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95 可否ヲ獻替セシムルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

可否か ひ獻替けんたいセシムルノ勅語ちょくご(明治二年四月二十日 太政官日誌)

ちんさきなんじかん群臣ぐんしんト五かかケ、天地てんち神明しんめいただシ、綱紀こうき皇張こうちょうシ、億兆おくちょう綏安すいあんスルヲちかフ。しかルニ兵馬へいば倉卒そうそついませきいたサス。ちん夙夜しゅくやかみもっ神明しんめいおそレ、しももっ億兆おくちょうツ。いますなわ親臨しんりんなんじかん群臣ぐんしん朝會ちょうかいシ、おおい施設しせつスルノ方法ほうほう諮詢しじゅんス。神州しんしゅう安危あんきけつ今日こんにちリ、まこと腹心ふくしんひら肺肝はいかんあらわシ、可否か ひ獻替けんていスヘシ。ちんまさ勵精れいせい竭力けつりょくおおい經始けいしスルところアラントス。なんじかん群臣ぐんしんソレ勖哉つとめよや

【字句謹解】◯五事 五箇條かじょう御誓文ごせいもんを指されしもの。第九十を參照せよ ◯天地神明 あまつかみとくにつかみ。天神てんしん地祇ち ぎ神靈しんれい ◯質ス ちかふこと。盟約めいやくする義。同樣どうようの用例としては春秋しゅんじゅう左氏傳さしでんあい二十年に『先主與呉王有』とあり。すなわ呉王ごおうと共にせる義 ◯綱紀 國家をすべ治めるのり。物ごとのおほもと。又國家のまつりごとをもいふ ◯皇張 おおいに盛んにの意。また正す、匡正きょうせいするの意もある。すなわち盛んに擴張かくちょうする。また匡正きょうせいして擴張かくちょうする義 ◯綏安 綏靖すいせい綏寧すいねいに同じく、民ををさめやすんずるをいふ ◯兵馬倉卒 は武器と軍馬を、てんじて軍事、又、戰爭せんそうの義。、又、あわただしきをいふ。李陵りりょう蘇武そ ぶに答ふる書に『前書未盡所懷』とあり ◯ わざ、しごと、又、いさをし、治績ちせきの義 ◯底ス いたす。致すと同義。同樣どうようの用例としては孟子もうし離婁篇りろうへんに『瞽瞍豫』とあり ◯夙夜 朝はやくから夜おそくまで。日夜。夜となくひるとなく ◯神明 天地てんち神靈しんれい ◯億兆 もろもろのくにたみ ◯慙ツ はぢいる。面目めんもくなく思ふ ◯親臨 天子が親しく臨御りんぎょされること。これは二年三月二十八日、車駕しゃが再び東幸とうこう、四月二十日の二等官以上の會議かいぎ親臨しんりんせられしを指す ◯朝會 臣僚しんりょうの朝廷に參集さんしゅうするをいふ ◯施設 ほどこし設ける ◯諮詢 かみよりしもにはかり問ふ ◯腹心ヲ披キ肺肝ヲ表ス 腹藏ふくぞうなく胸襟きょうきんひらいて、心に思つて居ることを遠慮なく吐露と ろするをいふ。つつみかくすところなく、心の底を打ち明けて、思ひのたけをさらけ出すこと ◯可否 よしあし ◯獻替 善をすすめ惡をすてる。はいきみ輔佐ほ さするにいふ。袁宏えんこうの三ごく名臣めいしん序賛じょさんに『以道佐世、出能勤功、入能、謀寧社稷』とあり ◯勵精竭力 力をつくして、つとめはげむ ◯經始 家屋を建てはじむ。は地を測量するをいふ。てんじて制度・おきてなどを創始する義。詩經しきょう大雅篇たいがへんに『靈臺、經之營之』とあり ◯勖メヨ 人をはげますにいふ。

【大意謹述】ちんさきに(昨年三月十四日)、汝等なんじらかん群臣ぐんしんとともに、五の誓ひをかかげて、天地てんち神明しんめい盟約めいやくし、國是こくぜをさだめ、政治の大本たいほん匡正きょうせい擴張かくちょうして、天下億兆おくちょうををさめやすんずることを誓つたのであつた。しかし昨年以來兵亂へいらんがやまず、軍事にかまけて、いまだ今日こんにちにいたるも少しも治績ちせきをあげることが出來ないために、かみ神明しんめいにおそれ、しもは國民にたいしても面目めんもくなく思ひ、夜もひるも心配を重ねてる。それで急速に政治上の具體ぐたい策を決定するために、ここに百かん群臣ぐんしんも朝廷に會同かいどうし、朕もまた親しくこれに臨んで、おおいに政治上の諸問題について、諮詢しじゅんする次第である。天下の形勢をみるに、いまやじつに國家は危急ききゅうひんし、神州しんしゅう日本がおこるかほろびるかは、かかつて今日こんにちの政治の如何いかんにある。諸官はこの國家の急を救ふために、腹藏ふくぞうなく胸襟きょうきんひらき、心に思つて居ることを遠慮なく吐露と ろして、國家の施設にたいする可否か ひ善惡ぜんあく直言ちょくげんせよ。さうすれば、朕は力をつくしてつとめはげみ、よい制度をいて、國利こくり民福みんぷくをはかるために努力するであらう。諸官は朕のこの心をたいして、可否か ひ獻替けんたいするために、よくつとめねばならぬ。

【備考】このみことのりは、二年四月二十日、二等官以上をして、國家の急を救ふための萬機ばんき施設の方法を、諮詢しじゅんされたものである。詔中しょうちゅうに『神州しんしゅう安危あんきけつ今日こんにちリ』と仰せられて居るが、じつ當時とうじ國情こくじょうは、文字通り累卵るいらんあやうきにひんしてゐた。形だけの明治政府は出來上つてゐたが、列藩はほ地方々々に割拠かっきょして、容易に兵・政の實權じっけんを手離さず、二年三月二十八日、車駕しゃが再び東幸とうこうして、東京奠都てんとは確立したものの、西郷さいごう隆盛たかもりは東北平定後、故山こざん鹿兒島かごしまかえつてあらず、大久保おおくぼ利通としみちまた鹿兒島にあり、新政府の重鎭じゅうちん岩倉いわくら具視ともよしは、京都に留つて、容易に上京しようとはせず、木戸き ど孝允たかすけまた西國さいこくにあつて、實際じっさい政治にたずさはらず、明治政府はほとんど中心人物を失つて、がらきの狀態じょうたいであつた。しかもこの間隙かんげきじょうじ、新政府の施設に反感をもつ各地の不平とうは、好機こうき至れりとなし、大聲たいせい疾呼しっこして政府攻擊の銳鋒えいほうあらわはし、在留外人また、各地に跋扈ばっこして不逞ふていをきはめ、全く內治ないち・外交ともに統一をいて、もし一日をゆるうし、一歩を誤れば、折角の維新の鴻業こうぎょうも、一まつ水泡すいほうせんとする危急ききゅうの場合であつた。三條さんじょう實美さねとみが、この形勢を憂へて、岩倉具視の上京をひ、木戸・大久保の歸東きとうを促した書面は、最もよくこのかんの消息を物語つて居る。岩倉への書面に、次の如き一節がある。(四月六日附)

 聖上せいじょう御機嫌よくわたらせられ、恐賀きょうがたてまつそうろうて、當地とうちの形勢、東下とうかのち見聞けんぶんつかまつ候處そうろうどころ、內外、じつに以て容易ならざるの情態にて、ほとんどれ、このていにては、まことに以てと、焦思しょうし苦慮くりょつかまつり、浩歎こうたん不堪たえずそうろうばん御諒察ごりょうさつたまわせられたくそうろう。定めてきも有之これあるべく、外國人へ途中馬車ゆきひの混雜こんざつ數度すうどに及びそうろうより、ついに交際をつの場合にあいせまり、英佛えいふつ憤怒ふんぬ一方ひとかたならざる事にて、たび彌縫びぼうつかまつがたき事情に有之これありかつまたうちにしては、政府五かん一として一致協力、規律法度はっとあい立られ候處そうろうところ無之これなく各々おのおの疑惑をいだき、その職を擔當たんとうして任ずるのなく、なり。右の如くに內外の憂患ゆうかん眼前に迫り、、新政府の失態を、輕侮けいぶいきおいにて、嗚呼あ あそのせき誰にか在る。じつ臣子しんしの罪、我輩わがはい死すとも餘罪よざいあり。じつ尊公そんこう、木戸、大久保の東下とうか冀望きぼうすること一日千秋の思ひに有之これあり中々なかなか以て當今とうこんの形勢は、筆端ひったんつくす所にあらず。(下略、圏點著者)

 國情こくじょうを憂ふる切々の情が、文中に横溢おういつしてるが、事實じじつ當時とうじの形勢は、この三じょうの手紙以上のものであつた。明治天皇が『神州しんしゅう安危あんきけつ今日こんにちリ』と仰せられて、この形勢にいたく宸襟しんきんなやまされたのは、おそれ多き次第である。したがつて天皇が、この日(四月二十日)の會議かいぎに期待されることの何如い かに大であつたか、また列席諸官の態度が如何に眞劍しんけんであつたかといふことは、容易に想像しうる所であらう。