人情が輕薄けいはくになり、風俗がくづれて來た以上、古武士こ ぶ し的な風格ある乃木大將の殉死が、時代を驚かしたのは、當然とうぜんのことである。たとへ原則上から殉死を否認するものでも、乃木大將に向つては、心から同情を寄せ、これを賞揚しょうようした位である。それは、乃木大將の精神をみ取つて、これを了解しての上から來たことで、普通の場合に於けるのとは、ことなるところがあつた。すなわち原則として殉死を是認ぜにんしたのではなかつた。かう考へると、垂仁すいにん天皇率先そっせん、臣下をあわれんで、殉死を禁ぜられた思召おぼしめしの有難さを泌々しみじみ、感ずる。