32 農蠶を勸むるの詔 元正天皇(第四十四代)

農蠶のうさんすすむるのみことのり(養老七年二月 續日本紀

乾坤持施燾載之德以深。皇王至公亭毒之仁斯廣。然則居南面者。必代天而闢化。儀北辰者。亦順時以涵育。是以朕巡京城。遙望郊野。芳春仲月。草木滋榮。東候始啓。丁壯就隴畝之勉。時雨漸澍。有蟄蠢浴灌之悅。何不流寬仁。以安黎元。布淳化而濟萬物乎。宜給戸頭百姓。種子各二斛。布一常。鍫一口。令農蠶之家永無失業。宦學之徒專忘私。

【謹譯】乾坤けんこんほどこして、燾載とうさいとくもっふかく、皇王こうおう至公しこうにして、亭毒ていどくじんここひろし。しかればすなわち、南面なんめんものは、かならてんかわつてひらき、北辰ほくしんのっとものは、ときしたがひ、もっ涵育かんいくすべし。ここもっちん京城けいじょうめぐり、はるか郊野こうやのぞむに、芳春ほうしゅん仲月ちゅうげつ草木そうもくしげさかえ、東候とうこうはじめてひらけ、丁壯ていそう隴畝ろうほつとめき、時雨じ うようやうるおひ、蟄蠢ちつしゅん浴灌よっかんよろこびあり。なん寬仁かんじんき、もっ黎元れいげんやすんじ、淳化じゅんかきて萬物ばんぶつすくはざらんや。よろしく戸頭ことう百姓ひゃくせいに、種子しゅし各々おのおのこくぬのじょうくわ一口ひとふりきゅうし、農蠶のうさんいえをして、ながぎょううしなふことなく、宦學かんがくをして、もっぱわたくしわすれしむべし。

【字句謹解】◯乾坤 えきの二つのてんじて天と地とをいふ ◯燾載の德 とうはあまねくおほひてらすこと、すなわあまねく民をおおてらとく ◯皇王至公 皇王こうおうは天子。至公しこうはきはめて公明正大なること ◯亭毒の仁 亭毒ていどくはそだてやしなふこと、化育かいく存養ぞんようの意。ていはその形をひんするをいひ、どくはその質を成すをいふ。老子ろうしの第五十一章に『故道生之、德畜之、長之育之、之、養之覆之』とあり。じんはなさけ、あはれみ、おもひやり。すなわ亭毒ていどくじんとは民をそだて養ふなさけの義 ◯南面に居る者 天子の意。天子の御座みくらいは南の陽に向ふ故に、天子の位を南面なんめんといふ ◯化を闢く 明君めいくん聖人せいじんの民を善き方に導き移すをといふ、德化とっか敎化きょうか德化とっかをひらくこと ◯北辰に儀る 論語ろんご爲政いせいへんの『子曰。爲政以德。譬如居其所、而衆星共之』の語よりでしもの、北辰ほくしん北極星ともは向く意。すなわまつりごとをなすに德を以てすれば、多くの星が北極星の方を向いて居るやうに、人民も一ように君主の方を向き仰いで、その德をたたへるであらうとの意。南面、北辰は對句ついく ◯涵育 かんはひたす、ひたし育てる。涵養かんように同じ ◯京城 天子のゐますところ、皇居・宮城きゅうじょうてんじてみやこ、京師けいし。ここでは平城京ならのみやこをいふ ◯郊野 こう郭外くるわそと、町つづきのゐなか。しゅうの制によれば國都こくとる五十以內を近郊きんこう百里以內を遠郊えんこうといつた(支那の一里は凡そわが六町)。すなわちここの平城京ならのみやこの町はづれののべの意 ◯芳春の仲月 春三ヶ月(陰曆の正月を孟春、二月を、三月を季春といひ、略して三春ともいふ)の中の月、卽ち陰曆いんれき二月をいふ。仲春ちゅうしゅん中春ちゅうしゅん仲陽ちゅうように同じ ◯滋く さかえしげれること ◯東候 とうは春、五行說ぎょうせつにて東は春にあたるが故にいふ、春の神を東君とうくんとよぶ。こうは一年を七十二に分ちたる時節のしょうてんじて時節の義。卽ち東候とうこうとは春の時節の意 ◯丁壯 壯年そうねんの男子、わかもの。男子とし二十はたちになるを成丁せいていといふ ◯隴畝の勉 ろうはをか(丘)・うね・はたけ(畝)で隴畝ろうほははたけ。つとめは務めに同じ。はたけの務めすなわち耕作にしたがふ意 ◯時雨 ふるべき時にふるよき雨。禮記らいきに『天降、山川出雲』とあり。また國語にて秋冬あきふゆの際に、降りみ降らずみする雨を時雨しぐれといふが、ここでは、前者の意 ◯蟄蠢 ちつ蟲類ちゅうるい土中どちゅうなどにかくれる意、冬ごもりする。しゅんむしのうごめくこと。すなわち冬ごもりせるむしが、春になつてうごめきいづること ◯浴灌の悦び 水をあびるよろこび。卽ち長い間地中に冬ごもりしてゐたむしが地上にはひいでて、はじめて渇いてゐた水をあびたよろこびの意。かんは水をそそぎかけること ◯寬仁を流く 寬仁かんじんは心ひろくあはれみふかきこと。くはくに同じ。卽ち心ゆるやかにして、あはれみ深き政治を布く意 ◯黎元 もろもろの人民、國民。黎庶れいしょ黎首れいしゅ百姓ひゃくせいに同じ ◯淳化 じゅんはきよくすなほ、まこと、人情あつきこと。すなわちきよく人情あつき敎化きょうか(德化)の意 ◯戸頭 家毎いえごとの主人、けんべつの戸主こしゅ。一軒一軒のあるじの意 ◯ 量目りょうもくの十倍すなわち一こく ◯ ひろ(八尺)の二倍の長さ卽ち一じょう六尺をいふ ◯ くわに同じ、土を堀り起す農具 ◯宦學の徒 かんはみやづかへすること、仕宦しかんすること。かみつかへる道を學ぶを宦學かんがくといふ。はともがら。曲禮きょくらいに『事師、非禮不親』とあり。

【大意謹述】天下を治める天子は、あまねく人民をおほひ照すほどの大きな德をもつて、民にのぞまねばならぬ。まつりごとをとるにあたつて、天子がきはめて公明正大であれば、民をそだて養ふなさけは初めてひろく大きくなるであらう。故に天子の位に居るものは、天に代つて德化とっかをひらき、時にしたがつて民をいつくしみ育てねばならぬ。さうすれば、多くの星が自然に北極星の方を向いて居るやうに、人民もまた一やうに君主の方を向き仰いで、その德をたたへるであらう。そこでちんいま、平城京ならのみやこ周圍しゅういをめぐり、はるかに町はづれの野邊の べを見わたすに、時はちやうど陰曆いんれき二月春のまなかで、草や木が靑々としげりさかえ、わかものたちは畑の仕事にせいを出し、春雨がほどよく降つて地もようやくうるほひ、長い間地中に冬ごもりしてゐたむしも地上にはひ出して來て、渇いてゐた水をあびてよろこんで居るかのやうである。この時にあたり、朕は心ゆるやかにあはれみ深き政治をいて人民を安心させ、きよく人情あつき敎化きょうかをもつて、萬物ばんぶつを救ふやうにするであらう。すなわち家々の主人には皆一やうに、榖物こくもつの種子を二こく(二石)、布を一じょう(一丈六尺)、くわ一丁づつを支給して、農業や養蠶ようさんをいとなむものに、永くなりわいを失はせないやうにするであらう。また官に仕へる役人どもは、わたくし利益りえきおさめる心をなくして、公明な心がけをもつやうにせねばならぬ。