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63 出擧の息利を減ずるの詔 桓武天皇(第五十代)

大日本詔勅謹解1 思想社會篇

出擧すいこ息利そくりげんずるのみことのり(延曆七年九月 續日本紀

朕以眇身。忝承鴻業。水陸有便。建都長岡。而宮室未就。興作稍多。徵發之苦。頗在百姓。是以優其功賃。欲無勞煩。今聞。造宮役夫。短褐不完。類多羸弱。靜言於此。深軫于懷。宜諸進役夫之國。今年出擧者。不論正稅公廨。一切減其息利。縱貸十束。其利五束。二束還民。三束入公。其勅前徵納者。亦宜還給焉。

【謹譯】ちん眇身びょうしんもって、かたじけな鴻業こうぎょうく。水陸すいりく便べんありて、みやこ長岡ながおかつ。しかして宮室きゅうしついまらず、興作こうさようやおおく、徵發ちょうはつは、すこぶ百姓ひゃくせいり。ここもって、功賃こうちんゆたかにして、勞煩ろうはんからんことをほっす。いまく、造宮ぞうぐう役夫えきふ短褐たんかつまったからず、おおむおお羸弱るいじゃくなりと。しずかにこれひて、ふかこころいたむ。よろしくもろもろ役夫えきふすすむるのくにをして、今年こんねん出擧すいこは、正稅せいぜいたると公廨く げたるとをろんぜず、一さいその息利そくりげんぜしむべし。たとへば十そくさば、そくにして、二そくたみかえし、三ぞくおおやけれよ。勅前ちょくぜんちょうるるものもた、よろしくかえきゅうすべし。

【字句謹解】◯眇身 びょうは小さくこまかいこと。細小さいしょうなる身といふ謙辭けんじ漢書かんじょ武帝ぶていの『朕以、託于王侯之上』の語に出づ ◯鴻業 大いなる事業、帝王のぎょうをいふ。後漢書ごかんじょ帝紀しょうていきに『皇帝幼冲、承統』とあり ◯長岡 山背國やましろのくに乙訓郡おとくにごおり長岡村ながおかむらの地(今の山城國乙訓郡日向町大字鷄冠井)。ほ〔註一〕長岡京を參照せよ ◯宮室未だ就らず 桓武かんむ天皇はその寵臣ちょうしん藤原ふじはら種繼たねつぐ建議けんぎを用ひられ、延曆えんりゃく三年十一月、宮殿も官廳かんちょう、長岡に遷都せんとせられた。その後もぞう長岡宮使ぐうし種繼たねつぐ以下をして、銳意えいい都城とじょう經營けいえいと宮殿の營造えいぞうに努めしめられたが、その翌延曆四年九月工事監督中種繼たねつぐ凶手きょうしゅたおれ、非命ひめいの死をぐるに至つたので、爾後じ ご、宮殿營造えいぞう工事は全く頓挫とんざするに至つた。『宮室きゅうしついまらず』とはこれを仰せられたのである。種繼たねつぐの死によつて、長岡宮ながおかのみやはつひに完成をみるに至らず、未完成のまま延曆十三年(皇紀一四五四年)平安へいあん遷都せんととなつたのである。詳くは〔註一〕長岡京をみよ ◯興作 しごとを盛んにおこす ◯徵發 强制的によび出して仕事を命ずる ◯功賃 工賃に同じ、てわざにたいする賃金。異說あり備考欄を參照せよ ◯優に ゆたかにの意、たりととのひて十分なること ◯勞煩 勞慟ろうどうをわづらはしと思ふ、勤勞きんろういとふ意 ◯役夫 えだちの人夫にんぷ、ぶやくにしたが役夫えきふ ◯短褐 ゆきたけの短きぬのこ。かつ賤者せんじゃの服をいふ。ぬのこ、粗服そふく ◯羸弱 身體しんたいのよわきこと、かよわき義 ◯軫む いたむ。うれへる、軫念しんねん ◯出擧 官府かんぷまたは私人しじんが、稻榖とうごく錢貨せんかを貸し出して利息をおさめしをいふ ◯正稅 正規の租稅そぜい ◯公廨 租稻そとうの幾部をき、これを出擧すいこして利息をおさめ、國衙こくがおよび諸國の用にきょうせしもの ◯息利 利息に同じ、利子 ◯ 公用、おほやけの費用すなわ官府かんぷ國衙こくがの費用。

〔註一〕長岡京 聖武しょうむ天皇ちょう遷都せんと計畫けいかくを立てられたが、つひに實現じつげんを見ず、くだつて桓武かんむ天皇に至り、延曆えんりゃく三年づ都を山背國やましろのくに乙訓郡おとくにごおり長岡ながおかうつしたまうた。天皇はかねて藤原ふじはら種繼たねつぐを信任したまふことが厚かつたので、種繼たねつぐの遷都建議けんぎれて、長岡遷都を決せられたのである。すなわち延曆三年五月丙戌ひのえいぬの十六日みことのりして中納言藤原ふじはら小黑麻呂おぐろまろ、藤原種繼、左大辨さだいべん佐伯さえき宿禰すくね今毛人いまけひとを長岡村につかはして地をそうせしめられ、翌六月種繼・今毛人等十人をぞう長岡宮使ぐうしとなし、都城とじょう經營けいえいし、宮殿を營造えいぞうせしめ、使つかい賀茂か も太神宮だいじんぐう(今の賀茂神社)に遣して遷都を告げ、また諸國にみことのりして同年の調ちょうようおよびみやの用材を長岡にまいらしめ給うた。ほまた諸國の正稅せいぜい六十八萬束まんそくを諸王・諸臣にたまはり、たく新京しんきょうに造らしめ、百姓ひゃくせいの私宅の新京しんきょうの地內にあるものをこぼたしめ、本國の正稅せいぜい四萬三千そくを以て、そのしゅたまふなどの事があつた。かくてこの年(三年)十一月、天皇長岡京ながおかのみやこに遷都せられ、造宮ぞうきゅう功勞こうろうのあつたものに位階いかい下賜か しせられたが、思ふに五月からこの月までは、わずかに七ヶ月の短時日たんじじつであるから、おそらく宮殿も官廳かんちょうもいまだ全く成らざるに、早くも遷都せられたのであらう。しかるに翌延曆四年八月、天皇舊都きゅうと平城な らにみゆきせられし留守中、一たいまつを照して宮殿工事を監督中の種繼は凶賊きょうぞくたつて傷をこうむり、九月二十三日を以て薨去こうきょした。かくて長岡京は宮殿いまだ成らざるに、その建議者にして實行じっこう者たる種繼が、非命ひめいたおるるに至つたので、遷都後八年をるもつひに完成をみるに至らず、延曆十一年、天皇には、和氣淸麻呂わけのきよまろ密奏みっそうにより、更に都を山背國葛野郡かどのごおりうつすの計畫けいかくをたてられ、同十三年七月、つひに平安京へいあんきょうに遷都せられたのである。

【大意謹述】ちん智德ちとく足らざる身をもつて、つつしんで天子の位にき、祖宗そそう大業たいぎょうをうけつぐにあたり、山背國やましろのくに長岡村ながおかむらの地は水陸の交通がはなはだ便利であるから、同地に都をつる事とした。そして延曆えんりゃく三年六月以來、銳意えいい宮殿營造えいぞうの工事を急がせたのであるが、事故が多くて今日こんにちに至るもいまだ竣功しゅんこうせず、いろいろの附帶ふたい工事なども多いので、その徵發ちょうはつをうくる民の苦痛は、さぞかし大きいであらうと、朕はつねに心配をして居る。それでなるべくこれ等の人を優遇して、工賃を高くしてやり、勤勞きんろういとふものがないやうにせよ。ことに聞くところによれば宮殿營造えいぞうのぶやくに從事じゅうじして居る人夫にんぷたちは、ゆきたけの短かい粗服そふくを身にまとひ、寒暑かんしょしのぐにも充分でないために、多くは健康を害して、身體からだ虛弱きょじゃくなものが多いといふ事である。まことに氣の毒な次第で、朕はこれをふたびに、深く心を痛めずにはれない。そこで、これ等の人夫にんぷを差出して居る國々にたいしては、今年の官府かんぷ貸與たいよ出擧すいこは、その正稅せいぜいたると公廨く げたるとを問はず、一切その利息を減ずるやうにせよ。たとへばいねそくを貸した場合には、その利息は五束としてそのうち二束は民にかえし、三束だけを官府かんぷの公用として納めさせるやうにせよ。このみことのりはっする前の分にたいしても、右の例に準じて、二束は民にかえし支給するやうにせよ。

【備考】『優其功』を六國史りくこくしは『優其功』に作るも、しばらく原本にしたがふ。また原本は『二還民』の二そくくも、六國史りくこくしその他にふ。

 このみことのり長岡京ながおかのみやこ營造えいぞう出役者しゅつやくしゃを優遇し、ほその正稅せいぜいおよび出擧すいこの利息を減ずるために下されたのであるが、長岡京造營ぞうえい桓武かんむ天皇の最も苦心せられしものであつた。天皇が熱心に督勵とくれいせられたにもかかわらず長岡京營造えいぞうが結局失敗に終つたのは、藤原ふじはら種繼たねつぐ遭難そうなんが最も大きな原因であつたことはあらそへない。しかし更にさかのぼれば、當時とうじ天皇ちょうほしいままにして、急速に勢力を得た種繼たねつぐと、舊族きゅうぞく大伴氏おおともしとの權力けんりょくあらそひ、それにまつはる皇太子早良親王さわらのしんのう廢立はいりゅう問題等によるもので、これ等の複雜な問題のために、當時とうじ天皇はいたく宸襟しんきんなやまし給うたのであるが、かかるうちにあつてもほ、ぶやくの人夫にんぷの上にまで大御心おおみこころをそそがせられ、かかる優渥ゆうあくなるみことのりたまわつたのである。

 長岡京ながおかのみやこ造營ぞうえいに、いかに役夫えきふが多く使用せられたかといふことは、日本紀しょくにほんぎ延曆えんりゃく四年七月のみことのりに『所役之夫。宜給其功。於是。和雇諸國百姓』とあるによつても知りうる。したがつて出役者しゅつやくしゃ勞苦ろうく徵發ちょうはつ負擔ふたんがいかに大きかつたかといふことも想像しうる。天皇がこれにたいして深く宸襟しんきんなやましたまひ、特に優詔ゆうしょうをしばしば下して、その勞苦ろうくをねぎらはれたのも、ゆえありといふべきであらう。