71 田租を免ずるの詔 嵯峨天皇(第五十二代)

田租でんそめんずるのみことのり(弘仁六年七月 日本後紀

天生黎元。樹之司牧。所以阜財利用。化成天下。是以欲濟弊俗。達旦不已。思使農夫有稔熟之歡。婦功無杼軸之歎。而去五月以降。雨水迸溢。田疇不修。夫百姓不足。君孰與足。宜俾左右京畿內。無出今年田租。務存優恤。副朕意焉。

【謹譯】てん黎元れいげんしょうじて、これ司牧しぼくつるは、ざいゆたかにしようし、天下てんか化成かせいする所以ゆえんなり。ゆえ弊俗へいぞくすくはんとほっし、あしたいたるまでまず。農夫のうふをして稔熟じんじゅくよろこびあり、こうをして杼軸ちょじくなげきなからしめんことをおもふ。しかるにる五がつ以降いこう雨水うすい迸溢ほういつして、田疇でんちゅうおさまらず。百姓ひゃくせいらずんば、きみたれともにからんや。よろしく左右さゆうきょう畿內きないをして、今年こんねん田租でんそいだすことからしむべし。つとめて優恤ゆうじゅつそんし、ちんへよ。

【字句謹解】◯黎元 もろもろの民、國民。ぜんすなわち人はみな善なる義。れいはおほいこと。漢書かんじょこう祀志し しに『大路所歷、不知』とあり。黎民れいみん黎庶れいしょに同じ ◯司牧 ぼくは臨み治める、養ひ育てる義。はつかさ、つかさどる。すなわち民を養ひ治めるつかさ、君主をいふ。左傳さでんじょう十四年に『天生民而立之君、使之』とあり ◯ ゆたか、ゆたかに同じ、豐富ほうふにする。の語は「家語け ご」に見ゆ ◯利用 物の用ひ方を良くする。書經しょきょうだい禹謨う ぼに『正徳、厚生惟和』とあり。利用厚生の道を民に知らしめる義 ◯ あした、朝、あかつき ◯稔熟の歡 榖物が十分にみのつたよろこび、豐年ほうねんのよろこび ◯婦功 をんなのてわざをいふ。家語け ごに『霜降成、嫁娶者行焉』とあり ◯杼軸の歎 ちょはたよこいとを持するじくはたたていとを受くる具。てんじてはたを織ること。すなわち不作のためにはたの織れなくなるなげき。陸機りくき文賦ぶんぷに『雖於予懷、怵他人之我先』とあり。また杼軸ちょじくは文章を組み立てる意にも用ふ ◯迸溢 ほとばしりあふれる、ほとばしりみなぎる。雨のために河水かすいが氾濫すること ◯田疇 こくをううるはたをといひ、麻をううるはたをといふ。すなわち田やはたの義。禮記らいき月令篇げつれいへんに『殺草可以糞、可以美土疆』とあり ◯足る 充ち足る、富みさかえる義 ◯ 誰に同じ ◯左右の京 平安京の左京と右京をいふ。朱雀すざく大路おおじを境として京師けいしを二分し、東の地區ち くを左京と呼び、西の地區を右京と呼んだ ◯畿內 みやこに近き朝廷の直隷ちょくれい地、すなわち山城・大和・河內・和泉・攝津せっつの五箇國をいふ ◯優恤 やさしきめぐみ。ねんごろにいたはりめぐむこと。

【大意謹述】天が國土をつくり民を生じ、これに天子を立てるのは、財產をゆたかにして、民に利用厚生の道を知らしめ、天下をよく敎化きょうかし成育させるためである。それでちんは、民の惡いならはしをめ救つて、その幸福をはかりたいと、夜の明けるまでも考へつづけ、どうかして、農夫たちは豐年ほうねんをよろこび合ふやうに、女たちには不作のために機織はたおりの出來ない悲しみなどがないやうにと、つねに思ひわずらつてる。しかるに去る五月からこのかた、大雨が降りつづいて、河水かすいは氾濫して田や畑を荒され、農作物はひどい損害をこうむつたといふことである。天の君を立つるのは、もと、百姓ひゃくせいのためであつて、百姓の貧しいのは、すなわち朕の貧しいのである。この民の窮乏きゅうぼうをみて、どうして朕ひとりたのしむことが出來ようか。それで左京・右京および畿內きない地方の今年の田租でんそは、すべてこれを免除して徵收ちょうしゅうせず、窮民きゅうみんたいしては、なるべくやさしくして、いたはりめぐむやうにせよ。

【備考】このみことのり日附ひづけ日本にほん後紀こうき(第二十四卷)は甲午きのえうまの二十五日となし、類聚國史るいじゅうこくし甲午きのえうまの二十五日としてるが、恐らく後者なるべく、本書はしばら後紀こうきしたがふ。『五月以降の雨』について後紀の記述をみるに、六月壬寅みずのえとらの三日のくだりに『の日大雷だいらい』とあり、同月癸亥みずのといの二十四日のくだりに『の日、山城國やましろのくに乙訓郡おとくにごおり物集もづめ國背く せ兩郷りょうごう雷風らいふうあり、百姓ひゃくせい盧舍ろしゃこわし、人あるいしんこうむりて死す』とあり、七月壬午みずのえうまの十三日のくだりにも『の日暴雨ぼうう雷鳴らいめいあり、庭潦ていりょう泛溢へんいつす』とある。これ等によるも、畿內きない地方における雨害うがいはなはだしかつたことを知りうる。

 ほここに一ごん附記ふ きすべきは、奈良朝時代にようやく盛んにならうとした漢文學かんぶんがくが、平安朝時代の初期に入ると、共に大いに發達はったつし、漸次ぜんじ和習わしゅうだっし、圓熟えんじゅくきょうたんは、詔勅しょうちょく文においてもこれをはいする事が出來る。奈良朝中葉ちゅうよう以降の詔勅文は、特にいづれも文辭ぶんじ流麗りゅうれい當時とうじいかに漢文學が盛んであつたかといふことをうかがふに足るものがある。當時の著述ちょじゅつは、ほとんど漢文を以て記述せるもので、弘仁こうにん格式きゃくしき新撰しんせん姓氏せいしろく日本紀しょくにほんぎ令義解りょうのぎげなどは、いづれもこの時代のせんで、みな漢文で記されてる。平城へいじょう嵯峨さ が淳和じゅんなの三ていは、漢詩をよくせられたが、中にも嵯峨さ が天皇は最もこれにちょうじたまひ、能書のうしょの聞えおん高く、そう空海くうかい橘逸勢たちばなのはやなりあわせて、三ぴつと申しあげたほどである。かつて吏部り ぶ侍郞しろう野美の み邊城へんじょう使つかひするを聞かれ、帽裘ぼうきゅうと共に、左の一ぜつしてこれに贈られた。

 歳晩嚴冬寒最切 忠臣爲國向邊城 貂裘暖帽宜覊旅 特贈卿之萬里行