93 奥羽ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

奥羽おううくだたまヘル勅語ちょくご明治元年八月七日 太政官日誌)

朝綱ちょうこう一タヒゆるミシヨリ、政權せいけんひさシク武門ぶもんス。いまちん祖宗そそう威靈いれいリ、あらた皇統こうとうキ、太政たいせいいにしえふくス。大義たいぎ名分めいぶんそんスルところニシテ、天下てんか人心じんしん歸向きこうスルところなりさき德川とくがわ慶喜よしのぶ政權せいけんかえまた自然しぜんいきおヒ、いわん近時きんじ宇內うだい形勢けいせいひらつきさかんナリ。ときあたリテ、政權せいけん人心じんしんていスルニあらサレハ、なにもっ國體こくたいシ、紀綱きこうふるハンヤ。ここおいおおい政法せいほうヲ一しんシ、公卿こうけい列藩れっぱんおよヒ四ほうともひろ會議かいぎおこシ、萬機ばんき公論こうろんけっスルハ、もとヨリ天下てんかこと、一にんわたくしスルところあらサレハナリ。しかルニ奥羽おううノ一ぐういま皇化こうかふくセス。みだり陸梁りくりょうわざわい地方ちほうク。ちんはなはタコレヲうれフ。レ四かいうちいずれちん赤子せきしニアラサル、率土そっとひんまたちんノ一ナリ。ちん庶民しょみんおいテ、なんソ四ぐうべつヲナシ、あえ外視がいしスルコトアランヤ。ゆえやむス、五どうへいくだシ、もっ不廷ふていただス。おもフニ奥羽おううぐうしゅうことごと乖亂かいらん昏迷こんめいセンヤ。かんかなら大義たいぎあきらかニシ、國體こくたいべんスルものアラン。あるいちからおよハス、あるいいきおささフルあたハス、あるい情實じょうじつつうセス、あるい事體じたい齟齬そ ごシ、もっ今日こんにちいたル。カクノごとキモ、よろしうしなハス、すみやか方向ほうこうさだメ、もっ素心そしんあらわセハ、ちんしたシクえらところアラン。縱令たとえ黨類とうるいいえどモ、つみ悔悟かいごシ、改正かいせい服歸ふっきセハ、ちんニコレヲ隔視かくしセンヤ。かならしょスルニ至當しとうてんもっテセン。玉石ぎょくせきあいこんシ、薰蕕くんゆうともおなじうスルハ、しのハサルところナリ。なんじ衆庶しゅうしょよろシク體認たいにんシ、一あやまリニリテ、千ざいはずかしめのこスコトナカレ。

【字句謹解】◯朝綱 朝廷ののり。朝憲ちょうけんに同じ ◯政權 まつりごとを行ふ權力けんりょく ◯武門 武士の家筋。武家 ◯威靈 いかめしくたふとき力 ◯皇統 天子の御血統 ◯大義名分 おおいなるすぢみち。すなわ君國くんこくたいする民臣みんしん節義せつぎ分限ぶんげんをいふ ◯歸向 一してその方に向ふ ◯宇內 あめがした、天下また世界の義 ◯國體 國家成立の狀態じょうたいすなわちくにがらをいふ。國家を統治けんの存在狀態によつて區別くべつせるしょうで、君主國體こくたい・貴族國體こくたい・共和國體こくたいの別がある。ただしここではの意 ◯紀綱 國家ののり、おきて ◯公卿 すなわ攝政せっしょう關白かんぱく・大臣と、すなわ參議さんぎ・三以上及び殿上人でんじょうびと總稱そうしょう。くぎやう、くげ ◯列藩 諸藩に同じ ◯四方之士 ひろく無位無官をも含む一般の士民 ◯萬機公論に決す 天下の政務は輿論よろん歸向きこうするところにしたがつて決定する意。五箇條かじょう御誓文ごせいもん(第九十)の第一じょうを參照せよ ◯皇化 天子の德化とっか ◯陸梁 おどる意で、ほしいままにおどり走ること。てんじてはびこりあばれる義に用ふ。跳梁ちょうりょうに同じ。西京賦せいけいのふに『怪獸』とあり ◯四海ノ內 よもの海の內、てんじて國家中こっかじゅうの意。論語ろんごの『、皆兄弟也』に出づ ◯赤子 天子を父母としょうするにたいする語で、人民の義。書經しょきょうに『若保』とあり ◯率土ノ濱 陸地のつづける限り、すなわ天下中てんかじゅうの義。詩經しきょう小雅篇しょうがへんの『溥天之下、莫非王土、、莫非王臣』に出づ ◯外視 はとほざけうとんずる、疎外そがい、しりぞける。すなわち天子の赤子せきしでないとして退ぞけうとんずる義。一同仁どうじん反對はんたい ◯五畿 畿內きないこくすなわ山城やましろ・大和・河內・和泉・攝津せっつしょう ◯七道 東海・東山とうさん・北陸・山陰・山陽・南海・西海せいかいの七どうをいふ ◯不廷 不庭ふていに通ず。朝廷に伺候しこうせず、王庭おうてい來朝らいちょうせず、すなわち朝廷に反抗する義。春秋しゅんじゅう左氏傳さしでんいん十一年に『以王命、討』とあり ◯乖亂昏迷 朝廷にそむいてらんをなし、心をくらくして迷ふ意 ◯齟齬 ゆきちがひ、くひちがひ ◯素心 本來の心。平素のこころ。かねてのおもひ ◯悔悟 悔い悟る ◯服歸 降服して歸順きじゅんする ◯隔視 わけへだてをしてみる ◯至當 きはめて適當てきとうな ◯ 恩典おんてん ◯玉石相混 よきものとおとれるものとが入れまじつて區別くべつのないこと ◯薰蕕 香草こうそう 臭草しゅうそうで、善人と惡人、君子くんし小人しょうじんとの如きをいふ。世說せいせつに『培塿無松柏、不同器』とあり ◯衆庶 もろもろのくにたみ ◯千載 さいに通ず。千年ちとせ。ちとせ。永き年月としつきたとへ。三ごく名臣めいしん序賛じょさんに『一隅、賢智之嘉會』とあり ◯ はづかしめ、ちじよく、はぢ。

【大意謹述】中世ちゅうせい時代、朝廷の威光いこうが衰へてから以後、久しい間天下の政權せいけんは、武家どもの手に握られてゐたのであるが、いま祖宗そそう御威光ごいこうによつて、新たにちん皇統こうとうをつぐとともに、再び大政たいせいいにしえふくするに至つた。これは大義名分のしからしめたものであり、同時に天下の人心が、そこに向つて來たことを示すものでもあつて、さきに德川とくがわ慶喜よしのぶが、政權せいけんを朝廷に返上したのもまた、自然の勢ひによるものであつた。こと近來きんらい、天下の形勢をみるのに、文明開化のふうが急激におこつて、日進月歩の世の中になつたのであるから、政權せいけんは一で、人心は一定するやうにならなければ、どうして國家の體面たいめんを保ち、綱紀こうきを振はせることが出來ようか。朕がさきに五國是こくぜを定めて、おおいに政治の法を一新し、公卿く げや諸藩のものや、またあまねく一般の士民と共に、ひろく會議かいぎおこし、天下の政務は輿論よろん歸向きこうしたがつて決定せねばならぬと定めたのも、要するに天下のことは、一人のわたくしすべきものではないと信じたからであつた。しかるに奥羽おううの一ぐうには、いまだに皇室の德化とっか服從ふくじゅうせず、私兵しへいようしてほしいままに勢力を張り、わざはひを地方民にまで及ぼしてるものがあるといふことである。朕はこれを聞いて、まことに心配にたへない。思ふに日本國中の人民はみな朕の赤子せきしであつて、國土のつづく限りは朕の一家である。どうして奥羽地方の民だけを、朕の赤子でないとして、退ぞけうとんずることが出來ようか。それでやむを得ず、奥羽地方の朕の赤子を救ふために、五どうの兵をつかはして、朝廷に反抗するもののあやまちを正すことにした次第である。思ふに、奥羽地方の反軍に投じてるもののすべてが、朝廷にそむいて反逆の心をもつてるなどとは信ぜられないところであつて、勿論もちろんその間には、大義名分を知り、國體こくたい本義ほんぎわきまへたものもあるに相違そういない。ただその力が及ばなかつたり、あるい騎虎き この勢ひやむを得ず反軍に味方したり、或は天下の實情じつじょうがわからないためとか、或はまた事體じたいがくひ違つたためとかの理由によつて、今日こんにちに至つてるものであらうと思ふ。それでかやうなものたちも、この機會きかいを失はず、はやくそのあやまつた心を改めて、本來の正しい心に立ちかえれば、朕は少しもその罪を問はないであらう。またたとへ主謀者しゅぼうしゃのなかまのものであつても、その罪をさとつて、改めて正しい心に立ちかえつたものは、別にわけへだてをしてるやうなことをせず、必ずこれに適當てきとう恩典おんてんあたへるであらう。善人も惡人も、玉も石も、くんゆうも一しよくたにするやうなことは、朕の忍びないところであつて、選擇せんたくにはおのずかみちがあり、その分におうじて必らず適當てきとうのりあたへるであらう。汝等なんじら人民は、よく朕のこの心を理解して、行動をあやまらず、一あやまちによつて、千ねんのちまでも恥辱ちじょく汚名おめいとをのこすやうなことがあつてはならぬ。

【備考】このみことのりの中に『かんかなら大義たいぎあきらかニシ、國體こくたいべんスルものアラン。あるいちからおよハス、あるいいきおささフルあたハス、あるい情實じょうじつつうセス、あるい事體じたい齟齬そ ごシ、もっ今日こんにちいたル』とあるが、實際じっさいに東北諸藩中には、當時とうじ天下の形勢や時勢の推移が分らなかつたために、向背こうはいあやまつたものが少くなかつた。例へば秋田藩の如きもそれで、元來秋田藩は、關ヶ原せきがはらたたかひ以來、德川にたいしてはあまり好感をもつてゐなかつた上に、有名な國學者平田ひらた篤胤あつたねが、その藩士に、勤王きんのう思想を盛んに鼓吹こすいしたので、德川末期においては、同藩士間にはかなり濃厚な勤王思想が横溢おういつしてつたのであつたが、いかんせん、時代の推移や天下の形勢が判らなかつたために、藩士中の保守分子は、德川の政治が再び來るものと固く信じ、主家しゅか將來しょうらい興亡こうぼうなどを考へ、佐幕さばく論も相當そうとう根强く主張されたので、藩論は勤王・佐幕の二派に分れ、容易に向背こうはいが決しなかつたやうな次第であつた。

 また詔中しょうちゅう『四かいうちいずレカちん赤子せきしニアラサル、率土そっとひんまたちんノ一ナリ』と仰せられて居るが、このみことのりはっせられし前月すなわ明治元年七月十七日の『東京遷都ノ詔』においても『海內一家、東西同視』と仰せられ、更に同年十月十七日の詔(第九十四參照)においてもまた『皇國一體、東西同視』と仰せられて居る。まことに有りがたきお言葉で、さればこそ、この機を失なはず、速かにその方向を定めて素心そしんあらわし、前非ぜんぴ悔悟かいごして改心かいしん服歸ふっきすれば、朕はこれをへだず、必ずしょするに至當しとうのりを以てし、玉と石とを混ぜず、くんゆうとをおなじうせず、選擇せんたくもとよりその道あり、狐疑こ ぎして臣子しんし本義ほんぎを誤つてはならぬと、おさとしになつたのである。父母のじんを以て、赤子せきしあやまちを免じたまふ海のごとき至仁しじん至慈し じのこの大御心おおみこころはいするもの、誰か感激なきをるや。