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97 地方官會議ヲ開クノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

大日本詔勅謹解1 思想社會篇

地方官ちほうかん會議かいぎひらクノ勅語ちょくご(明治八年五月二十日 岩倉公實記)

ここ地方官ちほうかん會議かいぎはじメ、ちんみずかのぞみテ、なんじ各官かくかんク。ちん經國けいこく治民ちみんやすカラサルヲおもヒ、ふか公論こうろん衆議しゅうぎのぞムコトアリ。いまなんじ各官かくかん地方ちほう重任じゅうにんリ、したシク民情みんじょうル。まこと同心どうしん協力きょうりょくシ、事緒じしょ多端たたんナルモ、つとめきゅうさきニシ、議論ぎろん異同いどうアルモ、ようスルニヲ一ニシ、もっぱ衆庶しゅうしょため公益こうえきはかラハ、すなわ斯會しかい國家こっか無疆むきょう幸福こうふくひらクノはじメタラン。なんじ各官かくかんむねたいセヨ。

【字句謹解】◯詔ク 告ぐ。明かに告げおしふる義。同樣の用例としては莊子そうじに『爲人父者、必能其子』とあり、ちゅうに『敎也』とみゆ ◯經國 國家を治める義。魏文帝ぎのぶんてい典論てんろんに『文章之大業』とあるに出づ。は治め、統治する義。その用例としては、春秋しゅんじゅう左氏傳さしでんいん十一年に『國家』とあり ◯治民 民を治める ◯公論衆議 公衆の論議。多くの人々によつて論議されし公平なる言論。輿論よろん ◯民情 民の事情 ◯同心協力 心を一にして力を合はせる ◯事緒多端 に同じく、事業の意。わざをいふ。詩經しきょう魯頌ろしょうに『纉大王之』とあるはその例である。はすることが多く忙がしき意 ◯衆庶 もろもろのくにたみ、國民 ◯斯會 このかいすなわち地方官會議かいぎを指されしもの ◯無疆 きはまりなし。無窮むきゅうに同じ。書經しょきょう呂刑篇ろけいへんに『哲人惟刑、之辭』とあり。

【大意謹述】ここに第一回地方官會議かいぎを開くにあたつて、ちんみづからこの式にのぞみ、なんじ各官かくかんぐ。朕國家を經營けいえいし民を治むることの容易なわざでないことを思ひ、踐祚せんそのはじめ、天下の政務は、萬機ばんき公論こうろんに決すべきものであるむね天地てんち神明しんめいに誓ひ、また國民に望むところがあつた。いま汝等なんじら諸官は地方官の要職にあり、親しく民の事情を知悉ちしつしてるのであるから、心を一にして力を合はせ、その職務をまっとうせよ。思ふに今日こんにちとしては、なすべき事業は多いであらうが、まづ急を要することを先にし、また議論の如きもおのずか異同いどうはあらうが、要するにもっぱら民の公益こうえきをはかるといふことを趣旨として論議したならば、おそらくこの地方官會議かいぎは、國家無窮むきゅうの幸福を開くもとゐとなるであらう。諸官は、よく朕のこの旨をたいして、愼重しんちょう論議せよ。

【備考】明治八年五月二十日、明治天皇には、はじめて地方官會議かいぎを東京に召集せられ、車駕しゃが親しく臨御りんぎょ開會かいかいの議を行はれたのであるが、この會議は、五箇條かじょう御誓文ごせいもんのいはゆる『ひろ會議かいぎヲ起シ、萬機ばんき公論こうろんけっスヘシ』の條項による最初の會議で、わが國としてはじつにはじめての經驗けいけんであつた。したがつてその成果については、當時とうじ朝野ちょうやの一せいに注目したところであるが、當時とうじの議長木戸き ど孝允たかすけは、この詔勅しょうちょくたいして、次の如き興味ある奉答ほうとうをして居る。

 臣等しんらうやうやしく聖旨せいしほうじ、ここに地方官會議かいぎに列す。ひそかおもんみるに、會議かいぎなる者は、臣等しんらいま實驗じっけんせざるところなれば、臣等しんらいえどまたおのずか如何い かなる成功を現じべきかをすることあたはず。しかれども、さいわい聖意せいい仁慈じんじり、臣等しんら他日たじつ衆議しゅうぎくし、上奏じょうそうする所をして、實驗じっけんに於て、衆庶しゅうしょ公益こうえきまん一をはかることあらしめば、ただ聖旨せいしむなしくせざるのみならず、また會議かいぎ效績こうせきを知らしむるに足るべし。これ臣等しんら黽勉びんべんして冀望きぼうするところなり。と。

 これよりき、その前年(七年)九月十日を期して、地方官を東京に召集し、湯島ゆしま書籍館しょせきかん會議所かいぎしょと定め、議院としょうし、參議さんぎ伊藤いとう博文ひろぶみが地方官會議々長を兼ねることとなつて、地方官はすでに、續々ぞくぞくと東京へ出府しゅっぷしたのであるが、たまたま臺灣たいわん事件のために、淸國しんこくとの間に葛藤かっとうを生じ、大久保おおくぼ利通としみちは、九月二日、淸國しんこく使つかいすることになつたので、この地方官會議は延期された。そして翌八年四月、大審院だいしんいん元老院げんろういんを開くと共に、地方官會議をも改めて召集することとなり、五月二十日を以て開會日かいかいびとなし、會期かいきを二十日間と定め、あらかじめ議題を下した。すなわち『道路・堤防・橋梁きょうりょう民費みんぴの事』、『地方警察の事』、『地方民會の事』、『貧民ひんみん救助の方法の事』、『小學校しょうがっこう成立及び保護の事』等で、浅草あさくさ本願寺ほんがんじ會議院かいぎいんと定め、木戸孝允が議長に任ぜられ、開會かいかい閉會へいかいともに聖上せいじょう親臨しんりんあり、このみことのりはその開院にあたつて下されたものである。かくて、毎年まいねん開かれる筈であつたこの地方官會議かいぎは、明治九年は東北巡幸じゅんこうのために、十年は西南せいなん戰役せんえきのために取止めとなり、十一年四月に第二回が開會され、十二年は開かれず、十三年二月、第三回が開會され、十四年以後は、內務省に地方長官を召集して、現在の地方長官會議を開くこととなり、したがつてたんなる諮問しもん會議かいぎとなつて、議院法にふ人民の代表たる性質は失はれてしまつた。しかしこの第三回會議の決議によつて、府縣會ふけんかいが開かれることになつたのは、大なる收穫しゅうかくであつたといふべきであらう。