73 貧民優恤の詔 仁明天皇(第五十四代)

貧民ひんみん優恤ゆうじゅつみことのり(天長十年四月 續日本後紀

鷄觀之上。日照先被。龍輅所過。恩典便降。嵯峨院者。先太上天皇光臨之地。第宮聳構。分東西之名區。芝蓋駐蔭。追汾陽之高賞。宣遊斯在。引年其深。然則當邑之甿。須霑慶幸。近壤之戸。豈无優恤。時惟長嬴。方申亭育。思順天序。式施惠澤。宜山城國葛野郡貧民。去年借貸未入者。及雜賦未進等。特免之。

【謹譯】鷄觀けいかんじょう日照にっしょうこうむり、龍輅りゅうろぐるところ恩典おんてん便すなわくだる。嵯峨院さがのいんは、さき太上だじょう天皇てんのう光臨こうりん第宮ていきゅうかまえそびやかして、東西とうざい名區めいくわかち、芝蓋しがいかげとどめて、汾陽ふんよう高賞こうしょうひ、宣遊せんゆうここり、引年いんねんふかし。しかればすなわ當邑とうゆうたみは、すべからく 慶幸けいこううるおすべし。近壤きんじょう優恤ゆうじゅつなからんや。とき長嬴ちょうえいまさ亭育ていいくぶ。天序てんじょしたがひて、もっ惠澤けいたくほどこさんことをおもふ。よろしく山城國やましろのくに葛野郡かどのごおり貧民ひんみん去年きょねん借貸しゃくたいにして、いまらざるもの、およ雜賦ざっぷいますすめざるものとうは、とくこれめんずべし。

【字句謹解】◯鷄觀之上。日照先被 泰山記たいざんきにある次の文より出でし句。『山頂東南嚴爲日、日一鳴時、見日始欲出』。ほまた玄中記げんちゅうきに『桃都山有大樹、有天初出此木、卽鳴天下鷄皆隨之』ともあり。◯龍輅所過。恩典便降 天子の車駕しゃがの通過するところは、恩典おんてんくださるるをいふ。文選もんぜん東京賦とうけいのふに『充庭』とあり、ちゅうに『、天子之車也』とみゆ。はめぐみの御沙汰ご さ た ◯嵯峨院 山城國やましろのくに葛野郡かどのごおり嵯峨村さがむら大澤池おおさわいけの西にあり。もと嵯峨さ が天皇離宮りきゅうであつたが、天皇讓位じょういち、承和しょうわ元年(皇紀一四九四年、甲寅)ここに移りたまひ、越えて貞觀じょうがん十八年(皇紀一五三六年、丙申)二月癸酉みずのととり淳和じゅんな太后たいこう(淳和天皇の皇后にして、嵯峨天皇の皇女正子內親王)のこいにより、佛寺ぶつじとなしごうし、恒寂こうじゃく法親王ほうしんのう(淳和天皇の皇子、御母は正子內親王)を開山かいざんとなす。いまの嵯峨村大覺寺だいかくじ(現在は京都市)がこれである ◯太上天皇 天皇御讓位ごじょういあらせられし以後の尊號そんごう。おりゐのみかど又は太上皇だじょうこうとも申す。ここでは嵯峨さ が天皇の事を仰せられしもの ◯光臨 天子がおでましになる。みゆき ◯第宮聳構 みあらかが高く天にそびえてるをいふ。原本に作る、六國史りくこくし及び類聚國史るいじゅうこくしよって改む。ていはやしき、ていの意 ◯東西の名區を分つ 殿舍でんしゃが多くて東西に分立してるをいふ ◯芝蓋駐蔭 文選もんぜん西京賦せいきょうのふちゅうに『芝蓋しがいは芝を以てとます』とあり、芝形蓋しばがたとまのやうであるためのしょう ◯汾陽之高賞 荘子そうじ逍遙遊しょうようゆうへんに『堯往見四子藐姑射之山水之』とあるに出づ ◯宣遊 文選もんぜんの註にとあり、すなわちあまねくの意。あまねくあそぶ ◯引年其れ深し 禮記らいき王制篇おうせいへんの『凡三王養老皆』の語に出づ。ここでは年老いて隱退いんたいさるるをいふ ◯當邑の甿 このむら(卽ち嵯峨村)の農民。は田をつくるたみ、農民 ◯慶幸 よろこびとさいはひ ◯近壤の戸 近村きんそんの民。當邑とうゆうたみ對句ついく ◯優恤 あつくあはれむ。ひろきめぐみ ◯長嬴 爾雅じ が釋天しゃくてんに『春爲發生、夏爲』とあり、すなわ ◯亭育 そだてやしなふ。ていは養ふ義 ◯天序 時候じこうの順序 ◯惠澤 めぐみ、恩惠おんけい恩澤おんたく ◯借貸 國司こくしが民に官稻かんとう貸與たいよして、その利息をおさめなかつたのをいふ。今日こんにちたんなるの意にあらず ◯雜賦 はかかりもの、ねんぐ、租稅そぜいすなわ雜稅ざつぜい雜課ざっかの意。

【大意謹述】鶏鳴けいめいに起きで、いわの上に立つて日の出をみる人は、一番最初に日の光りをこうむるし、また天子の車駕しゃがの通過するところに住む民は、天子のめぐみをこうむるものである。山城國やましろのくに葛野郡かどのごおり嵯峨院さがのいんは、さきの太上天皇おりいのみかど(第五十二代嵯峨天皇)のみゆきされたところで、殿舍みあらかは東西に分立して高く天にそびえ、芝蓋きぬがさかげをとどめて庭園の風致ふうちに富み、むかし堯帝ぎょうていしょうしたといふ汾陽ふんようけいもかくやと思はれるほどで、太上皇おりいのみかどにはここをいたくでたまひ、老後はここに隱棲いんせいされるので、土地との緣故えんこも深いわけである。それで同村(嵯峨村)および隣接りんせつ地方の農民たちには、このよろこびをわかつべきで、ちんは特に彼等をにぎはしめぐむであらう。時はちやうど初夏四月、萬物ばんぶつはすくすくと伸びそだち、民のぎょうもこれから始まるのであるから、この好時期にあたつて、朕はいささか民をめぐみ救ひたいと思ふ。そこで山城國やましろのくに葛野郡かどのごおり貧民ひんみんの中で、去年(天長九年、皇紀一四九二年、壬子)借りた借貸しゃくたいをまだ返濟へんさいしてゐないもの、および雜賦ざっぷの未納にぞくする分などは、特にこれを免除するやうにせよ。

【備考】嵯峨帝さ がてい葛野郡かどのごおり嵯峨さ がの里に隱棲いんせいされたのは、承和しょうわ元年(皇紀一四九四年、甲寅)で、このみことのりを下されし天長てんちょう十年(皇紀一四九三年、癸丑)の翌年である。すなわ御孝心ごこうしん厚かりし仁明にんみょう天皇には、おん父帝ちちみかど御隱棲ごいんせい後のことどもを思ひやられ、移御いぎょに先だつ一年、特にこの優渥ゆうあくなるみことのりを地元民にたまはり、厚き賑恤しんじゅつれたまうたのである。