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59 國司の私營田幷に墾闢を禁ずるの詔 桓武天皇(第五十代)

大日本詔勅謹解1 思想社會篇

國司こくし私營田しえいでんならび墾闢こんぺききんずるのみことのり(延曆三年十一月 續日本紀

民惟邦本。本固國寧。民之所資。農桑是切。比者諸國司等。厥政多僻。不愧撫道之乖方。唯恐侵漁之未巧。或廣占林野。奪蒼生之便要。或多營田園。妨黔黎之產業。百姓彫弊。職此之由。宜加禁制。懲革貪濁。自今以後。國司等不得公廨田外。更營水田。又不得私貪墾闢。侵百姓農桑地。如有違犯者。收穫之實。墾闢之田。並皆沒官。卽解見任。科違勅罪。夫同僚幷郡司等。相知容隱。亦與同罪。若有人糺告者。以其苗子。與糺告人。

【謹譯】たみくにもとなり。もとかたければくにやすし。たみところは、農桑のうそうせつなり。比者このごろしょ國司こくしまつりごとひがごとおおくして、撫道ぶどうほうそむくをぢず、ただ侵漁しんぎょいまたくみならざるをおそる。あるいひろ林野りんやめて、蒼生そうせい便要べんよううばひ、あるいおお田園でんえんいとなみて、黔黎けんれい產業さんぎょうさまたぐ。百姓ひゃくせい彫弊ちょうへいするは、もとこれる。よろしく禁制きんせいくわへ、貪濁たんじょくこらあらたむべし。いまより以後い ご國司こくし公廨く げでんほかさら水田すいでんいとなむをず。またひそか墾闢こんぺきむさぼり、百姓ひゃくせい農桑のうそうおかすをず。違犯いはんするものらば、收穫しゅうかく墾闢こんぺきならびみな沒官ぼっかんし、すなわ見任けんにんき、違勅いちょくつみせよ。同僚どうりょうならび郡司ぐんじあいりて容隱よういんせば、また同罪どうざいあたへよ。ひと糺告きゅうこくするあらば、苗子びょうしもって、糺告きゅうこくするひとあたへよ。

【字句謹解】◯民は惟れ邦の本なり 人民は國家組成そせいの根本であるの意。『民惟邦本』は尚書しょうしょの五うたに出づ ◯寧し やすし、泰平たいへい。天下がやすらかに治まる意 ◯資る それをもととする、それにたよつて ◯農桑 農業と養蠶ようさん業、しょくのもとをつくるわざ ◯國司 大寶令たいほうりょうによる地方官名、詳くは第二十一の〔註一〕をみよ ◯ ひがごと。よこしまなること ◯撫道 民をいつくしみ愛する道 ◯侵漁 れふしがうおとらふるやうに、次第に他人の物ををかし取るをいふ。漢書かんじょ帝紀せんていきの『詔曰、小吏皆勤事、而奉祿薄、欲無百姓、難矣』に出づ ◯蒼生 あをくさたみ、もろもろのくにたみ、人民 ◯便要 民の生活に必要な便益べんえきをいふ ◯田園 田や畑や園 ◯黔黎 もろもろの民、庶民をいふ。けんれいもともにくろの義、民は冠を用ひずして黑髪こくはつをあらはすので、てんじて庶民の意に用ふ。とう太宗たいそうの詩に『顧蒙四海福』とあり ◯彫弊 傷瘁しょうすいして物ごとがおとろへよわること。ちょうはしぼみよわる意でちょうに同じ。論語ろんご子罕しかんへんに『歳寒、然後、知松柏之後也』とある。の語は、魏志ぎ し帝紀みんていきの『百姓』に出づ ◯ もと、もつぱら、主としての意 ◯貪濁 貪婪たんらん濁惡じょくあく ◯公廨田 太宰帥だざいのそつ・諸國司こくし以下史生しせいに至るまで、官職の等差とうさしたがつて支給されし職分田しょくぶんでん、詳くは第四十八の〔註二〕をみよ ◯墾闢 開墾かいこん・開拓に同じ。力を用ひて田地でんちたがやしひらくこと ◯沒官 官において沒收ぼっしゅうすること ◯見任 けんげんに同じ。げんに任じられて居る官職 ◯郡司 國司こくし管下かんかにあつて郡を統轄とうかつせる地方官。詳くは第二十二の〔註一〕をみよ ◯容隱 ようはいれつつむ、すなわちつつみかくしてかばふこと。特にする義がある。書經しょきょう康誥こうこう『今之律令、大功已上得相』はその例である ◯糺告 罪悪を糺彈きゅうだんして告げ知らせる ◯苗子 なへたね、初生しょせいのもの。

【大意謹述】人民は國家組成の根本をなすものであるから、人民がそのやすんじてれば、國家は安泰あんたいである。そして民の衣食いしょくのもととなるものは、農業と養蠶ようさん機織はたおりわざとである。しかるにこのごろ、諸國の國司こくしの政治をみるに、よこしまなることが多く、しかも不心得ふこころえばんにも、自己の政治が民をいつくしみ愛する道にそむいて居ることをぢようとはせず、ただ民の物ををかし取り上げる技術の下手なことを心配し、勝手に廣大こうだいな山林や野原を獨占どくせんして、人民の生活に必要な便益べんえきを奪ひ取り、あるいはまた身は官吏やくにんでありながら、ひろい田畑でんばたをつくつて、民の產業なりわいを妨害して居るものが少くない。近年農夫がいちじるしく衰へ弱つて居るのは、主としてそのためである。それで今後は、かやうな國司の林野りんや獨占どくせんと、私田しでん經營けいえいとを堅く禁じ、その貪婪たんらん濁惡じょくあくとをこらあらためよ。今後國司こくしは、その支給された公廨く げでんほか、一切、わたくしの水田をいとなむことは出來ぬ。またひそかに林野を開墾かいこんして田をつくり、農業や養蠶ようさん業の邪魔をするやうなことがあつてはならぬ。もしこれを犯すものがあつたならば、その田からとれたものも、開墾した田も、すべて官において沒收ぼっしゅうし、當人とうにん現官げんかん罷免ひめんした上、違勅いちょくの罪をもつて處罰しょばつせよ。もしそのなかまの國司や郡司ぐんじが、じょうを知つてことさらにそれを包みかくして庇護ひ ごするものが有つたならば、そのものも同罪とせよ。もしまた、かやうな國司の不正を、糺明きゅうめいして告げ知らせるものがあつたならば、褒美ほうびとしてその苗を、知らせた人にあたへるやうにせよ。

【備考】このみことのり當時とうじ時弊じへいの一たる國司こくし林野りんや獨占どくせんと、私田しでん經營けいえいとを嚴禁げんきんして、民のくるしみをすくはれしものである。『あるいは多く田園をいとなみて、黔黎けんれいの產業を妨ぐ』と仰せられて居るのは、先に文武もんぶ天皇が『王公諸臣しょしん、多く山澤さんたくめ、耕種こうしゅこととせず、競ひて貪婪たんらんいだき、空しく地の利を妨ぐ』(第十九參照)と仰せられて居るのと全く同じ御趣旨である。ほこのみことのり延曆えんりゃく三年十一月庚子かのえねの三日に下されたのであるが、その後數日すうじつにして天皇には、同月戊申つちのえさるの十一日、元明げんみょう天皇和銅わどう二年(皇紀一三六九年)以來七十六年間の帝都として由緒の深い平城京ならのみやこを後に山背國やましろのくに長岡宮ながおかのみや(今の山城國乙訓郡日向町鷄冠井)に移幸いこうせられた。本文ほんもん『收穫之實』のを、原本に作る。三代格だいきゃくおよび六國史りくこくしよって改む。