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61 豐稔賑恤の詔 桓武天皇(第五十代)

大日本詔勅謹解1 思想社會篇

豐稔ほうねん賑恤しんじゅつみことのり(延曆六年十月 續日本紀

朕君臨四海。于茲七載。未能使含生之民。共洽淳化。率土之內。咸致雍熙。顧惟虛薄。良用慙嘆。而天下諸國。今年豐稔。享此大賚。豈獨在予。思與百姓。慶斯有年。其賜天下高年。百歳已上。榖人三斛。九十已上。人二斛。八十已上。人一斛。鰥寡孤獨。疹疾之徒。不能自存者。所司准例加賑恤。仍各令本國次官已上。巡縣郷邑。親自給稟。又朕以水陸之便。遷都茲邑。言念居民。豈無騒然。宜免乙訓郡延曆三年出擧未納。其郡司主帳已上賜爵人一級。

【謹譯】ちんかい君臨くんりんすること、ここに七さいなり。いま含生がんせいたみをして、とも淳化じゅんかあまねくし、率土そっとうち雍熙ようきいたさしむることあたはず。虛薄きょはくかえりおもんみれば、まこともっ慙嘆ざんたんす。しかるに天下てんか諸國しょこく今年こんねん豐稔ほうねんにして、大賚たいらいく、ひとらんや。百姓ひゃくせいともに、有年ゆうねんよろこばむとおもふ。天下てんか高年こうねん、百さい已上いじょうには、こくひとごとに三ごく、九十已上いじょうには、ひとごとに二こく、八十已上いじょうには、ひとごとに一こくたまふ。鰥寡かんか孤獨こどく疹疾しんしつともがらにして、みずかそんするあたはざるものは、所司しょしれいじゅん賑恤しんじゅつくわへよ。りておのおの本國ほんごく次官す け已上いじょうをして、あがた郷邑きょうゆうめぐり、したしくみずかひんきゅうせしめよ。またちん水陸すいりく便べんあるをもって、ゆう遷都せんとせり。ここ居民きょみんおもふに、騒然そうぜんたることなからむや。よろしく乙訓郡おとくにのごおり延曆えんりゃく三年の出擧すいこ未納みのうめんじ、郡司ぐんじ主帳さかん已上いじょうしゃくひとごとに一きゅうたまふべし。

【字句謹解】◯四海 四方のうみ、てんじて天下の義。書經しょきょうに『會同』とあり ◯君臨 天子として民に臨む ◯七載 さいさいに通ず、ななとせ、七年。すなわ天應てんおう元年(皇紀一四四一年)四月先帝光仁こうにん天皇御不例ごふれいのため、桓武かんむ天皇卽位そくいせられてから、この歳(延曆六年、皇紀一四四七年)まで七年と仰せられしもの ◯含生 生命を含有するをいふ、民のまくらことば ◯淳化 じゅんは人情厚くあはれみ深きこと、德化とっか。あはれみ深き德化とっかの義 ◯率土 率土そっとひんの略。陸地のつづける限り、すなわち天下じゅうの意。詩經しきょう小雅しょうがへんに『溥天之下、莫非王土、之濱、莫非王臣』とあり ◯雍熙 やはらぎてたのしむこと。ように、に同じ、和樂わらくの意。張衡ちょうこう東京賦とうけいのふに『上下共其』とあり ◯虛薄 むなしくしてとくうすし。御自身を謙遜けんそんしていはれしお言葉 ◯慙嘆 ざんははづ、面目めんもくなく思ふこと、慚愧ざんぎたんはなげきかなしむ。すなわつてなげく意 ◯豐稔 榖物こくもつがゆたかにみのる ◯大賚 らいしょうたまふこと。大きなたまものすなわ豐稔ほうねんをさす。論語ろんごに『周有』とある ◯ 御自身のことを仰せられしもの。ただ天皇が御自身のことをと仰せらるるは近世以後はまれであるが、當時とうじはしばしばこの用例をみる。すなわ桓武かんむ天皇延曆えんりゃく元年七月のみことのりに『又顧彼有罪、責深在』とある如し ◯有年 五こくみな熟する意。有秋ゆうしゅう豐年ほうねんに同じ。春秋しゅんじゅうに『冬大』とある ◯ 量目ますめの十倍。すなわち一こくをいふ ◯鰥寡孤獨 かんは老いて妻なきもの、は老いて夫なきもの、は幼なくして父なきもの、どくは老いて子なきものをいふ。孟子もうしの語 ◯疹疾 麻疹はしかまたは疱瘡ほうそうをいふが、ここでは一般疾病しっぺいの意 ◯賑恤 にぎはしめぐむ、めぐみあたへる ◯次官 大寶令たいほうりょう官制かんせいによれば、官吏かんりの官とう長官か み次官す け判官じょう主典さかんの四等に分れてゐた。長官か みはその官衙かんが統轄とうかつし、次官す け長官か み輔佐ほ さし、判官じょうは文案を勘審かんしんし、主典さかんは文案を作り記錄きろくつかさどつた。すなわ四等官の第二位 ◯ あがた、國守こくしゅ任國にんこくをいふ。またゐなかの義もあり ◯郷邑 さと、むら、村里 ◯ 朝廷からたまわこくひんといふ ◯茲の邑 この村。すなわ山背國やましろのくに乙訓郡おとくにごおり長岡ながおか(今の山城國乙訓郡日向町大字鷄冠井の地)をいふ ◯遷都 みやこをうつす、すなわ延曆えんりゃく三年十一月、平城京ならのみやこから長岡京ながおかのみやこ遷都せんとせられしを指す。長岡京に就ては第六十三の〔註一〕を參照せよ ◯騒然 さわがしきさま ◯出擧 官府かんぷ稻榖とうごくまたは錢貨せんかを貸し出して、利息をおさめしをいふ ◯郡司 國司こくしの管下にありし地方官名、詳くは第二十二の〔註一〕をみよ ◯主帳 郡司ぐんじの第四等官すなわ大領か み少領す け主政じょう郡司ぐんじといひ、國司の命をうけて郡內の事務を司どつた。ほ第二十二の〔註一〕の項を參照せよ ◯ くらゐ、官等の意。

【大意謹述】かえりみれば、天應てんおう元年の卽位そくい以來、天子として四かいに君臨すること、もはや七年になるが、いまだ民にあはれみ深き德化とっかを及ぼすことが出來ず、また國內に和樂わらくこえを聞くことも出來ない。これは全くちんとくうすくむなしき結果であつて、それを思へばまことにはづかしく、民にたいして面目めんもくない次第である。しかるに、それにもかかはらず、今年は國中くにじゅう榖物こくもつがよくみのり、天のめぐみをうけたが、これは一に國民の努力にたいする天のたまものであつて、どうして朕一人の力のくするところであらうか。それで朕はこの豐年ほうねんの喜びを民を共にわかちたいと思おふ。その喜びのしるしとして、國中の高齡者のうち、百歳以上のものには、一人ごとに榖物三ごくづつを、九十歳以上のものには、一人ごとに榖物二こくづつを、八十歳以上のものには、一人ごとに榖物一石づつをあたへよ。又老いて妻なく夫なく子なきものや、幼なくして父をもたないものや、あるいは病氣などのために自分の力では生存してけないものなどたいしては、それぞれ係りの役人において、前例にしたがつて應分おうぶんめぐみをあたへよ。ほ右のことがよく徹底するやうに、諸國の次官す け以上の官吏かんりをして、それぞれ所管の村々を巡視させ、親しくそのものの手から、褒美ほうびの榖物を支給するやうにせよ。

 また朕は、この山背國やましろのくに長岡ながおかの地が、水陸交通の便がよかつたので平城京ならのみやこからここへ都をうつしたのであるが、いろいろと地元の民に騒ぎをさせ、大變たいへんに氣の毒に思ふ次第である。それで乙訓郡おとくにごおり延曆えんりゃく三年の出擧すいこのうち、まだ今日こんにちまで納めてゐない分は、全部これを免除し、主帳さかん以上の郡司ぐんじには、それぞれくらい一級づつを進めるやうにせよ。

【備考】古來、歷代天皇詔勅しょうちょくをみるに、その御自身のことを仰せられるには、つねに菲德ひとく虛薄きょはく寡昧かまい眇身びょうしん寡德かとく薄德はくとく等の謙辭けんじを用ひてられるが、桓武かんむ天皇本詔ほんしょうにおいて『虛薄きょはくかえりおもんみれば、まこともっす』と仰せられて居る如きは、國民としてまことにおそれ多き次第である。天皇は民にうれひあれば、つねにづその身を責めてられる。例へば延曆えんりゃく元年七月のみことのりにおいて『またかれに罪あるをかえりみるに、せき深くに在り』と仰せられし如きその例である。しかも國によろこびがあれば、そのこうげて民にしておいでになる。すなわ本詔ほんしょうにおいて『今年こんねん豐稔ほうねんにして大賚たいらいく、ひとらんや』と仰せられ、大賚たいらいのよつてきた所以ゆえんを、民の勤勞きんろうの功によるとしてられる如き、その御一例である。まことにありがたき大御心おおみこころと、申しあぐべきであらう。