28 直言を納るるの詔 元正天皇(第四十四代)

直言ちょくげんるるのみことのり(養老五年二月 續日本紀

朕德菲薄。導民不明。夙興以求。夜寐以思。身居紫宮。心在黔首。無委卿等。何化天下。國家之事。有益萬機。必可奏聞。如有不納。重爲極諫。汝無面從退有後言。

【謹譯】ちんとく菲薄ひはくにして、たみみちびくことめいならず。つときてもっもとめ、よわねてもっおもふ。紫宮しきゅうれども、こころ黔首けんしゅにあり。卿等けいらゆだぬることなくんば、なん天下てんかせん。國家こっかこと萬機ばんきえきあらば、かなら奏聞そうもんすべし。れざることあらば、かさねて極諫きょっかんせ。なんじ面從めんじゅうして退しりぞいて後言こうげんあることなかれ。

【字句謹解】◯德菲薄 とく君德くんとく、帝王としての德。はくも共にうすし。帝王としての德がうすいと謙遜けんそんされし御言葉、菲德ひとくに同じ。禮記らいきに『君子不以貧窶廢禮』とあり ◯夙に興き つとは早朝、朝はやく。こうに同じ、おく、起きる。すなわち朝はやく起きる意。詩經しきょう小雅篇しょうがへんに『夙興夜寐』とあり ◯夜に寐ね 夜半よ わの意、よなかに。夜おそく。はいぬ、まどろむ、す。いこふ。すなわおそくねること。本文の『つとにおきてよわにいね』は詩經しきょうにある語で、すなわ小雅篇しょうがへん小宛しょうえんに『、無忝爾所生』と見ゆ ◯紫宮 星の紫微垣しびがきを以て帝居ていきょに比するが故に、ひろく宮禁きゅうきん(皇居)を紫禁しきんまたは紫宮しきゅうといふ、紫極しきょく紫禁しきんに同じ。また禁中きんちゅう正殿せいでん(南殿)を紫宸殿ししいでんといふ ◯黔首 もろもろの民、百せい、人民。けんれいで、民は冠を用ひずして黑髪くろかみをあらはすから、しんは民をと呼んだ。一說には民は黑巾くろきれを以て首をおおふ故に、黔首けんしゅとよぶともいふ。史記し き皇紀しこうきに『更名民曰』とあり。黔黎けんれい黔首けんしゅ黔庶けんしょいづれも同義 ◯化す 天子または聖人が民族を善導して、善い方に移しへるをいふ、敎化きょうか德化とっかの意。また化洽かごうの意で國中くにじゅうをめぐみうるほすことにも用ふ ◯萬機 萬事ばんじ機微き びつつしむ義で、てんじて國家のまつりごとをいふ。萬機ばんきはおほくのまつりごと ◯奏聞 天子に言上ごんじょうすること。◯極諫 言葉をきはめていさめる。强く諫言かんげんすること ◯面從後言 面從めんじゅうは人のめのまへのみにて、へつらひしたがふ。後言こうげんは人の前を退いてのち、かげで惡口をいふ。すなわち目の前ではへつらひしたがつて置きながら、かげで惡口をいふこと。本文の『汝無面從退有後言』は書經しょきょうの語、すなわ書經しょきょう益稷篇えきしょくへんに『予違汝弼、退、欽四鄰』とあり。

【大意謹述】ちん、帝王の德うすくして、しかも民を導くに聰明そうめいでない。それ故つねに國家のまつりごとを憂へ、朝は早く起きてよい政治を行ふための進言しんげんを求め、夜はおそくねて民のことを思ひわづらふ。朕の身は九重ここのえの奥にあるが、心はいつも民の上にあるのである。御身等おんみら(王公諸臣を指されしもの)のよきたすけをからずして、どうして天下を治めることが出來るだらうか。それで何事でも、國家のためになることであつたならば、氣づきのものより遠慮なく申し出でよ。その言葉が正しいのに、もし朕がこれを用ゐなかつたならば、重ねて强く諫言かんげんせよ。御身等おんみらは決して、朕の目のまへだけへつらひ從つて、退下たいげしたのちかげ口などをきくやうなことがあつてはならぬ。

【備考】このみことのりは、簡單ではあるが、まことに御意義深くはいすべきである。『つときて以て求め、よわねて以て思ふ。身は紫宮しきゅうれども、心は黔首けんしゅにあり』と仰せられし如きは、天皇行住ぎょうじゅう坐臥ざ がの間でも、いかに國民の上を御軫念ごしんねんあらせられたかといふことを知るに充分である。御女性おんにょしょうにましませし天皇には、特に仁慈じんじ御心みこころに富ませられ、民をいつくしみ給ひし御事蹟ごじせきも極めて多いが、有名な養老ようろう孝子こうし年號ねんごう改元かいげん御物語おものがたりの如きも、御聖德ごせいとくを忍びまつるに足るものであらう。『養老孝子』について十訓抄くんしょうは次のやうに記してゐる。

 むかし元正げんしょう天皇御時おんとき美濃國みののくにに貧しきおのこありけるが、老いたる父をもちたり。このおのこ、山の草木をとりてあたいを得て父を養ひけり。この父、朝夕、あながちに酒を愛しほしがる。これによりておのこ瓢簞なりひさごといふものを腰につけて、酒をる家にきて、つねにこれを乞ひて父を養ふ。或る時山にりてまきをとらんとするに、苔深き石にすべりて、うつぶしにころびたりけるに、酒のしければ、思はずあやしとて、そのあたりをみるに、石の中より水流れ出づることあり。その色酒に似たり。汲みてむるに、でたき酒なり。嬉しくおぼえて、その後日々にこれを汲みて、飽くまで父を養ふ。時の帝、このことを聞こし召して、靈龜れいき三年九月に、その所へ行幸ぎょうこうありて御覽ごらんじけり。これすなわ至孝しこうの故に、天神てんしん地祇ち ぎあわれみて、その德を現ずと感ぜさせたまひて、のち美濃守みののかみになされけり。その酒の出づる所をば、養老のたきとぞ申す。つはこれによりて、同十一月に年號ねんごうを養老と改められける。と

 この一文は古今著聞ちょもん集にもする所で、元正げんしょう天皇靈龜れいき三年九月、美濃國みののくに行幸あり、當耆郡たきごおり(今の養老郡)多度山たどのやま美泉びせん御覽ごらんあり、物を五位以上のかごしたがへるものにたまひ、つ同年十一月みことのりして、年號ねんごう養老ようろう改元せられたことは事實じじつである。しかし孝子こうしを以て美濃守みののかみとせられし事は、國史に所見なく恐らく後人こうじん附會ふ えであらう。となれば、如何い か孝子とはいへ、山間の樵夫きこりにわかに登用して、じゅ位下いのげの官を授けられるといふこは有りえないからである。また酒と養老のたきとを同一物とみるのも誤りで、瀑布ばくふ醴泉れいせんとは別の物でなければならぬ。延喜式えんぎしき(治部式)の大瑞たいずいもとに『醴泉れいせん美泉びせんなり、その味美甘びかんにして、さま禮酒れいしゅの如し』とあるから、恐らく普通の水ではなくて、今日こんにちの炭酸泉などの湧出ゆうしゅつしたものであらう。いま養老瀧ようろうのたき下數町しもすうちょう養老神社の境內に、俗に菊水となづくる泉流があり、ひろさ三四坪深さすう尺、旱時ひでりにも乾涸かんこせないといふが、これがいはゆる養老の醴泉であらうといはれて居る。

 思ふに、醴泉れいせん發見はっけんをもつて大瑞たいずいとするのは、支那し な古來の慣例で、唐代には嘉瑞かずいを以て四等となし、醴泉はこれを大瑞に列したので、わが國でもこれに準じ、この醴泉發見はっけんをもつて大瑞となし、養老と改元せられたものであらう。改元とともに天皇には特にみことのりして、八十歳以上の老人に位一階を授けられ(五位以上)、また一般老人にたいしても、八十歳以上のものには、それぞれあしぎぬ綿わた・布・たなつものなど下賜か しせられ、孝子こうし節婦せっぷを表彰し、鰥寡かんか惸獨けいどく疾病しっぺい貧窮ひんきゅうの民を、あまねく賑恤しんじゅつあらせられたのである。