26 皇太子輔佐の任を命ずるの詔 元正天皇(第四十四代)

皇太子こうたいし輔佐ほ さにんめいずるのみことのり(養老三年十月 續日本紀

開闢已來法令尙矣。君臣定位運有所屬。洎于中古雖由行未彰綱目。降至近江之世。改張悉備。迄於藤原之朝。頗有增損。由行頻改。以爲恆法。由是。稽遠祖之正典。考列代之皇綱。承纂洪緒。此皇太子也。然年齒猶稚。未閑政道。但以握鳳曆而登極。御龍圖以臨機者。猶資輔佐之才。乃致太平。必由羽翼之功。始有安運。況乃舍人親王新田部親王。百世松桂。本枝合於昭穆。萬雉城石。維磐重乎國家。理須吐納淸直能輔洪胤。資扶仁義信翼幼齡。然則太平之治可期。隆泰之運應致。可不愼哉。今二親王宗室年長。在朕旣重。實加褒賞。深須旌異。然崇德之道。旣有舊貫。貴親之理豈無於今。其賜一品舍人親王。內舍人二人。大舍人四人。衞士三十人。益封八百戸。通前二千戸。二品新田部親王。內舍人二人。大舍人四人。衞士二十人。益封五百戸。通前一千五百戸。其舍人以供左右雜使。衞士以充行路防禦。於於戲欽哉。以副朕意焉。凡在卿等。竝宜聞知。

【謹譯】開闢かいびゃく以來いらい法令ほうれいひさし。君臣くんしんくらいさだめ、うんぞくするところあり。中古ちゅうこおよぶまで、おこなふといえども、いま綱目こうもくあきらかにせず。くだつて近江おうみいたり、改張かいちょうことごとそなはり、藤原ふじはらちょういたりて、すこぶ增損ぞうそんあるも、おこなひてしきりにあらため、もっ恆法こうほうす。これにりて遠祖とおつみおや正典せいてんはかり、列代れつだい皇綱こうこうかんがへ、洪緒こうしょ承纂しょうさんするは、皇太子こうたいしなり。しかれども年齒ねんしわかく、いま政道せいどうならはず。おもんみるに鳳曆ほうれきにぎりてたかみくらのぼり、龍圖りゅうとぎょもっまつりごとのぞむは、輔佐ほ ささいる。すなわ太平たいへいいたすは、かなら羽翼うよくこうり、はじめてうんやすんずることあらん。いわんすなわ舍人とねり親王しんのう新田部にいたべ親王しんのうは、百せい松桂しょうけい本枝ほんじ昭穆しょうぼくひ、萬雉ばんち城石じょうせきいわおのごとく國家こっかおもきをや。すべからく淸直せいちょく吐納とのうし、洪胤こういんたすけ、仁義じんぎ資扶し ふし、まこと幼齡ようれいたすくべし。しからばすなわ太平たいへいすべく、隆泰りゅうたいうんまさいたすべし。つつしまざるべけんや。いま親王しんのう宗室そうしつ年長ねんちょうちんつてすでおもし。まこと褒賞ほうしょうくわへ、ふかすべからく旌異せいいすべし。しかれどもとくとうとぶのみちすで舊貫きゅうかんあり。しんとうとぶのあにいまになからんや。れ一ぽん舍人とねり親王しんのうには、內舍人うどねりにん大舍人おおとねり四人、衞士え じ三十人、ふう八百し、まえつうじて二千を。二ほん新田部にいたべ親王しんのうには、內舍人うどねり二人、大舍人おおとねり四人、衞士え じ二十人、ふう五百し、まえつうじて一千五百たまふ。その舍人とねりもっ左右さゆう雜使ぞうしそなへ、衞士え じもっ行路こうろ防禦ぼうぎょつ。於戲あ あつつしめよや。もっちんへよ。すべ卿等けいらりて、ならびよろしく聞知もんちすべし。

【字句謹解】◯開闢以來 天地のひらけはじめこのかた。建國よりこのかた ◯法令 のり、おきて ◯尙し ひさし。久し、古しの意 ◯ 用ゐること、運用する ◯中古 なかむかし、中世。上古じょうこ近古きんことの中間、詳しくは〔註一〕を見よ ◯綱目 こうは大づな、もくはこまかき目、物事のすべくくりと小分けとの意 ◯近江の世 天智てんち天皇御世み よを指す、天皇近江おうみ志賀し がみやこしたまひしによる。詳しくは〔註二〕を見よ ◯改張 改訂かいていびい擴張かくちょうちょうちょうに通じ張りて大きくすること ◯藤原の朝 文武もんむ天皇御代み よを指す。天皇大和國やまとのくに高市郡たかいちごおり鴨公村かもきみむら高殿たかどのなる藤原宮ふじはらのみやにおはせしによる ◯增損 加除かじょ訂正ていせいせる意。近江朝廷における天智天皇大化たいか改新かいしんが、天武てんむ文武もんむ兩帝りょうていにより更に改訂增減ぞうげんされし史實しじつを指す ◯恆法 つねののり、つねのきまり。一定してかわらざるきまり、恆式こうしき恆格こうかく恆準こうじゅん等に同じ ◯正典 てんはぎしき・のり・おきて。すなわち正しきのり ◯稽へ 考へに同じ、考察すること ◯列代 歷代れきだいに同じ、御歷代ぼごれきだい天皇 ◯皇綱 こうはおほづな・おほぐくり・おほもと、すなわちすめらぎのみちの意 ◯洪緒 こうは大きな、しょは事業、すなわち偉大なる事業。洪基こうきに同じ。張敍敬賦ちょうじょけいふに『開帝王之』とある。天位てんい天皇の位の意 ◯承纂 しょうはうく。うけつぐ。さんもうく、うけつぐ、漢書かんじょ敍傳じょでんに『堯之緒』とあり。すなわ承纂しょうさんはうけつぐ、天位てんいをつぐこと。用例としては後漢書ごかんじょ樂恢傳らっかいでんに『陛下富于春秋、大業』とあり。纂承さんしょうに同じ ◯皇太子 〔註三〕を見よ ◯年齒 よわい、とし、年齡 ◯閑ふ ならふ、習ふ、習熟しゅうじゅくする意。なれて上手になること、ならふに同じ ◯鳳曆 こよみの意、鳳凰ほうおうく天の時を知るを以ていふ。杜甫と ほの「韋左相に上るの詩」のなかに『軒轅紀、龍飛四十春』とある ◯極に登る きょくははて、天の意でてんじて天子のみくらゐをいふ。すなわち天子の位にくこと、登極とうきょく卽位そくい登祚とうそに同じ ◯龍圖 神龍しんりゅうを負うて黄河から出た瑞祥ずいしょうをいふ。竹書ちくしょ紀年きねんに『出河、龜書出洛』とある ◯ まつりごと、政治・政權せいけん萬機ばんきはよろづの政治で、天下の政治、帝王の政務をいふ ◯輔佐 たすけ、うしろみする ◯羽翼 はねと、つばさと。てんじてたすける義。六とうに『王者帥師、心有股肱、以成神威』とあり ◯舎人親王 〔註四〕を見よ ◯新田部親王 〔註五〕を見よ ◯百世松桂云々 書經しょきょう大雅篇たいがへんに『本枝云々』とあるにる。松桂しょうけいは松の木とかつらの木。松は長壽ちょうじゅにして歳寒さいかんにも色をへず、桂は萬木ばんぼくひいでて香たかきより、てんじて偉大にして尊重すべき意 ◯昭穆 宗廟そうびょうの制、中央に太祖たいそびょうがあり、昭穆しょうぼくはその左右に排列す。左をしょうとし右をぼくとする。父はしょう(昭は一世)・子はぼく(穆は二世)、先後せんご相次ぐ。また族人ぞくじん次序じじょするにも、昭穆しょうぼくの位を以てする。禮記らいき王制篇おうせいへんに『天子七廟、三、與太祖之廟而七』とあり。ほ『』とは、禮記らいき祭統篇さいとうへんに『者所以別父子遠近長幼親疏之序、而無亂也』とあり、太祖たいそからかぞへてしょうならばしょうぼくならばぼくと、同じ昭穆しょうぼくの列にまつらるべき順位にあるをといふ ◯萬雉城石云々 萬雉ばんちは高大なる王城おうじょう・皇居をいふ。は城のかきの意で、かきの長さ三じょう、高さ一丈なるをいふ。班固はんこ西都賦せいとふに『建金城之』とあり。すなわち高大なる城の礎石そせき大磐石だいばんじゃくなる如く、國家に重きをなすの意 ◯維磐 これいわおすなわいわおの如く重き意。類例るいれい= これ城、すなわち城の如くまもりになるものの意で嫡子ちゃくしをいふ如し ◯洪胤 皇胤こういんに同じ、天子の子孫。ここでは皇太子を指す ◯仁義 仁愛と正義。あはれみとすぢみちと。人の履行りこうせねばならぬ道德 ◯資扶す たすけあたへてまもる、ささへて保護する。資治し ち(國家を治めるたすけとする)と扶翼ふよく(そばにゐてたすける)の意 ◯幼齡 年少のもの、よはひ幼きもの。ここでは皇太子の意 ◯ 天下のよく治まれるさま ◯隆泰 國家がさかんになり泰平たいへいに治まる。隆昌りゅうしょう安泰あんたいと ◯宗室 一族の總本家そうほんけすなわち君主の一族をいふ。皇室・帝室ていしつに同じ。後漢書ごかんじょ皇后紀こうごうきに『錄功臣睦』とある ◯旌異 はひいですぐれること、異能いのう異才いさいの如し。せいはあらはす、表彰すること。すなわのすぐれて居ることをめあらはす ◯舊貫 かんかんに通ず。ならはし、しきたり、習慣、風習。すなわち古くからのならはし、昔からのいきたり ◯ みより、みうち ◯一品 親王しんのうの第一階をいふ。大寶令たいほうりょうによれば、諸王以上の位階いかいは、親王は四階(一品・二品・三品・四品)に、諸王は十四階に分たれて居る。いま大寶令の官位令かんいれいに基き、親王四階の官位相當そうとう表を示せばの如くである。

 太政だじょう大臣、左右さ う大臣、大納言だいなごん太宰帥だざいのそつ・八省卿しょうのかみ

內舍人 うどねり。大寶令たいほうりょうによる八しょうの一たる中務省ちゅうむしょうぞくせし官。公家こうけの子弟を登庸とうようして、禁裏殿上きんりでんじょうのことをならはしたるもの、ほ次の大舍人おおとねりを參照せよ ◯大舍人 太禪たぜんいて左右に近侍きんじする上古じょうこ職官しょっかんで、皇子おうじ・諸王に奉仕するを舍人とねりといひ、天皇に奉仕するを大舍人おおとねりといつた。舍人とねりともともいひ、その後特に皇太子の左右に近侍きんじする舍人とねり東宮とうぐう舍人とねりとよび、大寶令たいほうりょうによれば東宮とうぐう舍人とねりは六百人と制定せられてゐる ◯衞士 ゑじ、文武もんむ天皇大寶たいほう元年に制定されたもので、諸國の軍團ぐんだんの兵士が毎年交替して上京し、禁闕きんけつを守つた。その兵士を衞士え じと呼び、衞士府え じ ふつかさどる所であつた。ち誤つて仕丁しちょう(諸官司の雜役に使役せられし賤役者、卽ちつかひのよぼろ)を衞士え じとよんだが、これは誤りである ◯雜使 雜役ざつえきに使ふこと ◯行路の防禦 往復の途中を警固けいごする ◯於戲 ああ、於皇あ あに同じ。感歎かんたんの情を表はしてはっする語 ◯欽め つつしめ、おそれつつしめ、うやまひつつしめの意 ◯卿等 舍人とねり親王しんのうおよび新田部にいたべ親王しんのうのお二方を呼ばれしもの。

〔註一〕中古 今日こんにちでは日本歷史上の中古ちゅうことは、普通、孝德こうとく天皇から安德あんとく天皇壽永じゅえい四年までの五百四十年間、もしくは大化たいか改新かいしんから源賴朝みなもとのよりとも總追捕使そうついぶしとなりしまでの間を呼んで居る。しかしここでは元正げんしょう天皇とお呼びになつて居るのであるから、まづ上古じょうこ以來、蘇我氏そ が しの滅亡ごろまでをお指しになつたものと解すべきであらうか。更に詳しくいへば、大和やまと朝廷時代、すなわ上古じょうこから第三十五代皇極こうきょく天皇御代み よごろ迄を中古ちゅうことせられ、近江おうみ朝廷を含む律令りつりょう制定時代、すなわち第三十六代孝德こうとく天皇から、第四十二代文武もんむ天皇ごろまでを近古きんことせられ平城な ら遷都せんと以降を現代とせられしものと拜察はいさつすべきであらうか。

〔註二〕近江の世 天智てんち天皇志賀し が大津おおつみやこせられたので、世にこれを近江おうみ朝廷と呼ぶ。これより皇紀こうき一三二一年七月、齊明さいめい天皇筑前ちくぜん朝倉宮あさくらのみや崩御ほうぎょせらるるや、皇太子中大兄皇子なかのおおえのおうじすなわ素服そふくして制をしょうし、天皇を大和に送り、嬪宮ひんきゅう飛鳥あすか川原かはら(大和國高市郡高市村大字川原)にたてて、これに仕へたまふこと六年稱制しょうせい六年(皇紀一三二七年)二月、先帝を越智お ちおか(同郡越智岡村大字車木)に葬り、三月都を近江の志賀(今の大津市の北方)にうつして大津宮おおつのみやといひ、翌七年正月、この宮に卽位そくいせられた。すなわち第三十八代天智てんち天皇これである。從來じゅうらい歷代帝都はおほむね大和地方にあつたが、このちょう、特に近江に都したまうたので世にこの御世み よ近江おうみ朝廷といふ。天皇中臣鎌足なかとみのかまたりはかつて蘇我そ が氏を滅ぼしたまひし以來、皇極こうきょく齊明さいめいの二代の間、太子として大政たいせいを執り、氏族しぞく制度をとどめ、郡縣ぐんけんの制を立て、つひに大化たいか改新かいしんを完成したまうた。天皇かく英邁えいまいを以てく新政を斷行だんこうし、はんを後世にれ給うたので後人こうじん神武じんむ天皇太祖たいそと申し上げるのにたいして、天皇中興ちゅうこう英主えいしゅと呼びまつるに至つた。後世、十りょうの制を定めたまふに及び世數せすうるにしたがつて、順次十りょうの內から除くを法としたが、天智てんち天皇のみは、歷代、十りょうの內に列し、永く奉幣ほうへいち給はなかつたのである。精確せいかくへば、近江にみやこしたまうたのは天智てんち天皇に始まるのではなく、成務せいむ天皇は今の滋賀郡坂本村穴太あなふ(辛崎の近傍)の地に都して滋賀高穴太宮しがのたかあなふのみやといひ、景行けいこう天皇もこの宮に居たまひしことあり、仲哀ちゅうあい天皇もこの宮にて践祚せんそせられたが、通常、近江朝廷といへば、天智てんち天皇志賀しが大津宮おおつのみやを指す。

〔註三〕皇太子 のち聖武しょうむ天皇(文武天皇の第一皇子)を指す。太子は武帝もんむてい大寶たいほう元年(皇紀一三六一年)の御降誕ごこうたんであらせられるから、このみことのりを下された養老ようろう三年(皇紀一三七九年)には、御年おんとし十九歳であらせられたわけである。

〔註四〕舍人親王 とねりしんわう。天武てんむ天皇の皇子で、母は新田部にいたべ皇女こうじょ(天智天皇の女)である。元正げんしょう天皇養老ようろう二年一ぽんを授けられ、みことのりほうじて「日本書紀」を編修し、四年五月これを天皇たてまつられた。ついで太政だじょう官事かんじとなり、天平てんぴょう七年十一月こうぜられたが、太政だじょう大臣を贈られ、更に天平てんぴょう寶字ほうじ三年追尊ついそんして、崇道すうどう盡敬じんけい皇帝と申した。

〔註五〕新田部親王 にひたべしんわう。天武てんむ天皇皇子おうじで、穂積ほづみ親王しんのうの弟である。母は藤原ふじはら五百重い お えじょで、文武もんむ天皇の四年に淨廣貳じょうこうじを授けられ、親王となり、二ほんじょせられた。養老ようろう三年十月、舎人とねり親王と共に、元正げんしょう天皇みことのりほうじて、皇太子を補佐せられしことは、このみことのりに明らかなる通りである。聖武しょうむ天皇卽位そくいせらるるや、更に一ぽんに進まれ、天平てんぴょう三年畿內きない大總管だいそうかんとなり、同七年九月こうぜられた。

【大意謹述】建國よりこの方、すでに法令の行はれて居ることも久しく、それによつて君臣くんしん位を定め、政治の運用もまたそれによつて行はれて來た。しかし中古ちゅうこ時代、すなわ大和朝廷時代までの法令は、大小の綱目こうもくを明らかにせずいまだ不完全なるを免れなかつたが、くだつて天智てんち天皇近江おうみ朝廷にいたり、大いに面目めんぼくを一新して法令ことごとく完備し、更に藤原のちょう(文武天皇)にいたり、實際じっさいみ行つた結果、加除かじょ訂正ていせいするところ少なからず、つひに完全なる法令を得て、一定不變ふへん恆法こうほうとされるに至つた。これによつて遠祖とおつみおやの正しいのりを考へ、また歷代天皇み行はせられたすめらぎの道をも考へて、天子の位をうけつがねばならぬのは皇太子である。しかしながら皇太子は、まだ幼少であつて政治のことがよく分らない。ただ鳳曆ほうれきにぎつて天子の位につき、もつて天子のまつりごとを執らうとするのは、これを輔佐ほ さしてくれる賢才けんさいがあるからである。すなわち賢才が、皇太子の左右にあつてこれを輔佐し、よく羽翼うよくこうをあらはしてくれたならば、天下は太平となり、はじめて皇運こううんを安んずることができるであらう。ましていわんや舍人とねり親王新田部にいたべ親王とは、百せいまれにみる賢才であり、ことに皇室との關係かんけい支那し な宗廟そうびょうの制たる昭穆しょうぼくに合致し、わが皇室の柱石ちゅうせきであり、國家の重鎭じゅうちんである。それでよくその信ずるところを披瀝ひれきして、皇太子を補佐し、仁愛じんあいと正義の道をふみ行はしめ、扶翼ふよくの任をまっとうせよ。さうすれば天下は必ず太平に治まり、國家の隆泰りゅうたいは期して待つべきものがあらう。二親王はよろしく自己の責任の重大なるを思ひ、よく言行をつつしまねばならぬ。

 思ふに二親王はわが皇室の年長者であり、またちんにとつても重要な人である。それで褒美をあたへて、その功績を表彰するであらう。しかしながら德をとうとぶ道には、むかしからのならはしがある。したがつて親をとうとぶのが今もなくてはならぬ。そこで一ぽん舍人とねり親王には、內舍人うどねり二人ふたり大舍人おおとねり四人、衞士え じ三十人、ふう八百し、以前からの分と合算して合計二千戸を、また二ほん新田部にいたべ親王には、內舍人うどねり二人、大舍人おおとねり四人、衞士え じ二十人、ふう五百戸をし、以前からの分と合算して合計一千五百戸をあたへるであらう。その舍人とねりは、身のまはりの雜役ざつえきに奉仕させ衞士え じは往復の途中を警固けいごさせよ。御身おんみはよく身をつつしみ、そして朕の意にふやうにせねばならぬ。

【備考】このみことのりを下された前後の御事情をあんずるに、先帝元明げんみょう天皇には、和銅わどう八年(皇紀一三七五年)九月二日、老衰のゆえをもつて位を去りたまうたが、當時とうじ皇太子(後の聖武天皇にして時に御年十五歳)いまだ御幼少なりしためみことのりして位を皇女こうじょ氷高ひだか親王ないしんのうゆずられた。すなわち第四十四代元正げんしょう天皇これである。本來ならば皇太子が踐祚せんそせらるべきであるが、御幼少であらせられたため、氷高ひだか親王ないしんのう(元正天皇)の御卽位ごそくいをみた次第で、このことは本詔ほんしょう

 列代れつだい皇綱こうこうを考へ、洪緒こうしょ承纂しょうさんするは、れ皇太子なり。しかれども年齒ねんしわかく、未だ政道せいどうならはず

とあるにみても明らかである。天皇資性しせい溫厚おんこうにして、深く仁心じんしんに富ませたまひ、起坐き ざはなは嫻雅かんがにましまし、ことに皇太子に望みをしょくしたまふことおん深く、養老ようろう三年十月このみことのりを下して、一ぽん舍人とねり親王および二ほん新田部にいたべ親王に、皇太子輔佐の重任を命じたまうたのである。時に皇太子は御年おんとし十九歳であらせられた。

 舍人とねり親王新田部にいたべ親王とは、奈良朝初期の英才として、共に特筆すべき存在であらせられた。元正げんしょう天皇が二親王をいかに重用されたかといふ事は『百せい松桂しょうけい本枝ほんし昭穆しょうぼくに合ひ、萬雉ばんち城石じょうせきいわおのごとく國家に重し』とおおせられたことや、また『二親王品封ほんぷうによつても、知ることができる。すなわちこのみことのりによれば、舍人とねり親王には、ふう八百戸をし、前を通じて二千戸をたまふとあるから、當時とうじ(養老三年十月)すでに同親王品封ほんぷうを有せられ、同樣どうよう新田部にいたべ親王をもつて居られたことを知りうる。しかるに大寶令たいほうりょうによる親王品封ほんぷうは左の通りで、となつて居る。

親王品封ほんぷう(但し三位以上に限り、封戸より納附する田租の二分の一と、その調・庸の全部を給與されるが、故なくして、出仕せざること二年に及べば、給與を停止される規定であつた)

 は八百戸、は六百戸、は四百戸、は三百戸

 すなわりょうの規定通りであれば、舍人とねり親王は八百戸を、新田部にいたべ親王は六百戸の封戸ふ こを有して居らるべき筈のものが當時とうじすでに兩親王がそれぞれ一千二百戸と、一千戸とを有せられたことによつても、その重用じゅうようせられしことを知りうるが、更に元正げんしょう天皇は皇太子の輔佐ほ さを命ずるにあたり、特に二親王に前記の如き破格の恩賞をあたへられて、この重任を託したまうたのである。