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64 田租を免ずるの詔 桓武天皇(第五十代)

大日本詔勅謹解1 思想社會篇

田租でんそめんずるのみことのり(延曆九年九月 續日本紀

朕以寡昧。忝馭寰區。旰食宵衣。情存撫育。而至和靡屆。炎旱爲灾。田疇不修。農畝多廢。雖豐儉有時。而責深在予。今聞。京畿失稔。甚於外國。兼苦疾疫飢饉者衆。宜免左右京及五畿內。今年田租。以息窮弊。神寺之租亦宜准此焉。

【謹譯】ちん寡昧かまいもって、かたじけな寰區かんくおさめ、ひくれてしょくよいきぬきて、こころ撫育ぶいくそんす。しかれども至和し かいたることなく、炎旱えんかんわざわいし、田疇でんちゅうおさまらずして、農畝のうほおおすたる。豐儉ほうけんときありといえども、しかせめふかり。いまく、京畿けいきみのりうしなふこと、外國げこくよりもはなはだしく、ねて疾疫しつえき飢饉ききんくるしむものおおしと。よろしく左右さゆうきょうおよび五畿內きない今年ことし田租でんそめんじ、もっ窮弊きゅうへいいこはしむべし。神寺しんじた、よろしくこれじゅんずべし。

【字句謹解】◯寡昧 とくすくな事理じ りくらき意。寡德かとくにして蒙昧もうまい、君主の謙辭けんじ ◯寰區 天地・天下・國家の意。寰宇かんうに同じ ◯旰食宵衣 ひくれてしょくよいきぬきる。日が暮れてのちぜんにつき、夜の未だ明けない前に起きて衣をつける意、てんじて天子のまつりごとに勤勉したまふをいふ。唐書とうしょ劉蕡傳りゅうふんでんに『任賢愓厲、、詎追三五之遐軌、庶絽祖宗之鴻緒』とあり ◯撫育 いつくしみそだてる ◯至和 和平の十分なること。いたつてやはらぎおだやか ◯炎旱 ひでり。李白りはくの詩に『龍怪潜溟波、俟時救』とあり ◯ わざはひ。わざわい古字こ じ、天地自然のわざはひ ◯田疇 こくをううる水田みずたは麻をううるはたをいふ。禮記らいき月令篇げつれいへんに『殺草可以糞、可以美土疆』とあり ◯農畝 田やはたけ、てんじて農業をいふ。後漢書ごかんじょ高鳳傳こうほうでんに『家以爲業』とあり ◯豐儉 ゆたかなると、つづまやかなると。晁冲ちょうちゅうの詩に『自可隨、誰能問有無』とあり ◯京畿 畿內きない地方をいふ、本欄の五畿內きないの項を參照せよ ◯ みのり、榖物のゆたかにみのること ◯外國 畿內きない五ヶ國以外の國々をいふ ◯疾疫 はやりやまひ ◯飢饉 不作のために一般に食物しょくもつ缺乏けつぼうすること ◯左右の京 帝都を朱雀すざく大路おおじを中心として東西の二に分ち、東の地區ち くを左京、西の地區を右京と呼んだ。詳くは第三十の〔註一〕を參照せよ ◯五畿 山背やましろ・大和・河內・和泉・攝津せっつの五ヶ國をいふ ◯窮弊 窮乏きゅうぼうして疲弊ひへいすること。まづしくてへ疲れる。

【大意謹述】ちんとくすくなく事理じ りくらき身をもつて、つつしんで天下を治め、萬機ばんきしたしくするために、夕べは日くれてぜんにつき、あしたはまだ夜の明けない前に起きて衣をけ、ひたすら民をいつくしみ愛しようとつとめて居るのであるが、未だその至誠しせいが天に通じないのか、この頃わざはひが多く、天候不順でひでりがつづき、田やはたけの作物もみのらず、農夫は仕事が出來なくて、困つて居るといふことである。ゆたかなるとつづまやかなるとは、おのずから時はあるが、しかしこのめは、すべて朕にある。聞くところによれば、凶作の被害は、五畿內地方が最もはなはだしく、他の諸國よりも一そう悲慘で、その上流行病まで猖獗しょうけつをきはめ、病氣と飢饉ききんとのために、同地方の住民は、はなはだ苦しんで居るといふことである。そこで左京・右京および五畿內地方の今年の田租ねんぐはすべて免除し、このくるしみから民を救ふやうにせよ。神社や寺院の田租ねんぐまた、これにじゅんじて免除せよ。

【備考】このみことのりにいはゆる『左右さゆうきょう』とは、平城京ならのみやこゆうきょうを指されしものか。けだ長岡京ながおかのみやこ造營ぞうえいは、當時とうじなほ工程遲々ち ちとして進捗しんちょくせず、條坊じょうぼうの如きもいまだ完備してゐたとは信じられぬからである。それは日本にほん後紀こうき和氣淸麿わけのきよまろでんに『長岡の新都、十さいるも未だ成らず』とあるによつても知りうる。ほこのみことのりに『五畿內きない』とあるが、畿內きない五國のうち、山背國やましろのくには、次の第六十五しょう以後は、やまに作らるべきで注意を要する。すなわ延曆えんりゃく十三年(皇紀一四五四年)七月、桓武かんむ天皇は都を山背國やましろのくに葛野京かどのみやこうつされ、十月、車駕しゃが始めて新都に遷御せんぎょあり、翌十一月みことのりして

 この國、山河さんが襟帶きんたいおのずかをなす。・・・よろしくやまくにを改めて、やまくにとなすべし。また子來しらいたみ謳歌おうかやから異口い く同辭どうじごうして平安京へいあんきょうといふ

と仰せられて居るからである。山背やましろとは『やまうしろ、すなわ山背やましろ』の義で、從來じゅうらいの帝都所在地たる大和國やまとのくにからみれば、山背國やましろのくにはまさに山の背後にあたつてゐたので、かく呼んだのである。