96 用ヲ節シテ救助充ツルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

ようせっシテ救助きゅうじょツルノ勅語ちょくご(明治二年八月二十五日 太政官日誌)

ちん登祚とうそ以降いこう海內かいだい多難たなん億兆おくちょういま綏寧すいねいセス。加之しかのみならず今歳こんさい淫雨いんうのうがいシ、たみまさせいクルところナカラントス。ちんふか怵惕じゅってきス。依而よりてみずか節儉せっけんスルところリテ、もっ救恤きゅうじゅつテントス。主者しゅしゃ施行しこうセヨ。

【字句謹解】◯登祚 天子の位にく。は天子の御位みくらい南史なんし謝靈しゃれい運傳うんでんに『太祖たいそ』とあり。踐祚せんそ登極とうきょくに同じ ◯海內 四かいうちすなわ國中くにじゅうの義 ◯綏寧 綏安すいあんに同じ。國が治まり民がやすらかなること ◯淫雨 ながあめ。霖雨りんうに同じ ◯怵惕 おそれて心やすからざるをいふ。孟子もうし公孫丑こうそんちゅうに『皆有惻隱之心』とあり ◯節儉 けんやく。つひえをはぶきつづまやかにする ◯救恤 すくひめぐむ ◯主者 主管しゅかんの役人 ◯施行 實際じっさいほどこし行ふ。

【大意謹述】ちん祖宗そそう偉業いぎょうをうけついで、天子の位に登つてからこのかた、國家は多事多難つづきで、まだ今日こんにちまで人民を安心させることが出來ず、はなはだ不本意な次第である。ことに今年は、春以來雨が多くて、農作物の被害が大きく、そのために民は生活にさへも困つて居るといふことを聞き、これは朕の不德ふとくの致すところではないかと、おそれつつしんで居るのである。そこで朕みづからおこないをつつしみ、つひえをはぶいてその費用を以て民を救ひめぐみたいと思ふから、主管しゅかんの役人は、よく朕のむねたいして、それぞれ救恤きゅうじゅつを行ふやうにせよ。

【備考】前にも述べたやうに(第九十二參照)明治元年は各地雨害うがいこうむることが少くなかつたが、引きつづき明治二年も水難の年で、ことに農業の被害が大きく、農村の疲弊ひへいはそのきょくに達した。これを聞かれし明治天皇には、まづおんみづから諸般しょはんの節約を行はせられ、宮殿御造營ごぞうえいのことはもとより、日常の供御く ごをも減ぜられたので、輔相ほしょう三條さんじょう實美さねとみは、八月二十六日、官吏かんり俸祿ほうろく幾分いくぶんを納めて、救恤きゅうじゅつに加へたまはんことを願ひ出でて、御裁可ごさいかがあり、諸官みなこれにならつた。その標準は、

 勅任官ちょくにんかんは五分の一、奏任官そうにんかんは十分の一、判任官はんにんかんはこれを免じた。

この救恤きゅうじゅつてんは、九月十五日を以て行はせられ、そのために同年の天長節てんちょうせつ賜餞しせんの事は、お取りやめとなつたが、窮民きゅうみんめぐみたまふ大御心おおみこころのほど、まことにかしこき次第である。